164話 三元世界―縁―《Green Seeds WORLDs》
ザナリアは朦朧と、虚脱するように青ざめる。
父親の目的が絶対存在である天使の口から直接明かされた。そしてそれはその身が聖女になるというもの。
そして己が聖女になることで、もう1つの事象を意味していた。
「ハイシュフェルディン教はお嬢を聖女に従っているってことは……おいおい嘘でしょう!?」
「お、お嬢が栄冠の礎たる玉座に着任するってことですかい!?」
お付きの騎士たちが震え、慄く。
すでに天使の御前であるということさえ脳裏にない。2人は無秩序に立ち上がると、兜を小脇に抱えて周章狼狽の表情を晒した。
しかし従者が慌てふためくなか、彼女はひとことも発そうとはしない。
「……っ!」
下唇を噛み締めながら薄地が沿う肩を凍えるよう振るわせるばかり。
感情の濁流が行き所なく、留まっていない。その表情はひとえに語れるようなものではなかった。
たとえ天使の口から語られることとはいえ容易く鵜呑み可能なものか。なによりザナリアにとって聖女とは敬愛する存在。そんな聖女に成り代わるとなれば彼女たちの関係そのものがひっくり返る。
加えてハイシュフェルディン教の大望は、枠を越えているというより、度を超していた。
野望あるいは強欲のどちらか。神の定めし聖女を座から引きずり下ろすだけでも尊大。しかもそこから我が娘を聖女と定義させるのであれば傲慢の極み。
「チッ、どうりでありがとうってなわけだ」
ミナトは怒りを籠めて拳を震わせた。
つい今朝ほどに覚えた気色の悪い違和感がようやく繋がる。
「そりゃそうだよな。アイツにとっては娘に与える聖火が希少種によってより完成に近づいたってわけだからな」
あの男は聖誕祭そのものを理解した上で、ミナトにありがとうと口にしたのだ。
「ありがたくご利用させてもらおうのありがとうだったとはなァ……!」
ハイシュフェルディン教の温和さに、いよいよをもって人を食ったという前科がつく。
あれは暖かく迎え入れるのではない、ただの欺瞞。あの男が思わずミナトを抱きしめたのではない。野望成就に近づいた己の幸福を祝っただけ。
腹のなかで沸々と、おぞましい粘りが渦を巻く。ハイシュフェルディン教の企てに肉体と精神が拒絶を示す。
「ってことはだぜ? ちょっと聞きたいことがあるんだけどよぉ?」
この期に及んで呑気だった。
ジュンは呆然としながら腕を組んで頭を横に傾げる。
「べっぴんさんが聖女になったら本物の聖女ちゃんはどうなっちまうんだ?」
「順当に考えるのであれば あ の ま ま が妥当だろう。玉座にも就けず、神との交信役としての任を下り、天界の民のみが扱える強力な聖マナを宿す権利を奪われる」
東は、跪いたレィガリアに横目を流す。
すると彼は俯きながらも「……比類ない」噛み締めた歯の奥で、そう答える。
聖女派閥の騎士としてテレノアが玉座に就けぬ事態はなにがなんでも避けるべきだ。加えてテレノアの夢を挫くということと同義。
「それは違うんだよね。その結末に収束することは未来永劫ないんだよ」
「というより懸念することすら無意味ね」
調和と調律はあどけない透き通るような声で想定を否定した。
レィガリアは猜疑心を眉間いっぱいに集わせる。
「結末に収束することはありえないとは……?」
天使の降臨から戸惑うのはずっとこちらばかり。
対して天使たちは恐れ敬う種族たちを愉悦と無邪気を交えて観測している。
ただこの一瞬だけは異なった。その瞬間この大聖堂を崇める者たちは全員ヒヤリと背に上る悪寒を覚えた。
ステンドグラスから降り注ぐ。7色にはない空を閉じこめるような瞳が4つ、意味を深めるよう細められる。
「聖誕祭の敗者は聖杯に身を投じ糧となりて聖火は真実の聖杯と成す」
「そうしてようやく聖火は聖杯となりて完全な聖なる力を種族に灯すのだから」
直後「バカなッ!?」という咆哮と鎧のけたたましい鉄擦れが神聖な場に響き渡った。
信心深いレィガリアでさえ嫌悪し、訝しむ。
天を称える兵たちでさえ狼狽え、跪くことを止める。憔悴の様相で天使たちへ審議を問う。
「此度の聖誕祭でテレノア様が敗退した場合存在そのものが消滅するというのですか!?」
「そうだよ。でもそれは消滅とは少し違う」
「貴方たち種族の捉えかたしだいでは、物語のピリオド。救いある顛末であるといえるはずよ」
怒鳴るような逼迫した叫びだった。
しかし天使たちは、はて、と首を捻るばかりで気にした様子もない。
