18話 True Lovers 『真を越えた愛の唄』
当てもなく歩いていると音が聞こえた。音楽のように楽しませるとは別のもの悲しい音色だった。
ここアザーでは風向きによって時折不思議な音が風に乗って響いてくることがある。意識していないと聞き逃してしまうほど小さな小さな慟哭のような鐘の呻き。
それらを砂で掻き混ぜるように軍靴の踵を擦って歩く。
「………………」
引き締まった表情筋はさも仮面の如く、常に眉間には深くしわが刻まれていた。
軍でそう教わったのだ。部下に舐められぬよう目と眉は常に近い位置に置いておけと。
ただこの男に限っては教えなんてそもそも必要がなかっただろう。生まれながらにして白人の血が濃くでている。そのため表情の凹凸は差が大きい。自然に振る舞っているだけで関係の浅いものは勝手に震え上がってくれた。
乾燥した大地を当てもなく歩いていた。仕事の合間にちょっとした暇が出来たというだけ。
そもそもこのような崇高で静寂が求められる場は、男にとって好む場ではない。
そのはずなのに靴先が静謐と伽藍を求めたのはどういうことか。
ディゲルは己の知らずうちに墓地へと辿り着いている。
「らしくねぇな」
ぽつり、と。胴間声を喉で転がす。
同居しているガキがよく心臓にオイルやらガソリンが流れているとからかってくる。それくらい心は冷えているつもりでいた。
風がいつにも増して行く手を阻む。砂塵を防ぐために目を細めるとより一層強面が深まる。
視界いっぱいに広がる。地平線さえも埋め尽くす。
へし折れかけた十字の枯れ木がそこいら中に根を張るように植えられている。
教会などの各々準ずる形で供養してやりたいのはやまやまだが、そうも言っていられない。
せめて墓に名と死亡した日付を刻めれば運が良いほうだ。あとは下に肉体の一部を入れてやるくらいが精一杯だった。
そうしてディゲルは、ただ1本のみの墓の前に片膝を落として忠義を示す。
「……久しぶりだな。足繁く通うなんてのはガラじゃねぇから許してくれや」
再びこの場所を訪れるのはいつ以来か。
生きていたころは顔を合わせることに特別意識を向けたことはなかった。今になって後悔してももはや取り戻せはしないのだが。
ディゲルは色の褪せた迷彩柄のパンツから1粒のマリッジリングを取り出す。
「……クレオノーラ」
指輪を額に押し当てながら誓いを立てた女の名を口にした。
9年前の革命は成功したはずだった。未だ6代目人類総督の胸に突き立てたナイフの感触は消えない。
なのにクレオノーラはこの世を去り、未だ旧人類や新人類という括りが存在している。
「人類はどこで間違っちまったんだろうな」
あの日か、それともはじめからなのかもしれない。
後任の人類総督兼ノアの艦長に選ばれたのは、当時変革を望んで革命軍を率いた男だった。
6代目によって強引に掲げられたマニフェストは、整合性も正当性も失っていた。ゆえに当時革命軍のリーダーであった彼は、6代目の独裁的政治の敷き方をもっとも忌み嫌っていた。
ディゲルは食いしばった歯の隙間から絞り出す。
「長岡……! どうして俺たちを裏切った……!」
第1次革命軍リーダーの名は、長岡晴紀。
当時ディゲルや亡きクレオノーラさえも親のように慕っていた。2人が誉れ高き大将である彼に敬意を示すほど、長岡は勇敢で情熱ある戦士だった。
そして世界は革命の成功によって大きな変貌を遂げる。樹立された新政府によって新世代旧世代の壁が取り払われ、平穏と安寧を得る。
当初の予定ではそうなるはずだったのだ。
運命の歯車がねじれ曲がって折れ欠け、あり得ない方角へと捻転しはじめたのは、それからすぐだった。
「なぜアンタまで6代目と同様の格差ある非道の道を選んだ。長岡……一体なにがアンタの実直だった思想を概念ごと歪ませた」
天涯の空に問うも、厚い雲が邪魔をして方舟にすら届かない。
戦友の狂乱は世界のすべてを狂わせた。よってディゲルはこの身を地上に堕とす未来を選択した。
