225話 世界にたった1輪の優しさを《Present》
促されて一室に入るとまず目に入ったのは天井の高さだった。
中天の辺りから降り注ぐ陽光がガラスを通して7色に変化している。
「わああ……!」
あまりの荘厳さに息を呑む。
見上げる緋色の瞳が丸くなって瞬く。
「すごぉい! いろんなものがきらきらしてるっ!」
モチラは思わず耽るようにして立ち止まった。
案内された一室は、もはやどこを見ればよいののだか。部屋も――無駄に――広ければ、飾られているものはすべて輝き光を帯びている。
そしてそれらすべてが宗教的風体を秘めていた。天使の彫像、十字の描かれた燭台、アンティークな家具に、天を称える油絵など。
これではいったいどちらが王宮なのだろう。聖城の高級感とおよそ等しいまでに絢爛豪華と飾られている。
「宗教ってのはずいぶんと儲かるんだなぁ」
ミナトは感銘に震えるモチラの小さな手を引く。
はぐれてしまわないようそっ、と優しく、幼子をエスコートする。
モチラにとって色々な場所を見て回るのは刺激があって良い。しかし状況は些か緊迫していた。
いいようのない不安がちりりと肌の表面を焦がすみたいだった。
「どうぞこちらへおかけください」
すんと澄ました修道女が椅子を引いて着席を促してくる。
給仕も兼ねているのか佇まいは慎ましい。それでいて発する声もまた体温が感じられぬほどに涼やかだった。
ミナトとモチラは導かれるがままに着座する。引かれた椅子に腰を落ち着ける。
「広々とした部屋の中心にちんまい卓が1つか。なんだか落ち着かないなぁ~」
背を豪快にもたれかけて足を組む。
モチラもとん、と床を蹴って椅子の上にちょこんと座る。
卓の上に両手を放りだす。一般的な格子状の椅子の横から真っ赤な尾っぽをたらり、垂らす。
そしてザナリアも躊躇いもせずミナトの間隣に陣どる。
「あまり肩肘張らずお寛ぎになってください。お父様はたびたびこういった催しを好むのです」
すっかり乙女の様相からかけ離れていた。
身なりを整え鎧をまとうのがもはや正装。乙女をまとうは騎士の板金と大柄な剣くらいなもの。
とはいえミナトにとっては鎧をまとうというより元に戻った感覚である。清楚なネグリジェ姿のほうが彼女にとって非日常なのだ。
ぐるぅり、と。首を一回ししながらひとしきり周囲観察を終える。
「見た感じずいぶんと実入りがいいんだな。教会とかってもっと質素に落ち着いているもんかと思ってたよ」
「先ほど王の権威をお教えした通りこちらもまた飾らねばならないのです。神を御讃えする中枢として機能する聖城も本部である宮殿も飾るからこそ威厳を民に示せるのです」
ザナリアはしたり顔で教鞭を奮う。
見せつけるように分厚い籠手の指を振った。
「まあ確かに信仰するにも大本山がみすぼらしかったら称えたくもなくなるか」
「お客様をお迎えすべき場くらいは体裁を整えねばなりません。決して私利私欲のために私服を肥やすなどということはありませんのであしからず」
そうして雑談交えながら待つこと1分となかったか。
丈の短くボディラインの浮いた修道服の女たちがぞろぞろと卓を囲いはじめる。
それと同時に数代の鳥籠を模したような洒落たカートを引く。
「それではセッティングをはじめさせていただきます」
うちひとりの修道女が畏まるよう礼をした。
自然な流れでザナリアが「どうぞ」と、短く応対する。
すると修道女たちは一斉に行動を開始した。
手早くしかし音ひとつたてることさえない。まるでフォーメーションでも組んでいるかと思うほどの手さばきでテーブルをセッティングしていく。
「わ、わわ……!」
あまりの早さにモチラは怯えたように身を震わす。
手が視界へ次から次に飛びだして景色を変える光景に腰が引けてしまう。
「怯えることはありませんよ。彼女たちは教団のおもてなしを請け負うプロですので」
「つまりハイシュフェルディン教のお抱え修道女ってコトかい?」
「教祖であるお父様を専属的に手助けするという意味で言うならばそういうことになりますわね」
こちらで話している間でも彼女たちは脇目も振らず没頭する。
カートからクロスを手にとり卓を覆う。それから茶器や皿を個別に設え、菓子の乗せられたスタンドを中央に配置する。