2倍は体躯差がある大人が声を荒げたところで余裕の笑みを崩そうともしなかった。
「新聖女が生まれれば現聖女は当然永遠の円環から外されてしまう。しかし代わりに器となったハイシュフェルディン教の娘が聖女の枠組みへと移り変わる」
「そうなることでも現聖女の夢を叶えることに代わりはないはずよ。次代聖女のなかでともに聖女として在りつづけられる」
この時点でもうかしずく騎士はいなくなっている。
誰もが突きつけられる現実に苦渋という失意を味わう。
そうして宛てのない夢の果てに溺れる少女に絶望と失望を抱く。
「あははっ! 友だちのために身を捧げたうえにずっと一緒にいられるなんてとても仲睦まじいことだね!」
「うふふっ! なんてロマンチックな結末なのかしら! これこそが調和と調律の意図する公正で厳粛な審判よ!」
あははは。うふふふ。神を奉る大聖堂に悪意のない悪が反響した。
狂気だった。否、上位存在にとって必要なのは個の人格ではないことを意味している。
きっと調和と調律――カナギエルとミナザエルにとっても与えられた役割を果たしているだけに過ぎない。
必要なのは、聖女であり、テレノアではないのだ。ザナリアが聖女であっても聖女という枠さえ埋まればそれで構わない。それだけ。
そして平等を謳う天使たちの言葉通りならば、未来は2手に分かれるということ。
「教団が負ければ……お父様が聖火に焼べられる?」
ぽつり、と。混迷する大聖堂に滴の如きつぶやきが漏れた。
ザナリアは跪いた姿勢のまま瞳を固定している。
しかし銀眼はこれ以上ないまでに見開かれ、瞳孔さえ開ききっていた。
「聖女様が負ければ聖女様が死に……私たちが負ければお父様が死ぬ?」
「キミのような女性が死ぬなんて物騒な言葉を使っちゃダメだよ。彼らは勝敗がどちらであろうとも世界の未来のためにその身を窶して救われるんだ」
「存在として感知不可となるだけで生きたという証はなによりも濃いものとなるの。肉体を失っても主様から賜った魂の破片は世界の歴史に大きく名を刻むことになるわ」
天使の御触れが事実ならば聖誕祭の意味そのものが莫大に流転する。
聖女か教団かどちらかが勝利すれば、どちらかが敗北する。
勝者は敗者の魂を喰らい栄光を手にする。聖女という栄冠を手に玉座を賜る。
人の世であれば死闘を意味していた。
「……ハイシュフェルディン教が聖火に焼べられる……?」
その時。誰もが後悔をした。
それ以上の底はないと見限っていた。
しかしそうではない。揺らぐ意思で振り返れば、そこに彼女はいる。
「……もし教団側が勝利した暁には、私の代わりにザナリア様が聖女に任命される……?」
大聖堂にあるたった1つの入り口付近に立っていた。
恐らく信心深い彼女もまた朝の祈りにこの場を選んだのだ。そしてなにごともない朝を求めて扉に手をかけた。
その証拠に朝の彼女は戦装束の金鎧を脱いでいる。
ふわりとエアリーな揺れ髪にはティアラがちょこんと乗せられていた。白く肩をはだけさせたドレスもまた大人びて、清楚でいて、神聖さを振り撒く、聖衣を身にまとう。
「――っっ!!」
テレノア・ティールは、しばし口元を手で覆いながら硬直していた。
遠間から見てわかるほど顔色は土気色をしており、見開かれた両眼にはうんと涙が滲む。とてもではないが正気ではない。
「これはいったいどういうことなのかしらねぇ? 私の目には地上にいてはならない連中たちが、いるように見えているのだけれど?」
そんな彼女のすぐ間隣。彩色異なる瞳が剃刀の如き鋭い眼孔を光らせる。
聖女側の側近。昨日聖城に帰還したユエラもまた朝の聖堂に赴いていた。
しかも彼女の場合他の種族と異なって、物怖じしない。真っ直ぐに捉えた先には天使がいて、明らかな怒りの感情をまざまざと浮かべていた。
「わぁっ! 見てご覧ミーナっ! 自然女王だっ!」
「もちろん見ているわカーナっ! あれこそが選定された希少な混血の完成形ねっ!」
天使たちは「自然女王だ」、「混血だわ」と、ユエラを見て、くすくすと笑う。
よりいっそう嬉しそうだった。耐えられずといった感じでその場で踵をとんとん上下させる。
対して対象となったユエラは、「チッ」舌で不満を奏でた。
「レィガリア! いまの話は私の聞き間違いじゃないのよね!」
「……。先のお達しは調和と調律の天使様方による天啓である。これを覆すことは創造主、あるいはより高位な天使でなくば不可能だ」
レィガリアは狂おしげに瞼を閉ざすと、力なく首を横に振った。
