175話 人として生まれたならば《ONE’s Heart》
「あ”あ”あ”あ”~~~……」
口から残滓が漏れた。
身も心もずたぼろ。精神的にも肉体的にも限界だった。死人の足どりでふらふらと屋内に退避する。
これでやっと半日が終わった。というのに体力は0どころかマイナスに振り切っていた。
いまのミナトの状態ならばぼろ切れのほうがまだ形を保てているだろう。
「あ”あ”あ”あ”~~~……」
そして椅子の上に崩れ落ちるように腰掛ける。
真っ直ぐ姿勢を正すことさえ難しい。しな垂れるようにして隣の席へと倒れこむ。
そのまま隣に座るヨルナの太ももに頭からダイブする。
「な、流れるような膝枕!? ほ、本当に大丈夫なのかい!?」
ヨルナは唐突に置かれた黒い頭にぽっと頬を染めながらも身を案じた。
女子の膝に横たわる。しかし夢のようなラブロマンスになるはずもない。滑らかな太ももの感触を頬で楽しむ余裕さえも、ドブの底。
心の灯火さえ消えかけるほどに本当の限界だった。指ひとつ動かないどころか死神が見えてもおかしくないほど。
ミナトは首を回していい匂いのするヨルナの太ももへ顔を埋める。
「あ”あ”あ”あ”~~~……」
「わああ!? うつ伏せはさすがに違くないかな!? 吐息がこそばゆいぃ~~!?」
それから残り掛けの魂ごと内股のなかへ吐きだす。
剣技で疲弊したほうほうの体に待ち受けていたのは、怒濤の筋トレだった。
畳みかけるよう突きつけられたユエラの強烈筋肉トレーニング。ミナトに青ざめる暇すらなかった。
しかもただのトレーニングではなく、蔦でぐるぐる巻きにされながらの高負荷トレーニング強制である。
高負荷トレーニングが1セット終われば休憩と称して強制柔軟体操が待ち受ける。蔦で無理矢理体中を伸びない方角に伸ばされ尽くす。
そして地獄のメニューを交互に繰り返すこと、およそ20セット。視界が白ばんできたあたりでようやく 朝 のトレーニングは終わりを迎える。
「……これもう無理……一生、死ぬ……瀬戸際フィールド……」
「普通の膝枕ってこうじゃないよね!? 君って寝るときうつ伏せに寝る派だったっけ!?」
いまのミナトにヨルナの注文を聞けるほどの体力は残されていない。
まさに満身創痍。太ももの隙間からぎりぎり呼吸するくらいの気力のみで意識を保っている。
「だっらしない体たらく晒すわねぇ~? あのていどで音を上げるなんてリリティアに勝つ気あるわけ?」
遅れて屋内に入ってきたのは、ユエラだった。
己が痛めつけた死に体を見るなりシワを寄せた眉間を摘まむ。
幸先不安は拭えない。修行開始初日目にしてこの始末。
ミナトもそこそこがんばった。正直なところ3セット目あたりから意識はほぼない状態でやりきっている。
「逆にいうと初日なんだからしょうがないってことでもあるね。見たところけっこう根性はあるっぽいし、明日以降になればもっと身体がついてくると思うよ」
「いやになっちゃうわ筋肉のきの字もない骨と皮みたいな身体なんだもん。いったいなに食べてたらそんな貧相な身体になるのよ」
ユエラは対面側の椅子を引いて蔦の絡んだ肉の分厚い尻を落とす。
頬肘をついて長い脚をクロスさせ、口元をむっと歪ませる。
いっぽうでヨルナは頬に照れを浮かべながらも眉を傾げて苦く笑う。
「たぶんなにも食べるものがないくらい貧困に見舞われていたんだろうね。そうなるといったいどれほど過酷な世界に生きてきたんだろう」
もう膝を占拠することへの説得は諦めている。
というか諦めざるを得ないか。ミナトはユエラの文句にすら反応を返さず黙したまま。疲弊して眠っているのかさえ定かではない。
だからか彼女は反応のない頭にそっと手を添える。
「せめてこの世界でくらいはお腹いっぱいに食べられるから安心していいんだよ」
浅く呼吸する無礼者へ目を細めると、慈悲たっぷりの微笑を注いだ。
ヨルナは、膝に埋もれる己と同じ色をした漆黒色をしずしずと撫でる。
