200話 ある日の森のなか《Meet not bear》
「はふぁぁ~……」
昇りきった陽光を透かす天蓋目掛けて大あくびを漏らす。
口が閉じられ歯がかこんと噛み締められる。
蒼い瞳の目のフチにたっぷりと浮いた水気をハンカチ代わりの手で拭う。
細長い白い足が交互に葉の溶けた土を踏む。シルクのように滑らかな肌をした足は根元にいくにつれて肉が詰まって、歩を進めるたびむっちりと波を打った。
尻が半身ほどあふれるショートパンツの尾てい骨あたりから、たらり。艶やかな鱗に覆われた尾っぽがしな垂れながら尾ひれを流す。
日がな1日こうしてのんべんだらりと退屈を紛らわすのもたまには良い。都にでかけて龍だなんだ騒がれるよりは葉音と小鳥のデュエットを聴いたほうが心も落ち着くだろう。
あふれる緑と、森林浴。出会いを求める鳥たちのさえずりと、生を繋ぐ虫たちのラブソング。
「きゃああああああああああああ!!!」
そして女の絹を裂くが如き悲鳴ときたものだ。
心安らぐ自然を楽しむ余興時間はあっさりと幕を閉じる。
「スーちゃんスーちゃん! きっとこの近くで誰かが魔物に襲われてる!」
「あー……うん、そだねー。あれだけの悲鳴を上げておきながらなんともないってことはないだろねぇ」
「助けにいってあげないの!? 女の子だったらきっと大変な目にあわされちゃうよ!?」
めんどくさー。当然思うだけで口にはださない。
心でなにを唱えようが文句をいうものはいない。もし聞いているのだとすれば天界の神か、はたまた天使か。
心優しき、それでいて幼き少女は心配そうにこちらを見上げている。
「……スーちゃん」
小さい手が少年の袖をきゅっと掴んだ。
上目がちに見上げる新緑色の瞳がじわりと潤んでいく。笹葉の形をした耳がしんなり下を向いて先端をひくひく揺れている。
しかし聞き届けるのもこれはなかなかに、面倒臭い。
どれくらいの面倒加減かといえば、足下に落ちている小石を拾うくらい面倒臭い。
「しょーがないなぁ、もーもー。自分のお尻くらい自分で拭くのが冒険者ってやつだろうに」
少年は気だるげに両腕を上げて伸びをした。
軽く蒸れた脇に風が送られてくる。欠伸をするようにぽっかりと白い窪みを深める。
すでにだが、もう悲鳴の主の姿はこちらから見えない状態だった。
無数のゴブリンよって築かれたゴブリンだまりの向こう側。なかからくぐもった悲鳴が聞こえてくる。
「あ”あ”あ”!? やめ、はな、せ――きゃあッ!?」
ゴブリンたちが悲鳴の出所へと次々に群がっていく。
叫ぶことは魔物の呼び笛に等しい。
新鮮な肉の喘ぎにゴブリンたちは愉悦を浮かべる。
「Keeee!!」
「ひ、ひぃっ!?」
女が青ざめればそれもまた甘露なのだ。
ゴブリンは腐臭のする涎をしどと垂れ流している。
肌に舌を這わせるのは当然マーキングだった。これは自分のモノであると印をつけている。
そうやってゴブリンたちは女の柔和な肌をくまなく舐めとった。汗を味わいながら珠の如き美しさを穢していく。
「マルク!! お願い起きてェ!!」
名を呼ぶも助けは来ず。暴れども功は成なさず。
ゴブリンとて手中に収めた獲物をそう簡単に逃がしはしない。
「GyaGyaGya!!」
「ぁ、がッ!?」
一切の温情ない大振りな拳が女の鼻面に叩きこまれた。
教育を受けた女は手足をピンと伸ばして硬直させた。
鼻から鮮血が吹きだし涙と混ざる。激痛と朦朧でもはや抵抗する意思さえ削がれたらしい。
暴れるというのはゴブリンにとっては極上の証明。捕らえた獲物は活きが良いほうが好ましい。なにせ味見を終えたら仲間たちの待つ巣に持ち帰らなくてはならぬ。