というより革命の成功を願って婚約を結んだ彼女、クレオノーラの影を追ったと言ったほうが正しい。
「若い世代に遺恨を残したくない、飽和の一途を辿る方舟の未来を正すために秩序を作り上げる。そう言って理想を翳し燻っていた俺たちを立ち上がらせたのは長岡……アンタだったんじゃねぇのか?」
指輪ごと握った拳をそっ、と解いてやった。
この死者の眠る場で力や権威の誇示はもっとも遠ざけるべき野蛮だったから。
ディゲルの婚約者クレオノーラは、革命成功後間もなくしてアザーへと堕とされた。流刑地として暴漢どもののさばる自治無き星に、その身ひとつで追放されたのだ。
当時新政府の基軸として活動していたディゲルに知るよしもない。方舟でその事実に気づいたころには、あまりにも時が経ちすぎていたというだけのこと。
「アンタの翳した理想の世界は俺たちを騙すための虚偽だったのか? それとも信念さえ変えざるを得ねぇほどのなにを見つけたってんだ?」
媒体のなかでフレームを開くと、内側では軍服を身にまとった若き日の戦士たちが並んでいる。
ディスプレイの向こうには、ディゲル、クレオノーラ、東、長岡たち複数。その他大勢が勇ましくも凜々しい佇まいで並び立っていた。
当時革命軍に従軍していた現穏健派のミスティ・ルートヴィッヒ。同じく現在もなお革命軍を従える東光輝も、このときばかりは肩を並べている。
栄光を求めた手は空を切り、やがてその手にはなにもおさまっていない。はじめから持っていた者でさえすべてを失って。
「やっぱりここにいると思いました。休憩の時間はいつも執務室に戻ってコーヒーをお飲みになるから暖めて待っていたんですよ?」
「…………」
ディゲルは、《ALECナノマシン》の媒体を閉じると、黙って背後へ振り返る。
すると白凪の波が荒れた風を泳ぐ。
彼女の接近に気づいていなかったわけではない。足音もスカートのはためく音もしていたし、なにより気配も察知していた。
近づいてくるのを待っていただけ。風に邪魔されず肉声で語り合える距離になるまで待機していた。
「クレオノーラさんのお墓参りには一緒に行こうって約束だったじゃないですか。1人で先に済ませちゃうのはズルですよ」
「そいつは悪かった。ただちっとオセンチな気分になっちまってな。先走っちまっただけだ」
「オセンチさんのきっかけになっているのはミナトさんがフレックスを使ってしまったことですね」
ああ。ディゲルは低く肯定した
隠す必要など無い。彼女だってすべてを知っている。わかっている。
チャチャこそがクレオノーラの忘れ形見なのだから。狂乱の報復が生んでしまった2人の被害者の1人。
ディゲルは片割れを失ったペアリングに優しく目を細める。
「もうアイツは限界ギリギリだ。口には出さないが精神が死に向かって走り出しちまってる。このチャンスを逃せば遠くない未来に心が声を発さなくなるだろうな」
「私だって気づいてましたよ。だから異変を感じたら仕事に向かわぬよう呼びかけをつづけていました」
そう言ってチャチャはしずしずと長尺のスカートを引いてディゲルの隣に膝をついた。
清く白い膝の布地が汚れることさえ厭わず。墓に向かって祈り手を結ぶと瞼を閉ざして祈りを捧げる。
そうして5秒ほどか。再び双眸が世界を映し、隣のディゲルを仰ぎ見た。
「やっぱりミナトさんの件を悩んでいるんですね。ディゲルさんの要望でノアに向かわせるべきか、彼の望み通りここアザーで静かに暮らしていくべきか」
チャチャの口にした事象こそ確信の芯たる部分だった。
さすが、と言うべきか。とはいえ彼女も家族の1人であるのだから当然と言える。普段はぼんやりとしているようでも決して盲目に生きているわけではない。
ディゲルは短髪の頭をガシガシと力任せに掻きむしる。
「……俺がアイツにやらせようとしていることは自分本位なエゴなんじゃねぇかってよ、ふとよぎっちまってな……」
ミナトという少年を思ってのことというのは変わらない事実だった。