ぼんやりと見ていると瞬く間にアフタヌーンティーの卓が完成するのだった。
そして機を見計らうようにしてハイシュフェルディン教が巨大な扉から姿を現す。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。娘の友をどのような趣向でもてなすか少々手間どってしまいました」
ザナリアは振り返るなり父の姿を見て慌てて立ち上がる。
「それは式典用の衣装ではありませんか!? このような茶会の場になぜそのような高貴なお召し物を!?」
「いやはやどうにも珍しいお客様に私は浮かれてしまっているようです。なにしろ娘の友であり他世界の種族、その上聖女様側に仕えるお客様なのですから」
ゆっくりとした権威そのものを踏みしめるような歩調で歩み寄ってくる。
そうして修道女が恭しげに引いた椅子に腰を下ろすと、卓に儀式杖を立てかけるのだった。
「さあそれではお茶を嗜むとしましょう。もし舌に合わぬのであれば別なものもご用意できますので気軽におっしゃってください」
ハイシュフェルディン教が満面の笑みで手を叩く。
すると修道女たちがこぞって茶を各々の陶器に注ぎ入れていった。
立ち昇る紅茶の香りが鼻腔を脳まで突き抜けるかのよう。彩り豊かな色合いがわあ、と拾い室内いっぱいに敷き詰められていく。
そのなかでも幼子の気を引いてならないものが、茶請けの甘菓子。
モチラは、修道女が丁寧に切り分けてくれた焼き菓子に、目を爛々と輝かせる
「おいしそう!? なにこれ!?」
「それは妖精種が好んで作るという郷土料理のひとつ、牛の乳を使った光輝の翅なるお菓子ですわ。それと紅茶はエルフの特定地域でのみ手に入る特別な茶葉です」
ザナリアは籠手を外すとティーカップを指で摘まむよう鼻先に近づける。
尾を揺らしてはしゃぐモチラと異なり、大人の風格を見せつけた。
軽くくゆらせながら香りを楽しんでそっとカップのふちに口づけを交わす。近くでモチラがガツガツと菓子を貪るのも意に介さない。
まるで絵本のなかのワンシーン。多くの召し使いを待機させ甘く豊かな香りのなかに高貴な花が咲く。
ミナトはザナリアの横顔に目を奪われそうになりながらも姿勢を崩すことはない。
「ふぅん特別な茶ねぇ。オレみたいな馬の骨に贅沢なことで」
背もたれに構えて威圧的な態度をつづける。
と、ハイシュフェルディン教はそんな彼に向かってにんまり口元のシワを深めた。
「毒などは入っておりません。どうかひとくちでもお楽しみください」
「はじめからそんなもの疑ってませんよ。だって――アンタはオレに話があって誘ったんだから毒なんて入れるわけがない」
卓を隔てて目の前にいるのは敵である。
ならば無駄な礼は省く。最低限の体裁を整えるまで。
「そんでオレみたいなガキにいったいなんのようがあるんですか?」
単刀直入に問う。
正直なところ長居をする気はハナからないのだから。
どれほどこちらが慇懃無礼であっても融和の笑みは保たれたまま。
ハイシュフェルディン教は、ミナトの粗暴を気にした素振りもなく、つづける。
「聖誕祭も残すところあと僅かとなりましたがそちらの首尾は如何ですかな?」
「盤石なそっちと比べてこっちは猫の手も借りたいくらいですよ。足並み揃えるだけでいっぱいいっぱいってとこっす」
本当のことを教える理由はない。
が、だいたい本当のことだった。勝算がまったく見えていない状態にはかわりはない。
ハイシュフェルディン教は耽美な表情で目を細める。
とても子がいるとは思えぬほどに若々しい見た目をしていた。娘のザナリアと兄妹といわれても差し障りないほど色男である。
「いまからでも勝負を下りるという手もあります。無益な労を費やすのはもったいないではありませんか」
まつげも長ければ声まで凜々しい。
銀燭銀糸の種族的特徴も彼を引き立てる材料でしかない。さらには財力にも長けて信仰まで厚いときたものだ。
こんな男に言い寄られれば容易に暗いといってしまう女だっておおいはず。
「……ちっ。そういうことか」
しかしミナトは黙して不快感を顕わにする。
胡散臭い。言動も行動もそのすべてが胡散臭くて鼻が曲がりそう。