日も高く昇ってようやく折り返しを迎えた。森の様相も朝靄が晴れて青々と息吹いている。
回復魔法があったとて、人とは無限に活動出来るように作られていない。特に重要な薪が空になれば生命活動さえ危うい生物なのだ。
ならば 朝 が終わったのであれば次の工程に進むしか道はない。生命のルーティンを済ませる。
「~♪」
リビングの傍らで小粋な鼻歌が奏でられていた。
剣の修行を終えて以降屋内に消えたはずのリリティアがそこにいる。
「そろそろご飯が完成しますからねぇ~♪ あまりお水を飲んで胃を膨らませちゃダメですよぉ~♪」
ぐらぐらぐつぐつ。彼女を中央にいい匂いが部屋中へ充満していた。
キッチン台の前で鍋を掻き混ぜながら腰と裾と三つ編みを左右に揺らす。
長く笹葉型をしたエルフ耳がぴこり、と動いて、耳ざとく音を拾う。
「あーおなかすいたっ! ちょうどいい朝の運動もしたしまさに朝飯前ねっ!」
ユエラは高い鼻をすんと鳴らす。
それからたまらずとばかりにん~っ、と開放的に手と脚を伸ばした。
豊満な房が押しだされると蔓蔦が白い鞠に食いこんで危うく零れそうになる。
無防備な腹部では形の美しいヘソが窪みを縦に伸ばす。そこから腹の虫がぐうぐうと合唱をはじめる。
部屋中に満ち満ちるのは、甘味辛味塩味のオンパレード。そこへ青果やハーブスパイスの香りが加わることで豊かさを演出した。
煮たつ音はさながらリズム隊。じゅわじゅわと脂の弾ける音は否応なく人の本能を刺激してくる。
「ほらミナトくんそろそろ起きて。とにかく食べないと身体が作られないから大切な食事の時間だよ」
「もうむりぃ~……オレ今日からヨルナのここに住むぅ~……」
頭を優しく叩かれたミナトは、ぐりぐり頭を左右に振って応じた。
甘えた声をだしながら滲んだ顔の脂をふんだんにこすりつけていく。
柔軟な筋肉と女子特有の柔肉がふんだんに詰まった太ももは非常に居心地が良い。
「そこに住まれると僕がどこにもいけなくなっちゃうよ……。まあ……君の身体に住んでた僕がいうのも変な話なんだけどね……」
よっと。ヨルナに身体を支えられてやっと、ミナトは自分の席で身を正すのだった。
そうして三者三様に待ちかねる。テーブルの元へ完成した料理たちが振る舞われていく。
大盆をもったリリティアが手慣れた感じで彩り豊かに皿を配膳する。
「ユエラがミナトさんをいじめてる間に仕込みは終えてましたからね。それと以前購入した下処理済みの超特性なお肉もありますっ」
ほんわか笑顔とエプロン姿がマッチしていてよく似合う。
しかして巨大な大盆は片手でもつ。人であればまず不可能な剛力だった。
そしてトドメとばかりにずん、と。地鳴りの如き豪快な音とともにメインディッシュの枝肉皿がテーブルを軋ませる。
「ミナトさんいい加減に意識を覚醒させてくださーい? たぶんヨルナの太ももよりこっちのほうが格段に美味しいですよー?」
「別に僕が食べられてるわけじゃないけどね!? あとそのいいかたなんかいやらしい!?」
「そんなことよりさっさと食べましょ! 私のほうがもう空腹でたまらないわ!」
リリティア、ヨルナ、ユエラ、女性たちの奏でる華やかさが咲く。
するとくたばった意識がじょじょに浮上していった。
「……りょう、り? いまから飯でも食べるのか?」
食欲ないなぁ……、と。天井を仰ぎながらぼうとしていたミナトが双眸を開く。
腹が減っているという感覚はとうに捨てている。
だから疲労した身体は胃を満たすことより休息のほうを強く欲していた。
「体力を使い切って辛いのなら沢山食べることこそが寛容です。なにしろいまの貴方は回復魔法によって全身の栄養をすべて失った、いわば燃えさしです。ならば一刻も早い補給をしなければならないんです」
リリティアの解説を聞きながらも意識朦朧。
顔色は土気色で、表情は胡乱。さらにいえば5~6歳ほど老けたかもしれない。
ミナトは、げっそりと。夢見心地のような瞳でテーブルの上を呆然と見渡す。
