210話 母の体温《Haven't free LOVE》
こうなっては交渉権を受諾するしかあるまい。
相手は龍なのだ。子供、しかも新生児だからといって油断は禁物である。
あちらだって世の常識を知らぬからこそなにをしてくるかわかったものではない。
ミナトは慎重に足音を消しながら子龍の隠れる木陰へ落ち葉を踏む。
「子守はやったことないんだよなぁ……。だいいちアザーにいた子供とかオレと信くらいだしなぁ……」
そういえば、と。思い至る。
なんとこの場にちょうどいい人材がいるではないか。
しかもこの身のうちに仮住まいしている。
「なあヨルナなら子守とかやったことあるんじゃないか? 一生生きた後の魂なんだし恋だの愛だのは当然のように踏んできてるだろ?」
言い終えたミナトは、直後に後悔した。
頬の辺りに軽くピリリとするような感覚が走る。
ふと猛烈に嫌な予感がして横に首を軋ませた。
と、そこには少女の白い顔が浮いてるではないか。
「――うおっ!? 上半身だけ具現化するなよな!? 幽霊かよ、幽霊だったなァ!?」
ミナトは唐突なヨルナの出現に心臓が止まりかけた。
「鍛冶師として伝説級に名を連ねる生を重ねて真っ当な道を踏んできてると思うのかい?」
「あ、いや……」
聞こえてくるのは現物の声だった。
それも呪詛めいて特別に暗い音だった。
「気づいたら婚期と呼べる時期を10年単位で逃していたときの気持ちってわかるかい?」
ミナトは内側から己の意思とは異なる感情が膨れ上がるのがわかった。
しかもヨルナは白けきった表情でどこか遠い果てを眺めている。
「キスってするときに鼻と鼻がぶつかっちゃったりしないのかなぁ~? している間に息とかどうやってするのかなぁ~?」
「悪かったって! 謝るから純情乙女あるあるポエムを読み上げるんじゃない! オレも泣きたくなってくるだろ!」
いまのヨルナは風前の灯火というよりもはや消え去った灰だった。
生涯独身を貫いて鉄を穿ちつづけたのだ。残す魂のうちに燻るは、哀愁と焦がれだけ。
過ぎ去った時と肉体は決して帰ってこない。それが過去の残酷さだった。
そうこうやっているうちにあと僅かという距離まで詰まっている。
ひょろりと赤い尾の覗く木の幹まで残すところ5メートルといった辺りに迫っていた。
こちらの足音が近づくと、あちらも察して、ひょっこり。
こちらの様子を窺うべく半分ほど顔を覗かせる。
「…………」
「…………」
そして視線と視線がバッチリ交差した。
ミナトと子龍の間に明確な緊張が走る。
それはもう確かに、間違えようのないほどはっきりと見つめ合う。
1秒、2秒、3秒。互いにしばし時を止める。
「…………」
「や、やあ?」
「…………」
ミナトが気さくに手を振って見るも、反応はなし。
片側だけ覗かせた瞳で彼のことをじぃ、と伺うだけ。
子龍の齢は、容姿だけならばおそらく10才か、そこらあたり。くりくりとした宝石のように煌めく瞳は、穢れを映したことがないのかと思うほどに無垢を描く。
しかしなにより完成した愛らしさが目覚ましい。たとえるなら愛らしさに特化させるよう精巧に作られた子供サイズの西洋人形であるかのよう。
背からは未熟な翼が控え目に生え伸びる。臀部の尖り辺りからも赤くもっちりした尾っぽが揺らぐ。
「なにこの子超絶可愛いじゃないか!? 生物的本能に否応なく訴えかけてくるような愛らしさ!?」
一部だけ現界していたヨルナが全身を現した。
母性たまらずといった感じで子龍を見つめる目に星をきらきら散りばめ、前のめる。
「ほらほらおいでー! 怖くない怖くないよー!」
「あ、おい止めておけって――」
ミナトが止めに入るもヨルナは止まらない。
丸い尻を突きだすように中腰になりながら1歩1歩ゆっくりと子龍のほうに向かっていってしまう。
「――っ!?」
「あっ!? ちょ、ちょっと待ってよぉ!?」
結果、案の定、逃げられる。
唐突に女幽霊が現れたのだから逃げて当然――というか逃げなければ逆に心配になるというもの。