「もし早急に聖誕祭が終えられれば私どもも貴方がたにご協力の手を差し伸べることが可能です。必要な費用、必要な労働力、必要なあらゆるものを教団側で工面して差し上げましょう」
「つまり教団側へ人種族を引き抜くということをおっしゃっておりますの!?」
ザナリアはたまらずといった様子で卓を叩いた。
「引き抜きだなんて恐ろしいマネはしないよ、ザナリア。ただ私は聖誕祭が終わってからともに手をとろうと提案しているだけなのだからね」
それを父は咎めもせずにんまりと微笑むだけ。
甘言。なれどこれほど人間側に魅力的な話はない。
はじめから聖女側に組みするのはブルードラグーン修繕費を礼金で賄うため。そのすべてを教団側がもってくれるというのであれば、聖女側につく理由はない。
しかしそれでは気に食わない。なにがというよりこの男の胡散臭い笑顔が気に入らない。
「なんでこのタイミングなんですか? もっと早くにバーターを名乗りでられたじゃないんですかね?」
「私自身が聖誕祭へかかりきりで手が回らなかったことが起因しております。それと祭りとして民が楽しむ余地も必要でしたので」
ハイシュフェルディン教は申し訳なさそうにミナトへ浅く1礼した。
そこへすかさず「お父様のいう通りですわ」と、ザナリアが割って入る。
「お父様は大陸全土の村々にまで赴き供物の采配をなさっておられました。なので急務により時間がとれなかったというのは真のお話です」
彼女が言うのであれば事実だろう。
ザナリアに嘘をつく理由はないし、嘘をつくことさえ彼女の流儀に反している。
しかしハイシュフェルディン教はすでに1つの罠を踏んでしまっていた。ミナトが即行で仕掛けた寵愛を崩す策がすでに成っている。
――オレみたいなガキと取引がしたいわけだ。頭の良い大人が入る余地をなくすために。
バーター。要するに物々交換の意。
これは取引なのだ。互いの利益を交渉する行為。
つまりハイシュフェルディン教が人間に持ち掛けているのは一方的な施しではないということ。
ならば彼は人間になにを求めているのか。それは当然彼の言葉にした1つのみであろう。
ハイシュフェルディン教は。聖誕祭で人間に助力を願っているわけではないのだ。
「つまりいまからでも聖誕祭へ関わらないで欲しいってなわけですか。オレたち人間をなぜか舞台から下ろしたいってことですね」
ミナトは確信に至って鋭く貫いた。
一瞬だけ。なにか足下をくすぐられるような間が開く。
それからハイシュフェルディン教は笑顔を被ったまま手を合わせる。
「ええその通りです。ひとことで良いので貴方からそちらの主に進言してくださいませんか。我が娘だって友とともに歩む道を選んでほしいはずです」
これでようやく本音が引きずりだせた。
ハイシュフェルディン教は聖女を攫った上に人間まで気にかけているということになる。
ならばこちらの答えはひつきり。相手の思惑通りに動いてやるものか。
「絶対にお断りします。あ、このケーキと茶かなり旨いな」
バターの良い香りのするパンケーキひとくちに頬張る。
ほどよく冷めた紅茶もがぶりと味わわずに底を乾かす。
「もっと良く味わって食べてください! それでは紅茶の奥深さもわからないでしょう!」
「ほら余ったオレのぶんはモチラが食べて良いぞ」
「ほんと! みなとありがとっ!」
「私のこと無視しないで頂けますか! あともっと欲しいのならいえば用意させますよ!」
ミナトのだした答えは、拒絶だった。
しかしハイシュフェルディン教はなおも笑みを崩すことはない。
娘たちとそれ以外のやりとりを頬を緩ませ漠然と眺めている。
「それはとても残念です」
2拍ほど手を叩く。
音の合図で部屋の端に待機していた給仕が早足で彼の元に仕える。
「お気に召していただけたようなのでおかわりのご容易をしておいてください」
「かしこまりました」
スリットの入った修道服の片側を持ち上げ礼をしてから去って行く。
そのまま音のない早足で部屋の大きな扉から外にでていってしまう。
――いまのうちにもう少し奥まで攻めこんでみるか。
ミナトはもう一歩踏みこんでみることにする。
だが、この場で「聖女攫った?」なんて。娘の前で聞くわけにはいくまい。
とはいえ直球だけが芸というわけではない。選べば言葉は時として武器となる。
