204話 キミが僕にくれたモノ《Precious Objects》
待機すること10分、15分ていどだったか。
皿がとり払われた清潔な卓の上にティーカップが並べられている。
吹き抜ける風が食後の残滓をさらってしまう。代わりに注がれた琥珀の水面からはついぞ蒸気がたち昇る。部屋中に豊かな香りを広げていた。
「さて、まずなにからお話ししていくべきですか……」
家事を終えたリリティアは濡れた手を布で拭う。
布を卓に畳み置いてからしずしずとした手つきで椅子を引く。
白いドレススカートがシワにならぬよう生地を伸ばしてから腰を据える。
「実のところ私もミナトさんにあの子のことをお伺いしたかったんです。そちらの世界に渡ったあの子が100余年に渡ってなにを成したのかを」
金色の眼差しが正面に座るミナトを見つめていた。
いっぽうでミナトはやけに味のない茶を喉に流しこむ。
彼女に尋ねたいことは山ほどあった。だが、量が多すぎて絞りきれるものか。
命の恩人は異世界からやってきていた。これだけならまだ無理矢理な解釈でなんとでもなろう。
しかし目の前にいる女性が恩人の母ともなれば話は大分変わる。恩人の母と半年後に死闘を演じなければならないのだから。
だからとりあえずわかっていることを伝えることにする。
「イージスは……心と記憶をなくして空っぽだったオレの命を拾ってくれたんだ。オレがオレでなくなっていまのオレになる切っ掛けになったのが、イージスなんだ」
震えていたかもしれない。
それでもリリティアにはどうしても知ってもらわなければならなかった。
イージスという女性が己にとってどれほど大切な存在であるかを。母である彼女には知る権利がある。
「オレは生まれてからの記憶が皆無だ両親の顔も年もなにも覚えてない。そんなオレはたった1人で死の星と呼ばれる場所に捨てられたんだ、当然役に立たないからさ。そしてそのまま飢えるか原生生物になぶり殺しにされるかっていうところでイージスがオレのことを助けてくれた。居場所と思い出と新しい名前ありとあらゆるものをくれたのが……イージス・ティールという人間だったんだよ」
考えながら。それでもとりこぼさぬよう一言一句を選出した。
語りはじめると思いがあふれてしまいそうだった。1度全削除済みのポンコツ記憶のなかには、イージスがいる。
「だからオレにとってイージスは掛け替えのない家族だった。ディゲル、チャチャさん、信、イージス。たとえ周囲がどれだけゴミクソな環境でもこの4人と一緒に暮らしていたころはオレにとってもっとも幸せだったって胸を張って宣言できる」
ミナトは己の胸板に拳をどん、と宛てた。
この言葉に嘘偽りがないことを態度と覚悟と視線で示す。
静寂をもって聞き届けたリリティアは、困ったように、はにかむ。
「……そうですか。あの子なりにがんばっていたんですね……」
身体をちょいと傾け、どこか安堵するようになだらかな肩を僅かに下げたのだった。
話している間にも脳幹の辺りで楽しかったころの思い出がフラッシュバックしていく。
3日後さえ見えぬほどの少ない食料を全員で分け合った記憶。キャンプ外で身を守る術を教わった記憶。多くの生きる方法を授かった記憶。それらすべての記憶に家族がいる。
その頃はミナトにとっても尊くも確かにあった時間だった。
そう、過去とは往々にしてもう戻ってこないことを意味している。ゆえに尊い。
ミナトが浸っていると、躊躇いがちな音に引き戻される。
「ところで……そのアナタのミ・ナ・トというお名前はイージスがつけたんですか?」
「あー……そうであるともいえるしそうでないともいえるかな?」
そのリリティアの疑問は、いわば致命傷だった。
それ関してはかなり難しい問題を孕んでいる。
ミナトはおもむろに腕を組んで苦しげに顔のシワを中央に集めた。
「なによはっきりしないわね? 名前をつけたかつけないかくらいすらすらいえるもんじゃないの?」
「でもミナトくんは記憶喪失というアクシデントを途中に挟んでいるみたいだからねぇ? もしかしたらなにかあったんじゃないかな?」
「お母さんとお父さんの記憶がないなんて……かわいそう」
異様に苦しむ姿にそれぞれの意見が分かれつつあった。
しかしそうではない。だが非常に由々しき事態なのだ。
なにしろあの朴念仁。もといイージスという女性にはいくつかあるなかでもっとも欠落していた部分がある。
「イージスのネームセンスが絶望的に壊滅的だったんだよ……
ミナトはたまらず頭を思い切り抱えた。
それを見つめる者たちの目も一斉に細くなる。