しかも獲物は上等な女。早々に死なれては増えるものも増えなくなってしまうではないか。
すでにゴブリンに群がられた女性を目視することは叶わない。代わりにその周囲には衣服や防具だったものが破られて散り散りなって地べたに広がっていた。
そして近場の木の麓にはもう1人の毛むくじゃらが転がっていた。そっちのけで放置されている。お仲間と見るべきだろう。
――あっちもどうやら生きているみたいだけど絶賛気絶中のようだねぇ。彼女を守って身代わりになった感じかな。
状況から鑑みるに考察は容易い。
あのまま放置されて起きたときには文字通り1匹狼の出来上がりか。
「んー、命懸けで彼女だか仲間だかを守るなんてとっても偉いねぇ。魔物相手にご褒美をあげちゃうなんて残酷なマネ普通なら出来っこないよ」
やれやれ、だ。演技めいて大袈裟に生白い肩を落とす。
大抵の冒険者が こ う なる状況というのは大概が決まりきっている。
簡単な討伐に赴いた。が、予想外に敵が多すぎた。手が足りず敵の術中にハマって背後からズドン。
あくまで実際を見ていないこちらの想像である。が、そんなことはどうでもいい。
「スーちゃん急いで助けてあげないと! あのままじゃあの女獣さん酷い目にあっちゃう!」
「うんうん助けてあげないとだねぇ~。でもああなったのも自分たちの責任なんだけどねぇ~」
「スーちゃん!!」
この幼きエルフにこれからはじまる悲惨な現場を見せるのは些か酷というもの。
ここルスラウス大陸に出没する魔物という生物は、冥府よりあふれる負の産物である。
輪廻の根幹を担う冥府の役割は、魂の循環。生涯を終えて肉体から抜けでた魂は穢れをもつ。そこから記憶と罪を洗い流すことで魂は循環する。
浄化しきれなかった穢れカスこそが魔物。冥府と繋がる大陸南東の奈落よりヤツらは現れるのだ。
魔物には言語を有する知能が存在しない。であるからこそ、ああして雌を捕らえて野性的本能を満たす。
例外はないのだ。あのままいけば彼女は――確実に――破滅の崖を成れ果てまで急落することになる。
「Gegege!!」
「Gyaaa! Gyabeeee!」
見るがよい。あの無残な姿を。
とてもではないが知的生命体とは思えぬ、ザマ。
醜く垂らした舌先から涎雫をひたひたに垂らしながら褒美に歓喜の猛りを上げた。
我先にと仲間でさえ蹴り殴る。私利私欲の権化。己が1番と獣族の女に群がっていく。
「イヤだあああああッ!! 離せえええええッ!!」
森に木霊するのは、悲鳴というよりもはや嘆き。
身をよじり最後の抵抗を測るもすでに体力は底をついてしまっていた。
しかも相手が小柄のゴブリンとはいえ多勢に無勢。手足構わず四肢には格下のゴブリンたちがとりついて離さない。
格上の行為が終わったなら、次にようやく自分たちの順番が巡ってくる。だから従順に、鼻息荒く、待機している。
規格外のオーガよりはマシだろう。無数の触手から産み付けるローパーよりもマシ。グールや虫よりと比べてもマシ。総じてぜんぶ最悪という意味だ。
「さて、と」
これだけ経てば後悔するには十分な時間だった。
刻限。浅はかさと経験の低さ、あと無謀の恐ろしさ。この時間で女はそれらをすべて身をもって味わい尽くしただろう。
ならばそろそろ助けてやるのもやぶさかではない。なによりこれ以上時間をかければ隣で自分を睨む少女に嫌われてしまうではないか。
「じゃあまあ、ちょっとだけ朝の体操がてらいってくるとしますかね。ソルロちゃんは危ないからその茂みから動いちゃダメだよ」
