212話 紫煙の夜に《Holy Rites》
急務であった。
それはもう私室に帰ってこられるのが2日に1回になるくらいの激務である。
気を抜いたら目まぐるしさに溺れてしまいかねない。1分1秒として無駄にする時間はなかった。
ゆえに入室と同時にふかふかのベッドに飛びこみたい誘惑を振り払う。履いた剣鞘を慌ただしく脱いでいく。
身に帯びる鎧は決して重い材質ではない、軽装。だが身に帯びる物というのは否応なく不自由を強いてくるもので、例外なし。
だからもう一刻も早くこの窮屈な鎧を脱ぎ捨ててしまいたかった。もうこれ以上半刻として縛られていたくない。
「むぅぅ~!」
堅く締めた固定具を力任せに解いていく。
胸甲が外されると、むわりと蒸すような汗がうち側から発散された。
つづいては手甲を外すためバンド部分を緩めにかかる。手甲が外れると締められていた血管が広がって指先にじんわり巡っていくのがわかった。
ごとり、ごとり。砂粒ひとつないほどに清潔に掃除された絨毯の上へ、戦の抜け殻が落とされていく。
「ふぅ……」
そうしてすべてを脱ぎ捨て、ようやくだった。
艶めく唇から安堵の一呼吸を漏らす。
肩肘張った心もちが鎧を脱ぎ捨てるによっていくらか和らいだ。
鎧下1枚になったテレノア・ティールは、襟元を摘まんで仰いで風を送っていく。
「魔物討伐疲れましたぁぁ~……!」
他の目があったら淫らと揶揄されてしまいかねない恰好だった。
だが生憎いまはひとりである。ざっくりと胸元の開いた薄着1枚きりでも少々くらいなら気を抜いてドヤされる謂れはない。
それに実のところ礼装のようなものなのだ。金の鎧も、胸元が涼やかな生地も、指揮官として兵たちの前に立つために必要な尊厳というやつ。
つまりところ見栄え、見栄を張る類いの制服だった。であるからこそ本来の鎧としての用途は薄い。
そしてあるていど火照りを冷まし終えたテレノアは、おもむろに両の頬を軽く2度ほど叩く。
「こんなことで弱音を吐いていてはダメいけませんっ! やると決めたからには最後まで駆け抜けると教わったじゃないですかっ!」
むんっ、と。口を山なりに、気力を補充し直す。
「いろいろな懸念はありますけどすべて勝ってから決めますっ! なのでそのためには必ずや勝ちを得なければならないんですっ!」
薄い胸をツンと反らしてからグーで叩いて気を入れ直す。
そうやってバルコニーの向こう側に広がる夜に誓い立てるのだった。
エーテル国王を決める聖誕祭もおおよそ後半へと差し掛かっている。
だからこそテレノアとしてはここがガッツの見せどころだった。なんとしてでもルスラウス教団に勝たねば立つ瀬がない。
「とはいえ今日はもうヘロヘロですねぇ~。早くお着替えしてぇぇ……お風呂は明日にしちゃいましょうかぁ~」
気の抜けると同時に疲労がどっと重くのしかかった。
テレノアはそそくさと白いスカートを脱ぐために留め具へと手を伸ばす。
正直なところ気でなんとかなるものでもない。とにかくいま必要なのは1分でも長い休息である。
「聖女様ぁ! 開けますよー!」
「ノックをした後に返事を待て。返答がないまま扉を開くのは無作法だ」
ふとスカートを脱がし掛けていた手が止められた。
なにやら廊下側から声がする。それも男女各1名ずつがどうやら扉の寸前にいるらしい。
気抜けモードはどうやらここまでのようだった。テレノアは緩みきった胸元を締め直すように表情を整える。
「どうぞ、お入りくださいな」
ノックから十分な間を開けて入室の許可を下す。
ゆっくりと扉が開かれると、向こう側から物々しい装いの騎士が2名ほど立ち入ってくる。
「夜分遅くに失礼致します」
男のほうは重装鎧に身を包む。
格式ばった礼をくれると星のようにキラキラと輝く小札がじゃらりと音を立てる。
端正な顔立ちには歴戦の猛者を彷彿とさせる傷が幾重にも刻まれていた。
「おじゃにゃんまわー!」
女のほうは軽装と軽率に身を晒すような騎士だった。
白き鎧と銀糸の髪。加えて頭の後ろのほうで白いリボンで短な三つ編みを結う。
清淡な白を基調に固めた女性は男の気難しさを裏返すかのように、軽い。
この2名こそが名高き聖城の抱える最高精鋭である。
月下騎士率いる団長レィガリア・アル・ティールと、聖騎士隊フィナセス・カラミ・ティールの聖女に使える忠信たちだった。
脱ぎ散らかしたテレノアとは違う。どちらも騎士の恰好のまま。先ほど遠征より帰還したばかりだからふたりとも自室に戻っていないのだ。
そうなってくるとこちらは殻を剥いた薄着である。こうなるとさすがに少し居心地が悪さを覚えてしまう。
「それにしても相変わらずなーんにもないお部屋ですね? もっとカーテンとか小洒落た感じのにすれば華がでますよ?」
フィナセスは部屋に入ってくるなりきょろきょろと首を巡らす。
落ち着きがない。というより気兼ねがないといったほうが正しいか。