「だからオレの名前が危うくやせやせほそほそとかいうクソみたいな名前になりそうだったところを、ディゲルとチャチャさんが慌てて止めてくれたっていうかさ……。でも名前はつけないといけないから拾ってきたイージスに幾つかの案を問いただした結果、1番マシだったミナトになったというか……」
語ることさえ恥だった。
ミナトでさえすでに両手で顔を覆い尽くす。
「や、せやせ……ほそほそ? なによそのフザケた名前は? まさかそれ冗談でいってるんじゃないでしょうね?」
ユエラでさえ虫に唾を吐き捨てるような辛辣さだった。
スードラも食い合わせの悪い微妙な表情で鼻横をひくつかせる。
「そ、それは確かに奇抜、すぎるね……うん僕だったら生まれたことを後悔するレベルでクソだね」
「…………」
ソルロに至ってはあどけなさが感じられなくなるくらいの無表情だった。
あまり笑わないヤツだった。多くを語らないヤツだった。凜とした美人のように見えて存外ポンコツだった。
そしてあらゆるセンスがくたばっていた。それがイージスという女性の本懐である。
室内が一気にいたたまれぬ空気へと包まれつつあった。
「すごく良い名前じゃないですか!」
そこへ一石投じる者が現れる。現れてしまう。
なにを隠そうものか、と。我が娘を称えんばかり。
「きっとミナトさんはその頃から痩せこけていて細身だったんですね! その時の状況や名付け親の心象が明解に伝わってくるとても素晴らしいお名前です!」
リリティアは頬横に手を打つと爽快な笑みを広げたのだった。
この瞬間一室にいる約1名のクレイジーを除いてすべてを理解するに至る。
鶏が先か卵が先か、ではない。ある意味で血筋、欠落の継承。明確に鶏が先だったのだ。
「さすがは私の娘です! それなのになぜ変えてしまったんですか! 正直なところ正気を疑ってしまうほどです!」
ミナトは目眩を覚えて隣のユエラのほうへとよろめく。
「リリティアってもしかしてネームセンス皆無だったりするのかい? だとしたらイージスが娘だってことが一気に確定するんだが?」
「よくわかったわね。リリティアのネームセンスはあんな感じでクソ以下よ。料理と剣術に振ったぶんのポイントがマイナスを及ぼしたくらいにはクソよ」
ひそひそ、ひそひそ。ユエラとミナトは雑に密談を交わしていく。
しかしリリティアはまったく意に介した様子はない。どころか娘の発想にいたく感心している様子だった。
ふと、ミナトは思い至る。ユエラの長耳に声を潜めて吐息を吐きかける。
「ってことはイージスの名前をつけたのって旦那のほうかい?」
「よくわかったわね。あとでおかず1品わけてあげるわ、リリティアのやつをね」
良くも悪くも、因果だった。
ダサさは遺伝する。つまり疑心暗鬼だったミナトでさえ信じるしかないほど。
イージスは確実にリリティアの娘だったことが証明されてしまう。
――そういえば全然タイプが違うから気づかなかったけど……良く見れば微妙に面影が……?
ミナトはしげしげとリリティアを改めて観察する。
しかし見れば見るほどドツボだった。ほとんど類似点なんてないではないか。
イージスは美しい白金色の髪色だった。対してリリティアは正反対ともとれる優美な黄金色である。
髪色が異なっているどころかどこも似ていない。これでは親子関係なんて気づけるわけがないではないか。
「びっくりするほど似てないのにわかるわけがないだろ!! イージスとリリティアがまったく似てない!! まず髪色でさえ違うってどういうことだァ!!」
たまらずテーブルに拳が落とされた。
未だ仄暖かいティーガップの琥珀色が波立つ。
イージスはどちらかというと目の覚めるような美形の女性だった。なのに母親であるリリティアは逆にほんわか家庭的である。
いってみれば真反対。別人なのだから多少の違いはあったとして2人は月と太陽くらい違っていた。
スードラが憤るミナトに呆れた吐息を漏らす。
「そりゃそうさ。僕ら龍族は種族の姿を自分の意思で選ぶんだから似てなくて当然だよ。っていうか親子で似てることのほうが珍しいね」
「え? そうなの? お前らもともとそういう姿してないの?」
「だって僕らは卵から生まれる龍だよ? しかもキミだって僕らの本当の姿知ってるじゃないか?」
いわれてみれば確かに、と。
ミナトはテーブルの中央で鎮座する橙色をした卵を見て無理矢理納得するしかなかった。
未だ卵のなかに新生児が詰まっている。こうして食卓の中心にインテリアの如く置かれつづけていた。
「じゃあスードラがその……男っぽい姿をしているのも中性的な顔も自分で選んだのか?」