「そちらさんのほうでは元気にやってるのかい?」
どうとでもとれる問いかけだった。
しかし知る者であればこれほど気味の悪い質問もないだろう。
ハイシュフェルディン教は口まで運びかけたティーカップをソーサーへ戻す。
「……。ええそれはもう食事も睡眠もしっかりとっておりますので万全です」
「なら良かった。間違って怪我でもしてたらことですからね」
「ふふ。ご心配なさらずとも」
聞く者によってはこれほど自然な不自然もない。
ザナリアは戸惑いがちにミナトと父を見つめていた。
「え? え? ミナトがお父様を心配するとはどういった風の吹き回しなのです?」
現在聖女誘拐の情報規制がかけられている。
ゆえに彼女はこの会話の芯に籠められた重大さに気づくことはない。絶対不可能。
そしてこれで確定する。というよりあちら側が意図的に肯定してくれた。
おそらくハイシュフェルディン教は、この場で娘に誘拐の事実を知られることを忌避したのだ。あるいは小僧如きが動いたところで戦況が変わらぬと遠回しに舐め腐っているのか。
とにかくこれで聖都を駆けずり回らずに済むというもの。なぜなら聖女テレノアを計画的に誘拐したのは教団で確定だった。
「それじゃそろそろこっちもお暇するとしますかね。旨い菓子と紅茶どうもごちそうさまでした」
ここまで攻めこめればもうこの場に用はない。
ミナトは早々に椅子を引いて立ち上がる。
しかあし踵を返しかけた背に僅かな威圧が刺さった。
「先ほど小耳に挟んだのですが道理を変えたいというのはどういうことでしょう?」
振り返ってもそこにいるのは、変わらぬ美丈夫である。
修道女に注がれたばかりの紅茶をソーサー片手に楽しんでいる。
「我々教団側は現段階でそちらの供物量をすでに大きく上回っている。まさか小細工を弄して負けを覆せるとお考えですかな」
腹が立つほど絵になる男だった。
身につける宝飾も、貴金属も、刺繍もそれらすべてが彼を上位たらしめる。
それほど恵まれているのに男は笑わない。顔だけを作っていても笑っていない。
「ずいぶんと浅はかな読みだな」
「……浅はか、ですと?」
対してこちらがいつでも笑える。
愉快痛快爽快に歯を見せながらニヤリとほくそ笑むことだって容易い。
「いまのルールじゃこっちが勝っても全然嬉しくないんだよ。だから無理矢理にでもルールを変えたいんだ」
聖女を攫った犯人が判明したいまとなってはもう遠慮はいらぬ。
道化の皮を被って覆い隠す必要はない。敵意をふんだんに散りばめて笑む。
「もっとわかりやすくいうなら優勝して得られるのが血濡れのトロフィーじゃ反吐がでるってことだよ」
剥いた歯、口角、眼球、目端のシワ。
それらすべてに嬉々とした鬼気を孕ませる。
「……勝つ? 私の耳が聞き間違えてしまったのでしょうか?」
カップがかちゃりと卓に落ちた。
白いクロスの上に琥珀色のシミが広がった。
ハイシュフェルディン教はゆらりと物々しげに椅子から立ち上がる。
「いま貴方は我々に勝つ、と? そう、おっしゃられたのですかな?」
両腕を放るようだらりと垂らす。
人の頭ほどもある冠帽がはだけて銀の細やかな髪が顕わとなる。
「く、くく……くく……!」
曲がった上体の丸くなった背がひくひくと痙攣した。
そしてハイシュフェルディン教は勢いよく身体を振り起こす。
「ハァーーハッハッハッハッハ!!!! キッ、ヒヒヒッ、ヘヘヘオホホホッ!!!」
爆ぜるようでいて下卑た笑い声が荘厳な屋内いっぱいに放たれた。
高い天井やら神秘な置物を縫ってうわんうわんと反響する。
「お、お父様……?」
これには娘であるザナリアも青ざめたじろぐ。
だがハイシュフェルディン教は堰を切ったかの如く声を高める。
他者の目さえ憚らず。天真爛漫に大口を開いてゲタゲタと腹を抱えていた。
「まるで少年の見る無垢な夢の話ではないですか!!! 愛おしい!!! 非常に愛おしく滑稽だァ!!!」
まるで下手なダンスを踏むかのようだった。
ハイシュフェルディン教はよろよろ正装の裾を巻きながら老人のように身をよじって笑い転げる。
あまりの変貌にミナトでさえ目を疑った。
――なんだこいつこの変わり様は? さっきまでとはまるで別人じゃないか?