「なんだこの3人じゃ食べきれない量の料理は? もしかして歓迎会でも開いてくれているのかい?」
「いえ? これが1日2食振る舞う我が家のお料理ですよ?」
リリティアのとんちんかんな解答に戸惑うしかない。
テーブルの上にぎっしりと詰められているのは、すべてが料理だという。
ミナトは目を疑っていた。これほど豪勢で無駄に種類の多い奮発な食事を見たことがない。つまり人生ではじめてである。
「リリティアの料理ときたらもう格別に美味しいんだから! 剣が達者じゃなかったら大陸1のシェフって呼ばれていたと噂されるくらい超ハイレベルよ!」
食卓の向こうでユエラはふふんと背を反らす。
得意げだった。まるですべて自分で作ったとばかり。
リリティアの功績を奪うかの如きどや顔である。
「いまの君には元となる栄養素が足りないからヒールが効かないびさ。だからたんと食べて回復魔法を使えば筋細胞が修復されていく。そうなるときっと朝以上に元気がでるはずだよ」
ヨルナがせかせか取り皿に料理をよそっていく。
肉やら野菜やらを散りばめつつミナトの前に取り分ける。
友というより正妻の貫禄ある気配りだった。
加えて目が合うと「えへへっ!」ハートの髪飾りがよく似合う無邪気な笑みを浮かべる。
そうして料理長であるリリティアがユエラの隣の席に座ると、全員が宅につく。
「ではみなさんお手を拝借です!」
料理長が両手を合わせるよう指示をだす。
すると全員が決まった動作で同じ言葉を口にする。
「いただきますです!」
「いっただっきまーす!」
「いただきますっ!」
各々匙や箸を掴むと好きなモノから手をつけていく。
ミナトも一拍ほど遅れ、言い慣れた挨拶を戸惑いながら唱える。
「いただき……ます?」
「どんどん食べてくださいね! 必要なら追加のお皿も用意出来ますから!」
とはいえニコニコ笑顔で急に食べろといわれても、だ。
ここはさながら絶海の孤島。料理の大海原に投げだされて、迷い箸がオールの代わりである。
肉、肉、野菜、肉、スープ。これほど豪勢な食卓はお目にかかったことがない。
さていったいどれから手をつけたモノか。ミナトは悩みつつ「ええいままよ」。匙で人参色をしたオレンジのスープを口に運ぶことにする。
「っ、うまい……!」
液体を舌が味わった瞬間、視界は弾けた。
スパークするような旨味を脳が認知し、全身の毛穴が開いて粟立つ。
目の覚めるような衝撃だった。じんわりと胃の腑が温まる感覚とともに全身の毛細血管を通じて染み渡る
「――っ!」
そこからはもう止まる理由がない。
貧者の如く肉を、果実を、すべてをむさぼり食うだけ。
の閉じていたはずの食欲が開くには十分すぎた。それほどまでにリリティアの手料理は美味だった。
胃が爆発してもいい。そう思えて、手が止まらなくなる。
胃が満たされると冷えた身体が急速な温もりに目覚めて火照っていく。逐次、心にぬくもりが広がっていく。
乾きが潤う。昨今忘れていた、否。捨てざるを得なかった人の欲求が戻ってくるのがわかる。
「お腹いっぱいになるまで食べてくださいねっ! ゆっくり時間をかけて身体を整えていきましょうっ!」
「なによ私のぶんまで食べられちゃいそうな勢いじゃないの! これは負けてらんないわね!」
願うなら、別の笑顔が見たいと祈るのは傲慢だろうか。
ここは見知らぬ世界の端っこ。大陸世界の最南東誘いの森。
そしてまた飢えた獣の如く肉を貪りパンを引きちぎる。
「…………っ」
生まれて初めてだった。
この身に心が宿ってはじめて受けた祝福だったかもしれない。
なぜか少し塩辛い、うまい飯。水っぽくて湿っぽい、幸福の味。
いまこの瞬間ようやく悪魔と呼ばれていたあの頃の呪縛から解かれたのかもしれない。
「ミナトくん。君はここから変わっていくだよ」
隣にある新しい友の笑顔が優しい。
ミナトは、この人のいないルスラウス大陸世界で、本当の人間になれた気がした。
…… … … ……