「う、うんっ!! スーちゃんお願いっ!!」
「承りましたよー、っと」
頼まれてどれほどか。ようやく茂みから身を乗りだす。
のらりくらり、と。むちむちとした青い尾っぽを後ろ手と一緒に振りつつ歩みでた。
少女が世を生きる上で穢れないまま生きていくのはかなり難しい。だが、いまこの場で穢れるというのは少し話が違う。
「おーい? まだ生きてるー?」
「Gya!?」
試しに呼びかけてみたが返答はなかった。
代わりにゴブリンたちが一斉に振り返る。
「Gyaaa! Gyaaaa!」
誰だコイツは。どこから現れた。
「Geeeee! Gegege!!」
馬鹿なやつめ。手ぶらで武器すらもってないじゃないか。
「Kehehee!! Kieeeeee!!」
今日は運が良いぞ。あんなに可愛い男の子が現れてくれるなんて。やっぱり早起きして正解だったぜ。是非あの子を俺のお婿さんに迎えたいぞ。
――なぁんてねっ。実際はなんも考えてないんだろうけどっ。
そんな馬鹿げた脳内妄想100%を巡らせている間にも、包囲がはじまっていた。
相手がいくら能無しゴブリンとはいえ油断は禁物である。なにせ敵は常に種族を本気で狙う。石、棒、穴。己の扱えるそれらすべて駆使して命を脅かしにかかってくるのだ。
少しでも油断が生じれば――……ああなる。堕ち伸びた毛むくじゃらも、剥かれた獣女も、油断の末路である。
「……Geeee!」
「Haaaaa……」
確実に1歩ずつだった。
少年を囲うゴブリンたちが円の陣形を狭めていく。
魔物というのは獲物を狙うときは全力を尽くす。ゆえに村に暮らす大陸種族たちよりも遙かに戦士の面構えをしている。
そしてその時は合図さえなく訪れた。
「Kiiiiiiiiiiiiii!!!」
「Gya!! Gya!!」
「Graaaaaaaaaa!!!」
本能というヤツだろう。
1匹が大地を蹴り潰すと同時に他のゴブリンたちも徒党を組んで飛びかかった。
四方八方どころの騒ぎではない。10数もの小鬼たちが個に対して棍棒を振りかぶった。
「……? Gya?」
「Gegege!?」
「Syaaaaa!!」
しかし飛びかかった先に獲物はおらず。
振り下ろした棍棒は無情に地面を叩いただけだった。
ゴブリンたちは夢でも見たいたかの如く呆ける。それから周囲に視線を巡らせる。
「…………」
すると、飛びこんだうち1匹のゴブリンが、とさりと倒れたのだった。
直後にゴブリンたちは仲間、だったものをようやく視界におさめる。
「……Ge?」
だったモノのパーツが足りていなかった。
それは頭部である。倒れ伏したゴブリンの首から上が失せているのだ。
身体は未だビクビクと筋収縮によって痙攣をつづけている。緩んだ尿管から黄金色をした排泄物が漏れでて地べたを汚す。
「もっと首とか鍛えておかないと簡単に毟られちゃうよ?」
「――HEG!?」
「こんな感じで、ね」
ゴブリンたちは揃って声のする方角を見た。
するとそこには仲間の頭部がくるくると回っているではないか。
少年は、器用に立てた指先の上で小鬼の頭をもてあそぶ。
「これ僕には必要ないものだから返すね」
パチン、と。指を弾きながら頭が宙に放られた。
放られた頭は回転しながら弧を描く。
そして1匹のゴブリンが無意識に仲間だった一部を両手で受けとった。
「はい2匹目ぇ」
直後に受けとったゴブリンの頭部が別の形で掻き消える。
刹那の出来事だった。少年の姿が消えるのと同時。1匹のゴブリンの頭が果実の如くひしゃげ、消滅した。
