191話 血の色《Blood Suck》
ジュンが反応したのは、誰もが意識の端に考えていたことだった。
所狭しと料理が並べられた流し卓の中央。堂々と鎮座するように楕円形の物体が置かれているのだ。
ヒカリは身を乗りだすよう屈んでしげしげと物体を眺める。
「これってダチョウの卵ってやつですかねぇ?」
「……ダチョウの卵は約15cmほどが関の山。なのにそれは胎児くらいの大きさがある、不思議」
普段口数の少ないリーリコ・ウェルズすらも卵に興味津々の様子だった。
おそらく科学的解明不可な物体に警戒しているのだろう。
楕円形の物体はおおよそ卵形。表面がてらてらと光沢を帯びており硬質である。
なにより色がみずみずしいオレンジ色をしているし、巨大すぎる。たぶん卵じゃない――……と思うんだけどなぁ?
「ソレは龍の卵です」
凜として澄ました端正な声だった。
食事の手を止める若人たちは一斉に声のした方角に意識を集中する。
「龍の?」
「たまご?」
ジュンと夢矢はとぼけ顔を同時に横へと傾けた。
もてなしの大広間へつかつかという躊躇いのない歩調で白き衣の裾が流れる。
金の糸を幾重に重ねて編んだ高級感のある3つ編みが揺れ、青いリボンが歩むたびに羽ばたく。
「食卓に置いておけばお腹が空いてでてくると思ったんですけど、宛てが外れてしまったようです」
ホールに入ってきたのは、ミナトにとって剣の師である。
そしてこの1室に食卓という豊かな財を築き上げた張本人でもあった。
リリティアは、ツンと唇を尖らせながら胴にまとうエプロンの紐を解く。
「せっかくこの私が極上料理で生誕をお祝いしてあげようと料理長を買ってでたのに。どうにもこの子は途方もない臆病者のようですね」
呆れがちに目を細めると寒々しい視線を卵に向ける。
さも当然と龍の卵だ、なんて。こちら側からすれば寝耳に水もいいところ。
食事の団らんは早くも「これ喰えんのか?」、「食べられないでしょ……」、「かなり丈夫ですなぁ」、「……りゅうの、こ?」無味蒙昧などよめきへ変貌した。
なのでミナトが代表して誰もが思うであろうことを問いかけることにする。
「これ、誰の卵なんだい? まさか龍族だからってリリティアが生んだわけじゃないでしょ?」
「私の卵なわけないじゃないですか。これは龍族の女帝――龍王たる焔龍ディナヴィア・ルノヴァ・ハルクレートの卵です」
リリティアがそう告げた直後「なんですとッ!?」卓が振動した。
叩かれた衝撃により置かれた食器がぶつかり合って騒々しい音を奏でる。
「あの神の創造せし最高傑作と名高き焔龍が卵を産んだという噂は耳にしております!? しかしこれがその現物であるというのは真ですか!?」
レィガリアにしては冷静さを欠きすぎていた。
常に冷静で鉄面を被るかの如き男が見るからに狼狽えているのだ。
そんな慌てふためく様をよそに「真です」リリティアの対応は、塩。
「もういつ生まれてもいい頃合いだというのに卵からでてこないらしいです。このままだとご飯もお水も摂取できず餓死してしまいかねませんが」
「な、なんという深刻な事態であることか!? もし焔龍の子の魂を輪廻へと惑わせてしまえば世界規模の失態となりかねません!?」
「そうなんですよねぇ~。無理矢理引きずりだしてもいいんですけど、生命の誕生を強制するというのも生命の冒涜というか……気が引けるんですよねぇ~」
大陸種族である2人は盛り上がっている。
だが、人間一行は一向についていけていない。
そんななか東は無精髭をさすり、さすり。感慨深そうな目つきで卵を観察する。
「つまるところこの卵のなかにいる龍の子供は、すでに意思をもっているということか」
「龍は生まれてすぐに戦えるだけの知性と力を備えて卵からでてくるんです。なので卵に引き籠もってるのは自分の意思ということになります」
「馬は30分で野を駆け捕食者から逃げ回る。対して本能的ではない人間などは学習と成熟に10年はかかる。龍ほどの強者であれば誕生でさえ自由ということか」
……興味深いな。そう、幾度と頷きながら卵黄の如く眩い卵を遠巻きに眺めるのだった。
しかしもうあるていどの非常識があったところでそれほど驚くこともないだろう。なにしろ大陸世界の存在自体が人々にとって驚天動地なのだから。
