221話 欲望《Diablo》
秒針を刻む音。それと暗闇。
編んだ指の感覚はとうになくなっている。どれほどの時間そうやって蹲っていただろうか。
しかしそれでも祈りを捧げていなければ虚無に支配されてしまいそうになる。心細くも安寧を闇に求める。
瞼の裏に映るものは閉ざされてしまった黒1色だけ。しかしいくら祈れども神は囁かず、晴れることさえなかった。
「…………っ」
ふと誰かが近づいてくる気配を察知する。
しかしそれでも彼女は祈ることをやめなかった。
すると反響する靴音は徐々に音量を増して、部屋の前で止まる。
つづけてマホガニー製の重厚な扉が2度ほど。急ぎではない速度で緩やかに叩かれた。
「おや? 私めらが容易させていただいたご衣装はお気に召しませんでしたかな?」
男らしく喉奥の深い穏やかさに満ちた低音だった。
扉を開けて悠々と部屋に入ってきた男は、目尻にシワをうんと溜めながら佇んでいる。
背格好に帯びるは白くシミひとつとしてない神官の正装。それと大きな金十字を首から胸に垂らす。
若き様相ながら年相応に落ち着き払ってる。銀糸銀燭のエーテル族は死を願わなくば一定以上から年をとることはない。
「どうやらお食事のほうもされておられないようで。あまりご無理をなさってはいけません」
まるで猫を撫でるような声色だった。
天蓋付きのベッド横に置かれた卓の上には、手つかずの料理が放置されている。とうに熱は逃げて冷え切っており香りもだし尽くして出涸らしとなってしまっている。
それでも彼女はひとこととして彼と言葉を交わそうとしない。
「…………」
漫然と一文字に唇を閉ざしつづける。
まんじりともせず祈りを捧ぐことのみをつづけた。
「ではこちらのお料理は下げてまた新しいものを作らせましょう。なにかお好みのものがございましたらご自由にお求めください。可能な限りご用意出来るよう努めさせていただきます」
「…………」
なおも無視を決めこむ。
正直なところ男が登場した段階で祈りを捧げられるような精神状態ではない。
しかし彼女本心としては生娘の如く泣き喚いて逃げてしまいたかった。
「無論のこと毒などは入っておりません。必要であるなら次回から毒味役も用意いたしましょう」
これほど嫌がられているのに平気な調子を崩すことはない。
男は一向に部屋からでていこうとはしなかった。
融和を愛し教えを説かんといった微笑で面を塗り固めている。
「このまま痛んでしまっては食材ひいては調理した者たちに申し訳がたちません」
「……。あとで大切にいただきますのでそのままにしておいてください」
「ではそのように」
彼女がたまらず応じてしまう。
するとハイシュフェルディン教は恭しく礼を贈った。
慈愛の笑みを浮かべながら十字の掛かった胸に手を添え謙遜を示すのだった。
だがそれらすべては偽り。偽造、上塗り、上っ面。
でなくばなぜこのような不自由のない不自由を強いられなければならぬ。
いつまでも立ち退かぬ男に嫌気が差し、祈りを止めて立ち上がる。
「……っ」
瞼を開くと双眸が世界を映す。
同時に魔法の火が燭台と瞳の奥を焼いた。
淡き光に僅かばかり白ばみを覚える。そうして瞳が絞られると、嫌が応にでも気づかされる。
鎧下のまま攫われたテレノアの前には絢爛豪華な一室が広がっていた。
「聖女様の為にご用意させて頂きました一室の居心地は如何でしょう?」
「っ、醜悪極まります。一刻も早くこの部屋から解放されることを望むくらいには酷い心もちです」
当然だが脱出の足掻きはもう終えた後だった。
そしてなおテレノアは囚われつづけている。つまるところ脱出はどう足掻いても不可能だったのだ。
部屋の大きさ彼女の私室と比べて倍はあるか。ベッドも天蓋付きで見るからに高級品。座ると尻がすっぽりと埋もれてしまうくらいふかふかなものを使用している。
部屋の四辺にベロア調の滑らかで光沢のある布地によって設えられていた。それ以外にも金や宝飾の施された燭台や家財もまたどれも極上の品である。
しかして布1枚が剥がれれば奥にあるのは灰色一色。部屋の至る所が貝と砂を混ぜて水で溶いた膠泥によって閉ざされてしまっていた。
「この一室は地下に設えさせたモノで周囲から隔絶されております。さらには聖誕祭が開始される以前より聖女様をおもてなしさせていただくご用意が整っておりました」
ハイシュフェルディン教はこの期に及んで慈愛の笑みを崩そうとはしない。
逆にその敬意を払う所作がテレノアにとっては気味が悪かった。
――なんとかして脱出の糸口を探さないと……!