ミナトが戦々恐々と首を横に捻る。
するとスードラは椅子から立ち上がってくるりと回った。
「種族の姿と性別を選ぶのはもっぱら交尾とかをしたくなった頃さ。顔も大きさも胸のサイズも色々自由に選んでこの姿になってるんだよ」
作品を見せびらかすように両手を開いて袖を流す。
こうして見せられてみると改めて綺麗な肌をしている。シミや汚れもなければスタイルもほどよい。
通常ひとつふたつは欠点くらいあるだろう。それなのにスードラの姿は描かれた絵画の如く理想的だった。
ソルロが兎のようにぴょんぴょん跳ねながら割りこんでくる。
「あ、それ私も知ってるよ! 龍は一生に1度だけ自分の姿を変えられるんだよね!」
「その通り。勉強できていてソルロちゃん偉いっ。龍の姿には戻れるけど1度種族の姿に変えたら種族の側は1つに固定されちゃうってわけだね」
「「ねー!」」なんて。2人して仲睦ましげに声を重ねた。
なんというか、と。ミナトは雑に黒い髪に爪を立てて掻きむしる。
生まれたては恐ろしく厳格な龍なのに、こうして種族の姿ではしゃぐ姿には、微塵も覇気が籠められていない。
魔法や種族が多種多様に渦巻く世界、ルスラウス大陸。ここでの人間は驚かされながらも珍妙愉快な日々に触れる。
この大陸世界が現実ではなくもうひとつの別世界であると、仕切り直しを余儀なくされたのだった。
「ところでスーちゃんってどうして男の子になったの?」
「それはね、どっちも楽しめるからだよ」
あれはおいておくとして。というか深く掘り下げると碌なことになりそうにない。
そろそろ次の問題にとりかからねばならなかった。
色々と判明してようやく呑みこむ。そうやってミナトは温いお茶をがぶりとひと息に飲み干す。
「じゃあそろそろ神羅凪の呪いとかいう物騒なものについての説明を頼みたい。前に聞いたけど……オレがどうしてもフレックスを使えない原因がその呪いとやらのせいなんだよな?」
肩頬を軽く叩きながら気つけを図る。
気を引き締めなおしつつ真剣な眼差しを正面のリリティアに向けた。
すると彼女はミナトのカップに茶のおかわりを注いでいく。
「呪いとはいっても純正な呪いのように対価を求めるものとは異なる血の呪縛です。それはレティレシアの《吸血魔法》によるもので、呪いというより盟約、血の盟約に近い代物ですね」
カップのフチギリギリまで注ぎ終えてまた席に戻っていった。
それをミナトは微笑を顔に貼りつけたまま。
ひと啜りほどして受け皿に置き直す。
「さも当然のようにいったけど人間のオレにもわかるように説明して貰っていいかなァ!?」
すがすがしいまでにまるでなにもわからなかった。
わかろうとする努力はした。だがどうしても無理だった。
いっぽうでリリティアはぱちくりと目を丸く瞬かせる。
「おや? わかりませんでした? けっこう噛み砕いたつもりなんですけど?」
わかるものか。
少なくとも人間にはちんぷんかんぷんである。
「まず初めて聞く専門用語が大量にでてるしィ! 呪縛とか人生でどうやったら経験出来るのかさえわからない言葉も混ざってるしィ! もしその説明で納得するやつがいたら理解する気がないやつだけだァ!」
再びミナトは憤った。
なにしろフレックスを使用できない核がそこに眠っている。であるからこそここがもっとも肝なのだ。
3回に渡って叩かれたせいで紅茶が受け皿に零れてしまう。そのつど中央に置かれた橙色をした大玉卵がゆらゆら揺れた。
するとリリティアは、「えーっと……」と。なにやら指をくるくる回しながら思考の素振りをする。
「なら穴の空いたバケツ状態です! 盟約はイージスの蒼力最大量の8割辺りを上限として設定が成されています! だから通常規定量よりも蒼力最大値の低いミナトさんの蒼力は、ぜんぶ神羅凪に吸われてしまっているんです!」
ぽん、と。手を平坦な胸の前で合わせた。
そうしてすでに決着がついたとばかりに優雅な所作で茶を口に運ぶ。
「ダメだこの龍!? マジで説明する気ゼロなんだけど!?」
「えー……これでもダメですかぁ? ミナトさんって以外と読解力ないですねぇ?」
「リリティアじゃなくてちゃんと理解ある説明できる人ォ! NOWで急募ォ!」
そこからは一筋縄ではいかなかった。
いってみれば5000ピースを超える難解なパズル開始の撃鉄が落とされる。
誰にも理解できないリリティアの下手な説明を、ユエラ含めた4人で必死になって再構築し直すしかない。
昼下がりに似つかわしくない地獄の作業が待っていたのだった。
…… ☆ …… ☆ …… ☆
最後までお読みくださりありがとうございました!