リリティアはひょいと卵をもちあげると、薄い胸にそっと抱きかかえてしまう。
「この子の母も引き籠もりだったことありますから遺伝かもですねぇ。もう少し四方八方色々な手を考えてみるとします」
「その昔、龍族は種族と疎遠でしたからな。もし今回も龍たちが聖都にいなければ被害は甚大なものとなっていたでしょう」
レィガリアも嵐が去ったとばかりに腰を据えてむっつりと口を閉ざした。
「さあ、この子のことは忘れてお食事を勧めていいですよ! 冷めちゃうとせっかく美味しく作ったお料理がもったいないですからね!」
リリティアに促されて食事が再開される。
一時の乱れはあったものの美味い飯にはそうそう勝てるモノではない。
しかもこちらは飢えて痩せた若者たち。対峙するだけであっという間に料理はたいらげられていった。
そうして各々が食後の幸福と胃の満ちる満足感に浸っていると、1人が挙手をする。
「みんなちょっとだけこっちの話に耳を傾けてくれないか」
立ち上がったのは、船員の青年だった。
ミナトにとっては縁もゆかりもない相手で名も知らぬ。だが、彼が人でノアの民であることだけは確か。
そして彼もまた恋人同士と別の大陸残留派であることもおおよそ理解している。
「また残る残らねぇのやりとりするってんじゃねぇだろうな? もうその話は決着がついたはずだぜ?」
ジュンにしてはかなり嫌みの籠もった言い草だった。
腕を組み椅子に浅く座りながら前髪の奥で青年を横目に睨む。
僅かだが空気が淀む。察するにどうやら何度か船内で言い争いがあったことが窺えた。
それでも細身の青年は臆することなく、ぐるりと卓の人々を見渡す。
「俺はこの大陸世界に残ることが幸せだと確信している。これは俺だけのエゴじゃなくてみんなのことを思っての選択だ」
気迫こそないが芯のある真っ直ぐな瞳をしている。
異を唱える者はいない。同じく、同調も、だ。
ただテーブルの空いた皿を数えるように全員が顎を引いて彼の語りに耳を傾ける。
「もしあっちの世界に帰れたとしてもノアが無事かわからない。なによりさっきまで戦っていた化け物がうじゃうじゃいる場所を抜けてどうして帰れるっていえるんだ」
知ってしまったからこそ、恐怖が芽生えた。
彼の言葉に偽りはない。どころか正義がある。
無茶無謀に縋る帰還派よりも残留派のほうが明らかに現実派なのだ。
「俺たちの抱える課題は膨大すぎるんだよ。聖誕祭で聖女を勝たせる、ブルードラグーンを修理する、リベレーターが決闘で勝利する、運良く世界の狭間を抜ける。さらにその上でノアのみんなが生き残ってなくちゃならない。これらの条件すべてを満たしたところで得られるモノはあの未来の見えない宇宙での生活なんだぞ」
革命の矢。もはやそれすら懐かしいとさえ思えてくる。
現状、革命でさえ遙か遠き地であった過去の話でしかないのだ。
「俺だって……向こうには家族がいる。でもこの選択って見捨てるとか見捨てないとかそんな話じゃないと思う。俺たちが戻ったところで家族が生きてるのかもわからないし、逆に俺たちが死ぬことになるかもしれない。古くさい情とか押しつけがましい道徳とかそんなものは1度切り離し、自分にとっての最良な選択をすることも大切なんじゃないか?」
青年の声は凍えているかと思うほどに震えていた。
握りしめた白くなるほど拳は硬く結ばれ、目は真っ赤に充血しきっている。
これも1つの勇気であることは間違いない。しかもチームメイトである時点で彼の声を無視して良いわけがない。
なにより辛いのは戦う理由が安否不明な点だろう。もし帰れたとして若者たちの未熟な心では耐えきれない事態になっている可能性は大いに考えられた。
一同は、面を伏せて黙りこくるしかない。この場で回答をもっているものは誰1人して存在しいない。
沈痛なる静寂だった。それはもう身を引き裂くほど、耳の奥が痛くてたまらぬほど、逃げだしたいくらいに向かい合いたくない、痛み。
「キッシシ。だぁから会議のときに余が助言してやったじゃねぇかぁ」
氷が張ったような冷たい静けさが砕かれる。
笑み。否、それは威嚇だった。
「そんな見え透いた与太話じゃあ膜すら破ってねぇ田舎の生娘さえ騙せねぇ、ってなぁ」
血色の邪悪が顕現したことで一室が恐怖に染め上げられた。
(区切りなし)