態度や表情には決して感情を乗せないよう注意を払う。
だが、その身はとうにいますぐにでも泣き叫びたいくらい怯えていた。
これはもてなしなんて上等なものではない。ただの誘拐である。
あの夜フィナセスとレィガリアが去った後に事件が起きた。
テレノアが眠ろうと気を緩めた瞬間の出来事だった。なんらかの魔法が部屋全体を覆う気配に気づくと、同時にバルコニーから教団騎士が複数ほど乗りこんできたのである。
それから四肢を縛りつけられ、猿ぐつわを噛まされ、麻袋を被せられ、気づけばここにいた。
すべては聖誕祭開始以前よりこうなるよう仕組まれていたのだ。教団側の教祖ハイシュフェルディン・ルオ・ティールの目論見通りだったということ。
「ではこの不愉快な指輪でさえ計画的に用意したということですか」
テレノアはキッとキツく睨みつけた。
その掲げた指には指輪がはめられている。当たり前だが願ってはめているのではない。どうあっても外れないのだ。
それだけでも気色が悪いというのに、さらに指輪には謎の効果が働いているではないか。
「ええ勿論ですとも。ご歓待の準備に不足はありません」
「ふざけないでください! 体内マナを強制的に吸いとる指輪なんて呪物の類いに他なりません!」
強制的にハメさせられた指輪には、魔法封じが施されている。
しかも勝手に外されないよう呪いまでかけてあるという始末の悪さ。
体内マナがなければ魔法は使用不可能となってしまう。というよりこの指輪によって体内マナが常時吸収されてつづけてしまっているのだ。
武器も魔法もない状態では身ひとつで脱出は困難。逃げられぬすべての元凶こそ、この銀に青いライン入った指輪だった。
「その指輪の名は静謐とおっしゃるようです。所有者のマナを常時に無の状態へ変えてしまう希少品。魔法で部屋から逃れられてはたまりませんので無礼をご容赦願います」
そういってハイシュフェルディン教は再度同じ所作を繰り返した。
やっていることはただの婦女誘拐ではないか。ソコに礼も無礼もあったものではないだろう。
――せめて魔法が使えれば脱出の糸口くらい作れたかもしれないのに……!
魔法もない武器もない。こうなってはひとりの少女に他ならぬ。
テレノアは、指の根を締め上げる感覚に違和感を覚えながら拳を握りしめたのだった。
これほど上等な部屋に放りこまれるのなら鼠這う牢に入るほうがまだマシというもの。相応ではない部屋もまた癪に障る。
しかし怒りを表面化させたところで解決は近づいてこないのも事実だった。
テレノアは一呼吸ついて薄い胸を上下させる。少しばかり落ち着きをとり戻す。
「いったいなにが貴方様をそうまで豹変させてしまったというのですか。本来であれば我々は相互協力関係にあったはずです」
交渉になるわけがない。
こちらから与えられるモノはなければ対等ではない。
しかし対話ならば、と。出入り口の傍に佇む男へもちかけてみることにする。
「貴方様のお心代わりの理由を教えていただきたいです。なぜ唐突に反旗を翻すようなマネに走ったのか、その本意をお聞かせ願えませんでしょうか」
ここでようやくハイシュフェルディン教は出入り口の扉から身を翻す。
ゆっくりと散歩するような速さでこつり、こつり。靴音を奏でながら裾を揺らす。
「その問いにこちらからなに、と問い返すのも意地が悪いのでしょうね。聖女様が疑問に思われているのは1つのみでしょう」
部屋の外壁に沿うよう徘徊していく。
胡乱げな瞳はテレノアではないどこか別のところを見つめつづけている。
「私めが変わってしまったとおっしゃいましたね?」
「敬虔な信徒として名を馳せていたからこそ信に値する教祖であったはずです。しかし現在の貴方様にはその影が露ほども感じられません」
テレノアは移動する影を逃すまいと睨みつけた。
こちらが敵を示しているはずなのにハイシュフェルディン教は、つかず離れずの距離を保ちつづけている。