身を翻した子龍は短い足で転がるようにして逃げてしまう。
「わっ!?」
そして木の根に足を引っかけた。
そのまま受け身さえとれず。顔からすてーんと前のめりになって、すっ転ぶ。
「あーあー……どっちもなにやってるだか」
出来の悪いコントを前にしてミナトは、眉根を摘まむしかない。
「はっ!? ご、ごめん!? あまりの可愛さに冷静さを見失っちゃった!?」
「幽霊がいきなり目の前に現れた時点でただのホラーだからな。シャレにならないレベルの怪奇現象だ」
「うぅ……ごめんなさいぃ」
子龍は、すっ転んだまま動かないでいる。
尻天のようなあられもない姿勢で、ときおり尾先をひくひく痙攣させていた。
さすがに見ていられない。ミナトは龍という種族名に怯えながらも颯爽と歩みだす。
「大丈夫かい? 転んで怪我とかしてるならあとで治癒魔法かけてもらわないとな?」
そっ、と。起こすために手を伸ばす。
しかし触れるか触れないかといったところで子龍は跳ね起きる。
そしてすかさずのバックステップで距離を開く。
「さ、触らないでぇ!」
機敏さはさすが龍といったところか。
一足飛びと翼のひと薙ぎ。ミナトから最速で逃げおおせたのだった。
さらにそのまま近場の木の幹にまたも身を隠してしまう。
――……敵対的、ではないか。無闇にこっちに攻撃を仕掛けず逃げ回るだけだな。
一進一退とは、まさにだ。あるいは、ねずみごっこ、いたちごっこ。
とうにその身は泥ネズミの如く泥土塗れだった。転んだことで衣服がどろどろに汚れてしまっている。
子龍は攻撃を仕掛けてこなかった。どころか一定の距離を保ちつつこちらの様子を窺ってばかりいる。
「い、いじめるの?」
無垢色をした澄んだ瞳が、じわりと滲む。
これではもう腫れ物に触れるようなものではないか。交渉も接触も出来たものではない。
ミナトは若干ほどうんざりしながら渋面をスードラに投げる。
「……凶暴なんじゃないのか? 自由に動き回れるぶん人の赤ん坊よりタチが悪いぞ?」
「んー……だいぶん焔龍の龍気に当てられちゃってるねぇ」
スードラも観念したのか傍観をやめてこちらに歩み寄ってきた。
いちおう子龍に気を使っているのだろう。下手に刺激せぬよう足音を控えている。
「焔龍の龍気? また良くわからない専門用語がでてきたな?」
「焔龍、つまり彼女のお母さんであり龍族の頂点さ。そんな滅茶つよお母さんからでる滅茶つよオーラが卵越しに彼女へ影響を及ぼしてしまったんだね」
至極当然のように語るも、ミナトは目を細めるばかり。
スードラはやれやれと白い肩をすくめて指を立てる。
「まず龍族とは生まれながらにして属性を保持しているんだよ。僕だったら龍としての炎と、生まれ司る水だね」
くるり、くるり。ハーフ丈のグローブを帯びた黒い指が、幾重にも中空へ円模様を描いていく。
「水、土、岩なんかは精霊由来だからかなりオーソドックなタイプに分類されるかな。それに加えて邪や翼なんかの概念的な属性をもつ龍も大勢いるってわけ」
唐突な龍族講義だった。
その間にも子龍は木の幹からこちらをじぃ、と見つめるだけで、頑な。
ミナトもいちおう子龍に気を配りながらスードラの悠長な声に耳を傾ける。
「で、そのなかでももっとも強力な才を秘めるのが龍の炎と才の炎の掛け合わせ。それすなわち彼女のお母さんが宿す、焔さ」
「つまりあの子の母親は龍の炎と、才能の炎、2つとも同じ能力を授かっているってことかい?」
「授かっているどころか恵まれているともいえるね。神から賜りし奇跡といっても過言ではないくらいだよ」
ここまでの話を要約すると、子龍の親龍はもの凄く強いということ。
子龍は、そのもの凄く強い親龍から滲む強さを生前から浴びつづけてしまった。それゆえに龍でありながら卑屈になってしまっている。
「炎を司る龍にとって炎の才は最高のミックスだったのさ。だから彼女の母ディナヴィア・ルノヴァ・ハルクレートの吐く白炎は肉体どころか魂すらも灰燼に帰する。ルスラウス歴史上最高傑作の龍といっても過言ではないね」