しかしノアに彼を上げれば確実に付随する。とある責務がつきまとう。
救おうとすれば革命へ強制的に参加させることと同義。そしてそれはきっとディゲル自身の野望に加わらせるということにもなる。
「過去の清算を他者へ託す行為を責めているのですね」
「んなとこだ」
ディゲルが歯を見せると、チャチャもふふ、と微笑をこぼした。
恩人の眠る墓所を前に暗い話をしている。というのに彼女は比較的穏やかだった。
どころかチャチャは膝を抱え前後にゆらゆら揺れる。
「小さなことでくよくよくよくよ。今日のディゲルさんはらしくないですねぇ~♪」
「俺もそう思ってんだからいちいち言わなくていいんだよ。ったく、オメェもミナトに似て人のことからかうようになってきやがったぜ」
「私だって2人の弟くんたちのお姉ちゃんなんですっ。いつまでもくよくようじうじしていたらお姉ちゃん失格になっちゃいますもんっ」
そう言って蕾が花咲くような笑顔を作った。
どう見ても強がりだ。粗暴な自覚のあるディゲルでさえ、彼女は今にも崩れてしまいそうなほど繊細に思えた。
しかしチャチャはきっと今が強がるべき時なのだと気づいている。気づいているからこそ裏の顔が表に出ないように笑おう努力している。
そしてディゲルもチャチャと同じ気持ちだった。だからこうして拠り所を求め、過去を彷徨っている。
「ミナトには未だ自我が芽生えてねぇんだ。心は空っきしで出会ったあの頃とずっと変わらずまっさらに綺麗なままなんだよ」
決して笑わないはずだった小さな子供が笑って見せたのだ。
父親代わりと姉代わりのいい年したコンビが負けていられるはずがない。
「そして心が育つのを止めちまってんのがアザーの民。旧世代。俺たちを含む地上人だ」
ぼう、と。視線を落とした手に特別な揺らぎが浮かび上がる。
蒼き揺らぎは鮮明なれど強烈ではない。ただそこに発現して優しい光を灯すだけ。
チャチャは、ディゲルの灯した蒼を眦を下げて見守る。
「彼は誰かが困っていると自分のことはその誰かの二の次にしてしまいますからね。いつだってそう……私のときもそうだったから」
手をそっと伸ばして蒼と蒼を重ねた。
言葉無き感情が蒼というバイパスを通じて互いのなかへ交差していく。
こうすることで心の声を聴けるのではない。こうすると心と心が通じ合う。
そして今どちらの心も同じ色と同様の温度を示している。
伝わる音と重なるメッセージ。第2世代に至るほどの精密さはなくとも本質は変わらない。
人は、この通じるという現象に《心経》という名称をつけている。
「アイツの才能は鋭すぎて他人の痛みでさえ共有しちまう観察力と尋常じゃねぇ集中の力だ。それはアイツ自身を蝕む毒でもあるがアイツを生かした才能でもありやがる」
「そしてそれを知りながら繰り返させたせいで、誰かのためにしか動けない子になってしまったんですよね。だからあの子の人生にあの子自身の意思は存在していない」
彼を空に上げるというのは、ある種の賭けだった。
アザーの損失は絶望的というのは間違いない。単一のキャンプでは汎用性がなく、誰かがビーコンの任務を成さねば数日と持たずアザーの人類は壊滅する。
それになにより家族との別れという残酷さが2人の意思決定を鈍らせていた。
血を分けていないが長年支え合った家族と今生の別れを覚悟させられる。これ以上に辛いことがそうそうあってたまるものか。
「俺はなにがなんでも送り届ける。今まで生かしてくれたアイツをここで死なせたらクレオノーラと同じ場所には死んでもいけねぇ」
だからこうして唄にする。
これが淀みなき答えであると心に留めるための儀式とする。
「私も同意します。あの子は籠の外にでてもっと広く大きな世界を見て、心をたくさんの出会いと共に養うべきだから」
覚悟を乗せて重ねた手と手がまばゆい発光を生む。
ディゲルとチャチャの同調する思いが混ざり合って共鳴する。
過去、力の発現がなかった人類はいったいどのように約束を交わしていたのだろう。言葉だけでは本心まで伝わらず、結果を結ばぬ行動だけで理解は得られぬ。