「聖女様とお前のもつ俗な価値観を同一に語るものでないぞ」
そんな奔放な彼女と違ってこちらはいっそうの堅物ときた。
レィガリアは踵を付けるような佇まいで一瞥を済ます。
「でもこの間無断でランジェリーチェストを開けたら無地の安物ばっかりだったのよ? せっかく女の子ならその辺もしっかりオシャレにしてあげなきゃ可愛そうだと思わない?」
「無断でしてはならぬことの上位に食いこむようなことを容易くするな。なぜ聖騎士風情が聖女様の御下着まで査察する必要があるというのか」
話によればどうやらこの部屋へ無断の珍客が来訪していたらしい、
――ま、まあ別に見られて困るものはないからいいんですけど。
「あっ、レィくんうらやましーんだぁ? でも男のレィくんは乙女の園に立ち入り禁止だから見ちゃ駄目よぉ?」
「うらやんでなんぞおらん! あとその名で呼ぶな生粋の男女が!」
昔からこのふたりは相も変わらずの関係だった。
まるで獣猫と鼠、猿と獣犬であるかのよう。
このフィナセスとレィガリアの関係性をひとことで語るのはかなり難しい。
どちらも城仕えの最高戦力に位置する。ゆえに意見が合わずときおり火花を散らすことも多かった。
しかし聖騎士隊と月下騎士団は別に仲が悪いというわけではない。
どちらも仕切りなくエーテル国を憂い思う忠誠あふるる騎士たち。どちらかといえば信頼し互いに背を預け合える関係性なのだ。
「女性は見えないところにまで気を使うものなんだから! レィくんみたいに穴が空くまでパンツを履きっぱなしってわけにはいかないの!」
「その言い草……――まさか貴様!? 私の部屋にも無断で侵入したということか!?」
なんやかんや、と。こうしてぶつかり合いながらも互いの腕を認め合っている。
つまり喧嘩するほど仲がいいというやつ。
だからこれで居心地が良い。一緒にいて楽しいというのがテレノアとしては重要な箇所である。
こほん、と。主が咳のひとつでも吐けば喧噪は一瞬で幕を引く。
「我々の住まう聖城、ひいては私のお部屋もまた民のみな様による血税で賄われています。なので使うのであれば民のみな様に返還出来るような形でお使いしたいのです」
「えーっ! 聖女様はお国の鏡のような御方なんですよ! だからみんなだって聖女様にはうんと着飾ってほしいですよぉ!」
「聖女様に遣わされる金銭の類いは税とはまた別の捻出ですゆえ、お気になさることはないものかと」
こういうときに限って阿吽の如く息が合う。
しかしふたりが仕え、身をやつしながら掲げているのは、真ではない。
なによりこの身は未だ聖を宿していない。忠義に応じていないのはこちらのほうだった。
テレノアは、ちょっとはにかむような笑顔作り、貼りつける。
「私は十分に贅沢させて頂いております。聖女として不完全なうちはどうかこのままでいさせてください」
ちょっとズルいとわかっていた。
こういったらこのふたりは黙るしかないことを知っていた。
しかしすべては民たちからの施し、ふたりの忠義も聖女であるからこそ注がれるもの。
周囲がどういおうともテレノアに譲るつもりはなかった。どうあっても聖女でないこの身には不釣り合いな境遇なのだから。
「それでご用向きはなんでしょう?」
心機一転。拍を打つ。
こちらが悪くしてしまった空気の入れ換えは自分で行う。
「わざわざ殺風景なお部屋に遊びにきていただいたというのであればお茶くらいおだししますが?」
早く寝たいのはお互い様であろう。
が、せっかく遊びにきてくれたのであれば話は別だった。
テレノアとしてもちょっとくらい夜更かしもやぶさかではない。
「あっ! じゃあ私お砂糖多めのミルク濃い濃い――むぎゅ!?」
フィナセスが挙手し掛けたところで、片手にて封じられる。
小顔がレィガリアの大きな手によって包みこまれ、黙らされてしまう。
「こちらへ出向かせていただきましたのは、本日の戦果報告と聖誕祭の経過報告のためです」
「あらそうだったんですか。明日でも良かったんですけど。わざわざご足労いただいてしまいごめんなさいです」
「それとフィナセスはここに至る道中で勝手にまとわりついてきただけです。なので、報告にはなんら関係ありません」
レィガリアが嘘をつく理由はない。
テレノアもまた、彼が嘘や隠し事の下手な男であると知っている。
となればフィナセスが勝手についてきただけというのも本当なのだろう。
「それではご報告よろしくお願いします」
テレノアが笑顔を傾ける。
御意に。レィガリアは姿勢を正してから懐の羊皮紙を広げた。
聖都寝静まる頃に ほとぼり冷めぬ一室だけが長い夜を辿る。
空には暴虐の時を謳う朱の満月。もう片側には誇りと運命を称える蒼の欠け月。
朱と蒼の双月が紫煙燻らすが如く夜を照らす。種族の住まうルスラウス大陸世界を仄明かりで包みこむ。
そこから合間合間にフィナセスの茶々が入りながらも、とつとつとした報告を読み上げられていくのだった。
…… …… ……