「流れで3匹目ッ!」
遅れて風が吹く。
と、もう1匹のゴブリンの側頭部へバックハンドブローが放たれる。
拳が到着すると容易く頭蓋は砕け、潰れ、血煙となって弾けた。
「次はセットでいこう! 3と、4!」
呆然と立ち尽くす2匹のゴブリンを1つに 合 わ せ て しまう。
両手で、パンで具を挟むみたいに。掴んだ頭と頭を脳漿と挽き肉のミンチに変える。
さながら血花火。肉が弾けると遅れて身体のほうがとさりと倒れた。
「AE……?」
「Ge……He?」
ゴブリンたちは氷漬けかと思うくらい固まった。
首を回すことも、女をねぶることさえ忘れ、茫然自失と佇むだけ。
頭に獣の耳を生やした女でさえ、言葉を忘れてしゃがみこんでいる。
そこへ少年はにんまりと血濡れ化粧の微笑を浮かべた。
「キミはとっても運が良いね。たぶん今日大陸世界で1番といっていいくらい運が良いと思うよ」
滴る手に渦を巻いて水が集っていく。
手が悪血に汚れても血振りする必要はない。魔力で呼びだした水流を操ることで血濡れた手を洗浄してしまう。
少年が優雅に袖を流して腕を振るう。血に濁った水が繊細な矢となって女性に組み付くゴブリンの脳を精確に貫く。
「そしてキミたちもかなり運が良い。龍であるこの僕に討伐して貰えるんだからさ」
少年の青き毛髪が紅へと移行する。
青き海色の瞳もルビーの如く色を変えた。
額の中央に光る青色の宝玉もまた血とよく似た朱色へと変貌する。
どこからともなく現れる水滴が少年の身体に撒かれていく。半裸体のフザケた恰好の周囲に羽衣が形成されていく。
「g――GEEEEEEEEE!!!」
ゴブリンたちは頬でも弾かれるように我に返った。
いま動かねば死ぬ。その事実を本能的に察したのだ。
「HE、GEEEEEIIII!!」
「Syaaaaaaaaa!!」
もうなりふり構っていられない。
ゴブリンたちのとった行動は、馬鹿の割りに賢い。
尻尾を巻いて逃げるという選択肢をとったのだ。女さえ置き去りにし、三々五々脱兎の如く。
しかしもうこちらは十分に――滾っている。
「そんなスーパーラッキーなキミたちのために痛くないようにしてあげなきゃね」
血濡れた微笑が艶然と頬を染めた。
次の瞬間ゴブリンたちの逃げ道に水の壁が現れる。
これは魔法ではないから詠唱する必要はなかった。ただ少年は己の司る水という力を発露させただけに過ぎなかった。
逃げ道を塞がれたゴブリンたちは錆びたブリキの如く首を軋ませる。
「可哀想に。怯えなくても大丈夫さ」
怯え、揺らぐ。
小鬼たちは歩み寄る影に恐怖を浮かべて見据えた。
平等ではないと卑下するか。はたまた時の巡りに痰を吐くか。死を受け入れるという手もある。
ただ訪れるモノは平等であり、それもまた運命の帰結なのだ。
「こう見えて僕ってけっこう上手いんだよねっ。するのも、されるのもっ」
龍である彼にとってこれは石を拾う行為に等しい。
この飽くなき残酷な大陸世界には決して揺るがぬ道理が存在する。
龍は、世界で最も気高く、それでいて最強なのだ。
本能に生きる魔物でさえ、己の矮小さを理解し、糞尿を垂れて惑い、やがて死を受け入れる。
ルスラウス大陸世界最強種族の種族名は、龍。
この事実が翻ることはない。
そう、この世にもたらされた絶対とは、最強と死のみで構成されていた。
「えへへっ! スーちゃんすっごく格好良かったよ!」
「うぅ~ん……僕的には可愛いとかセクシーとかのほうが嬉しいかなぁ?」
とりあえず道すがらに助けた男女は、近くの村に送ってやったのだった。
○○○○○