こつり、こつり。こつり、こつり。後ろ手に一定の調子を奏でながら部屋のなかを練り歩く。
「フフフ……私めが変わったのではありません。先に貴方様が変われなかったことが間違えなのでしょうね」
「私が、変われなかった?」
テレノアが問いかけると、ハイシュフェルディン教の歩みが止まった。
「きっと貴方様にはわからぬでしょう。我々の苦しみを、我々の妬みを、我々の卑屈を、我々の祈りを、我々の慟哭を、我々の衝動を、我々の卑下を、我々の感傷を。心に負わされていたそれらすべての痛みを」
そしてまた同じ調子で歩き始める。
「私は己の心のうちに閉ざしていたあるモノに気づいてしまったのです」
歩く。次の1歩を踏む前に足がさらに前へでる。
「心の奥底に押しこめ眠らせていた私自身でさえ存在を忘れてしまっていたモノ」
歩く。さらに次が踏まれるとすさかず逆の足が前をとる。
「天使様たちが地上にご降臨なさってついにそれがなんであるかを私は知りました」
練り歩く。部屋の同じコースを延々と歩きつづける。
その速度でローブがばさばさとよれて、伸び。繰り返す。
「それが如何なモノか聖女様はおわかりですか?」
歩調が早まるたびに神父服の裾が流れ速度も上がっていく。
「なぜ貴方は祈るのです? 聖女ですらない貴方がどこへ祈りを捧げるというのです? どうして決して届かぬとわかっていながら神へと媚びるのです?」
言葉の切れ目ごとに浅く呼吸をし、また言葉を紡ぐ。
声に抑揚はない。ただ1つの感情はあった。
荒く肩は揺れ、顎は首元につくくらい下げられ、もはや歩いているという状態でさえない。
「は、ハイシュフェルディン教……?」
テレノアが怯えながらも手を伸ばした。
その時。ハイシュフェルディン教の首がぐらりと揺れてこちらを向く。
「妻が病に倒れ祈れども祈れども救いは得られず。あまつさえその祈りを神へと届ける役目を担った者が不完全。いったい世界は如何様な大罪を犯したというのでしょう」
男は顔を斜めにしながら笑っていた。
しかしテレノアの目に笑っているようには見えない。
白い部分が血色の稲光を帯びるように剥かている。両の口角はシワが刻まれるほど吊り上がる。
そしてテレノアにとってハイシュフェルディン教のそれは、笑うとはいわない。
「ゆえに私は世界を正さねばならない!!!!!! 終焉へと収束するこの愛なき世界へこの手で愛を創造する!!!!! 私の元に天使様が現れたのは僥倖であり運命を意味している!!!!!! 新たなる生まれ変わりを達成した世界ではすべてが正しく機能するのだアアアアアアアア!!!!!」
失礼致しました。部屋いっぱいに発されたけたたましさが消える前に咳をひとつ零す。
ひとりの少女の心を挫くには十分だった。
この男が発したのは狂気以外のなにものでもない。
「はっ……はっ……はっ……!」
テレノアは過呼吸になって肩をついぞ痙攣させている。
目に恐怖を滲ませながら敷物の上にすとん、と。へたりこんでしまう。
「っ……っ!?」
あの一瞬で声すらだせないほどの恐怖を覚えた。
呼吸さえままならぬ。体中の奥底から震えが湧き上がってくる。
それほどまでに男の発した獰猛な咆哮は強烈だった。
執念めいていて、醜悪でいて、おびただしいまでの悪意に満ちていた。
「聖誕祭の後、貴方様には聖女の座を譲っていただきます。我が娘ザナリア・ルオ・ティールが時代の聖女と成り代わるのです」
――た、助けて……! だ、誰かこの男を止めて……!
テレノアは、恐怖に視界が霞みながらも、確かに見た。
男の目の奥には、血走るほどに凶悪な執念と怨念が同居している。
彼女の知るハイシュフェルディン・ルオ・ティールではなかった。
「そして……貴方様の魂を生贄に再誕の日が訪れることでしょう」
―― ○ ―― ○ ―― ○ ――