「ああ良い!!! 非常に良い!!! その濡れた鼠の如き視線に晒されるとこの身に快楽を超えた悦楽が迸っていくみたいだよ!!!」
その仕えるはずの修道女たちも彼の激変に恐れ、戸惑う。
先ほどまでの美と尊を着た男とはとても思えぬ。それほどまでに卑しく、醜い素振りだった。
猿のように手を叩く。喉奥が見えるほどに顎を開く。そして開かれた目は零れんばかり。
「私の娘が聖女になる!! これは絶対不変の決定事項なのです!! それを貴様のような小汚いガキ如きが変えられるわけがない!!」
唐突になんの前触れもなく男の面の皮が剥け落ちた。
少なくともミナトにはそっちのほうがよほど彼らしいとさえ思えている。
「……それが執念の正体か。本当の狙いは玉座じゃなく聖女のほうだったってわけだ……」
聖女誘拐のときにも感じたおぞましさ。どうやら気のせいではなかったらしい。
この聖誕祭に漂っていた違和感がいまこの場で露見した。
教団側の狙いはいうまでもなく勝つことにある。そして勝って己の娘を聖女に仕立て上げる。
「ザナリアが聖女となればこの爛れ腐った世界は大変革を迎える!! すべて我が手中にて森羅万象が幸福を讃え歌いだす!!」
そう、それすべてこの男が軸として行われているのだ。
己の個の欲望。あふれんばかりの欲に塗れて愉悦を叫び散らす。
「これははじまりの灯火なのですッッッッ!!!!」
喧々と貪欲な猿声がみたび轟いたのだった。
これではもはや病気ではないか。情緒不安にもほどがある。
「こ、こんなの……お父様じゃない」
父の変貌にザナリアでさえ恐れ慄いてしまう。
ミナトはそんな彼女の震える手を握りしめる。
「気持ちよくらりってるとこ悪いんだがね。オレたちがワンチャン勝ったら大層な夢も泡になって消えるんだぞ」
と、あれほど耳障りだった笑い声が消えた。
ハイシュフェルディン教は目を血走らせながらふふ、と頬を和らげる。
あれほど舐め腐っていたミナトに細やかな礼を送った。
「そうですね貴方の言葉にも一理あるとしましょう。ですので我々には不穏分子をもう1つ潰しておくという手をもつ」
次の瞬間一室に怒濤の如く兵が詰め入ってくる。
そしてあっという間にミナトの周囲を鎧兵たちがとり囲んでいく。
「丁重に彼を私の別荘にご案内しなさい。もし彼が望むのであれば望むものを与えてあげると良い」
まるではじめからこの部屋の前で待機していたかのよう。
というよりハナからハイシュフェルディン教の罠に掛かけられていたのだ。
その証拠にでていったはずの修道女が入り口のところでほくそ笑んでいる。おそらくは彼女を起点とし雪崩れこむ準備が整っていたのだ。
「お待ちになってくださいお父様!! このような蛮行が許されるはずがありません!!」
ザナリアが異を唱える。
だがハイシュフェルディン教はつい、と手を振る、
すると衛兵たちが彼女を組み伏せにかかる。
「離しなさい!! こんな非道な手を使ってまで勝ちへ縋るなんて正気の沙汰ではありません!!」
そしてそのなかにはあのお付きの騎士が混ざっていた。
「すみませんお嬢様!! しかしこうするしかないのです!!」
「お許しくださいませ!! こうしなければ貴方をお守りして差し上げられぬ!!」
「ミナト!! ミナト!! 早く逃げて!!」
ミナトと繋がっていた手が強引に解かれてしまう。
そしてザナリアは容易に組み伏せられた。そのまま騎士たちの厚い壁に呑みこまれていく。
残されたのは、数えることさえ面倒な教団騎士の壁。それと元凶とミナトたちだけ。
「わーわーわーわー喧し過ぎてお茶どころの話じゃないなぁ。もう数日でイヤでもけりがつくんだそう焦るんじゃないよ、ったく」
「もし抵抗を試みるというのであれば少々強引にいかねばなりません。私とて1人の娘の親、可能であれば若い貴方に痛い思いはさせたくない」
逃げるという選択肢はもはや絶たれた。
この数の兵を相手に腰の剣でも抜こうものなら一瞬でわからされてしまう。
しかしそれは人間1人だけならばの話。