スードラのいうことがもし本当なのだとしたら手の打ちようがない。
子龍は母のせいで現世に生まれることを拒否したのだ。
そしてようやく生まれてからもここにいないはずの強者に怯えつづけている。と、いうことになってしまう。
「ん? そうなると精霊由来でも概念的でもないリリティアはどうなるだい? たしかリリティアは白龍とかいってたよな?」
「白黒黄色なんかは色龍という分類に含まれるね。これといって属性に囚われず、秀でる才能もない。だからか支援魔法やらモノの扱いとかの後天的成長を得意とすることが多いねぇ」
ミナトが龍族への理解を深めている間も事態の進展は望めていない。
しかしあちらだってこちらで話していることが聞こえていないわけがなかった。
というよりこちらを警戒つづけているのだから一言一句聞き逃すわけがないのだ。
子龍は幹からはみでた尾をたらりと垂らす。
「われ、だれもきずつけたくない……です」
拙く揺らぎの多い音色だった。
舌足らずで発音もはっきりとしていない。
声には感情の揺らぎ、びくびくとした怯えが乗っている。
「こわいのも、たたかう、も……ひくっ、キライです」
途中からこらえきれなくなった涙がなみなみにあふれていた。
華奢な肩が嗚咽するたび、ひくっ、ひくっと揺らぐ。
「な、なんか様子がオカシイよね? 龍気に当てられて臆病だとしてもちょっと……臆病過ぎじゃないかな?」
そう口にしたのは、ヨルナだった。
子龍を見つめながらわたわたと手をこまねいている。
いますぐにでも飛びだしていきたいという心情が見てとれた。
「親が凄い強い龍だと稀に陥る兆候だね。生まれる前から焔龍の超凄い龍気を浴びすぎたんだし、生まれながらに自分が劣る存在だと勘違いしちゃってるんだよ」
しかしスードラは伸びなんてくれながら子龍を見守るだけ。
同族だからか、さして気にした様子もない。
子龍は隠れながらも震えが止まらないでいる。
それは些か度が過ぎていた。怯えすぎ。
まるで単身極寒にでも放りこまれたように見えてしまうほど。怯えきっている。
――本当か? 本当に母親が怖いだけであんなに怯えるものなのか?
ふとミナトは子龍の異様さに違和感を覚えた。
なにしろ母の身が離れてようやく生まれてきたというのに、離れた母に怯えている。
もし自信満々なスードラの語ることが本当ならば、ここまで極限に怯える意味がわからない。
「ひ、ぇ……うくっ……」
なのに子龍は怯えていながらも一定以上逃げようとはしないのだ。
こちらと距離を開けながらつかず離れずを保ちつづける。そうやってこちらのことをついぞ気に掛けていた。
――ああ。そういうことか。
ここまできてようやくミナトだけは、子龍の陥ってしまった状況を理解する。
彼女はいま、どこかもわからぬ土地に生まれて1人ぼっちだった。
信頼して良い相手さえわからず。単身極寒どころか無限世界に放りだされてしまう。
普通であれば生まれた直後に母の腕がその身を抱きしめてくれる。なのに子は母の体温さえ知らない。
「……一緒だな」
生まれたばかり、記憶もない。
なのに導いてくれるはずの親すらおらず、生まれたてのその身は孤独に苛まれている。
その上、己の存在を世に定めるために必須の大切な記号――名前すらまだないときた。
同じ境遇に情が湧いたわけではない。だが、ミナトは考える間もなく子龍の元へ歩き始めていた。
「あっミナトくん! そんな堂々と近づいたらまた――」
いいから。止めようとするヨルナを後ろ手に制す。
いまばかり他者は邪魔でしかなかった。
そして怯えきった子龍相手に力尽くは、無謀。恐怖の感情が裏返りでもしたら暴走をしかねない。かなりナイーブな状態。
ならば龍気もなければ幽霊でもない人間が、一心になって1対1を挑むべきである。
「なんとかしてみるよ。さすがにあの状態のまま放置は出来ないだろう」
ミナトは知っていた。
いま子龍の求めているものを。
《区切りなし》