しかし今は違う。こうして心と心を結ぶことで互いの意思をフレックスという未知を通じて信じ合える。
「…………」
「…………」
どちらともなく光の消失に合わせて手を引く。
お互いの声が繋がった。そこにもう言葉は必要ない。
ただ最後はどちらも互いの覚悟を讃えるような勇壮な表情で見つめ合っていた。
「さて、あとはアイツをどうやって説得すっかだよな。意外と頑固だかんなひと苦労は覚悟しねぇと」
儀式を終えたディゲルは、ボールのように丸く分厚い肩を回して立ち上がる。
気だるそうに伸びをしたり筋肉を伸ばしたりとしてはみるが、実際のところ重荷が解けたような軽さを感じていた。
一緒に立ち上がったチャチャも、輪郭に白い指を添えてうんうん唸る。
「うーん……結局のところそこが1番重要な課題になっちゃいますよねぇ? ミナトさんのことだからきっとシンさんを引き合いに出してくるんじゃないでしょうかぁ?」
それな……。2人に再び厄介事がのしかかった。
こちらがこれだけ家族愛が強いのだ。あちらだって相応の執着をしてくることは火の目を見るより明らか。
だからといって2人同時に目の前で眠っているクレオノーラに視線を向けても、答えは返ってこず。
「……はりゃ?」
と、思われた次の瞬間。ポン、というポップな音色が頭の奥に響いた。
先に気づいたチャチャが間抜けな声をだしながら網膜ディスプレイを呼び起こす。
「なんだそりゃあ? 俺の方にも……家、族?」
ディゲルも僅かだが遅れて自分のディスプレイを呼び出す。
するとそこには家族と銘打たれたメッセージチャットが、格納された状態で表示されている。
ディゲルとチャチャは皿のように丸い目を見つめ合わせ、首を傾げ、己のディスプレイに指を滑らせた。
そして同時に目を見開く。じわりと奥が熱くなり、それから意味なく笑みが漏れ出る。
『やってみる。だからちょっと休暇を貰うな』
送られてきたメッセージを見て、ディゲルはすべてを悟った。
きっと彼は今ごろ別の場所で同世代の彼彼女らからすべてを聞いたのだ。世界で起こって今なお渦を巻きながら人を呑み続けている怨嗟の楔のすべてを。
なのにすべてを知った上で『やってみる』、だ。自分で決断を下し、そう言っているのだ。
「……っ! また、はじめのころみたいに、ふたりっきりになっちゃいますねっ!」
チャチャは、優しさに当てられとめどなくあふれでる涙を拭いながらくすぐったそうに笑った。
声は震えていたが決して悲しい涙ではないと訴えかけているような仕草だった。
「へっ……あれはあれで静かで悪かねぇさぁ。ただ食いモンはあの時より切り詰めねぇと苦しいがなぁ」
唯一ディゲルに出来た抵抗と言えば、せめてあふれぬよう空を仰いで鼻を啜るくらい。
「お別れも3回目ですし慣れてますっ! 多少のひもじい生活でもどんとこいってもんですっ!」
すると大人げなく涙を堪えるディゲルに対し、さらに堪えられぬと言った様子でチャチャはもっと華やかな笑顔を咲かせた。
ここまで彼女があどけなく笑うのを、ディゲルははじめて見る。
――おい、見てみろよ。
婚約者が守り抜いたのは、第6代目艦長の娘だった。
理由も知らされず貶められた彼女をクレオノーラは己の身を捧げてまで守り抜いた。
――お前から引き継いだ命は必ず船に返してやる。誰でもない俺の見込んだ小さな小さな光ってやつがよぉ……きっと導いてくれるはずだぜ。
すべての希望を彼に託す。大きな博打だが託すだけの価値は十分にあった。
なにせ彼は、見事に試練を乗り越えてくれた。
2つ目の最低限フレックスを使えなければ船には上げない。そう条件を用意したのは、誰でもないディゲルだったのだから。
やがて希望は小舟に乗って旅立つ。
見送る。きっとより大きな希望を携えて帰ってくると信じて。
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