「モチラ、ヨルナ。そろそろこんな場所で油売ってないで家に帰るとしよう」
と、ミナトのすぐ横の空間がゆらりと揺れる。
そして揺らぎが徐々に少女の姿を作りだしていく。
「ふぅん。ずいぶん仰々しい連中に囲まれてるじゃないか」
ヨルナが姿を現すと騎士たちに動揺が広がるのがわかった。
さらにこちらの戦力はもう1匹いる。
「……? みんなでいじめるの?」
モチラは騎士たちを見渡しながらきょとんと首を傾げた。
龍の子とはいえ龍である。それは人間よりよほどこの世界の住人のほうが理解しているだろう。
「龍だ! 気をつけろ!」
「もう片方はヒュームだな! ならば恐るるに足らず!」
「いや待て!? あの姿はまさか創製のヨルナじゃないのか!?」
途端に一方的だった空気の流れが様変わりする。
ヨルナの存在に気づいたエーテル族たちは長槍や斧槍といったそれぞれの長物を構えた。
「それでもこちらの優位は揺るがない!! 数的有利さえあれば圧倒できるぞ!!」
まだ騎士たちはやる気つもりらしい。
つまりそれだけこちらを見くびっているということ。
ならばそろそろ明かしてやらないと気の毒だろう。はじまってから後悔したのでは遅い。
ヨルナはひょいとモチラを後ろから抱きかかえる。
「この子、焔龍の子だけどそれでもやるのかい?」
「え、焔龍の娘!?!? そ、そそ、そのような虚偽に惑わされるものか!!!」
明らかな戸惑いだった。
騎士たちはモチラを見て一瞬のうちに動揺を感染させていく。
しめたとばかりにヨルナはもう1手を押す。
「もしぃ~? ここで娘に手をだしたなんてお母さんに知られたらぁ~? 聖都なんて塵ひとつ残さないんじゃないっかなぁ~?」
隠しようもない棒な演技だった。
しかしそれが教団の騎士たちに余計な疑念を植え付ける。
そしてしだいにぞろぞろ、と。ミナトたちの前には海が割れるようにして1本の道が完成した。
被害から考えるのならば主の命を無視すべきと考えるのが妥当なはず。しかもハイシュフェルディン教からも命令が下されていない。
逃げられぬのであれば、堂々と玄関からでて行けばいいだけのこと。
ミナトは兵に見送られながらのんびりと部屋の出口を目指す。
「笑いたければ好きなだけふんぞり返って笑っていればいいさ」
きたときとまったく変わらない。
同じように。誰にも邪魔どころか止められることさえなく。意気揚々と出口に向かう。
そしてその道中に組み伏せられたザナリアが横たわっている。
「貴方は……やはり聖女の側につきつづけるのですね。そしてお父様を聖火へ誘うということさえ厭わない」
苦しそうでいて失望の滲む声だった。
どれほど悪辣であれ彼女にとって父は父でしかない。失いたくないのだ。
母を病で失ったザナリアにとって彼が最後の家族。であるからこそ思い悩みつづけるしかない。
だからこそミナトは彼女へ道を示しにきた。迷い悩む少女にただ1つ与えられるものがある。
「うちのリーダーが勝つっていってるんだから勝つさ。そのあとのことはそのあとで決めれば良い」
「では……私と完全に敵対するということなのですね……」
「おう後悔しないために全力でかかってこい。うじうじ余計なことは考えないで自分の守りたいモノを守るためだけに剣を握れ」
しおらしくうつむいていたザナリアがハッとしたように瞬く。
そうしてミナトは、また前に向かって歩きだす。
「それじゃ聖誕祭の最終日にまた会おう。今度は会うときはしおらしいザナリアじゃないほうが嬉しいけどさ」
背にしおらしく啜り泣く声を聞きながらも決して足を止めることはしない。
ただ「……ありがとう」と。友の声だけは思いに留めて宮殿をあとにしたのだった。
聖誕祭終演まで残すところ5日。泣いても笑っても勝敗は確実に決する。
勝利の女神が微笑むのは人か、種か。聖女側とルスラウス教団側の熾烈極める戦いも終盤戦へと収束していく。
「東……頼んだぞ」
この終演の筋書きは誰にもわからぬ。
きっと天に住まう神でさえ予知することは不可能だろう。
―― ★ ―― ★ ―― ★ ――