これは祭りではない、儀式なのだ。浮かれていた脳が強引に事情を刻む。
「ならわかったわ」
丈の長いローブが舞う。
革が跳ねられると隠れていた官能的な肉体が7色の元に照らしだされる。
蔓蔦を巻いただけの装い。男ならば無意識に視線を向けてしまう極上の曲線が目覚ましい。
「あらゆるツテとコネを駆使してでも総力を結集し、大陸の魔物を駆逐してやろうじゃない。エルフ、ドワーフ、ピクシー、ワーウルフ束ねる複合種族。それから龍族にも招集をかけるわ」
「――ッ!? 龍族ですって!?」
驚きの声を発したのは、ザナリアだった。
振り返ると同時に彼女は地を蹴るよう走っている。
そうしてユエラの足下に身体ごと突進するようにして縋りつく。
「龍族までもが聖誕祭に加わるのであれば教団側に勝ち目がなくなってしまいます!! ですのでお願いですユエラ様ッ!! お父様を――お父様をどうか殺めないでッ!!」
彼女が縋ってでも発したのは、絹を裂くが如き慟哭。
それをユエラは虫かなにかを見下すように振り払う。
彼女の手と同期するよう現れた青蔦がザナリアの身体にとりついて強引に引き剥がす。
「遊びは終わりなのよ。必要であればピクシー領で時の軍勢を留めているLクラスにも協力を仰ぐことになるわ」
「いやっ、離してください!! お父様が聖火に焼べられるなんて絶対に嫌ッ!! イヤアアアアアアアアア!!」
遠ざけられても必死になって手を伸ばした。
涙を散らし、草を掻き分けるようにユエラの元へ這いずる。
痛ましいほどに健気で、それだけにもう見ていられない。
どうしようもなかった。そう、この身にはなにもなかった。友が、仲間が、どれほど苦境で藻掻いても。
「……っ」
ミナトは無自覚に握っていた拳を解く。
肩は脱力し、開かれた手にはじっとりと汗が滲んでいる。
友の悲鳴を聞きながらも、いつもこう。同じ過ちが繰り返されていく。
――いつもこうだ。オレだけ……抗うことも、戦うことすら、許されない。
己の無力さを噛み締めながら、天を仰ぐことしか出来なかった。
そして敗北者が視線をするりと空に逃がす。と、白き雄々しき雄大な羽根がわあと大聖堂の上部に羽ばたいている。
「ねぇ、ところで――人間たちはどうやってこの世界にこられたのかな?」
「ねぇ、どうして――人間たちはなぜ縁の鎖が繋がっていない状態でこちらの世界の扉を発見できたのかしら?」
見たものが心奪われるほど、2人は美しい姿をしていた。
白い足は絨毯を踏むことはなく、ゆらゆらと宙ぶらりんになっている。
羽ばたくというより浮遊しているに近いか。不思議な力が天使たちを中空に固定していた。
世に描かれたどの抽象画を凌駕する。なにせ天からの使いが現実に純白の光まとう大翼を羽ばたいているのだから。
東とジュンはほぼ同時にハッと肩を揺らす。
「ッ、そういえば確かにそうだ!? 時空の狭間に閉じこめられた際になぜかミナトにしか光が見えていなかった!?」
「俺たちのなかじゃ誰もこっち側の世界に向かう光は観測できなかったじゃねぇか!? そもそもミナトが合流してこなけりゃ俺たちはあの場で一生とり残されていたってことだぜ!?」
そして2人はまったく同じ速度でミナトのほうへと振り返った。
連鎖は留まらない。ザナリアの抗い喘ぐ悲鳴と重なってすべてが一緒くたになって動きだそうとしている。
さらに彼の内側で別の声が感情を揺らす。
『縁の鎖……? 1人だけが見えていて……しかも、みなと? ッ、まさかそんなことあるわけがッ!!?』
はじめからではなかった。はじめに覚えたのはただの違和感だけ。
しかし途中から気づいていてしまった。このルスラウス大陸世界には、過ぎ去った残影が見えていたから。
ごめんなさい。そう、記憶で難度も聞かされたサヨナラ。ここにいる彼とここにはいない彼女だけが知っている、救いのなき別れの頁。
「いますぐにキミの名前を聞かせて欲しいッ!!」
ゆらりと揺らぎ黒き髪の少女が大聖堂の領域を踏む。
実体化したヨルナは、愕然とするミナトの肩に捕って揺さぶる。
「キミの、その、ミナトの後につづく本当の名はいったいなんだッ!!」
「オレの名前は……」
ひと息ついて覚悟を決めた。
テレノア・ティール、ザナリア・ルオ・ティール、レィガリア・アル・ティール。
そう、奇しくもミナトのラストネームであるティールとは、この世界にありふれたラストネーム。
気づいていたのだ。だから頑なにマテリアルのミナトと呼称することで種族たちを欺きつづけたのだから。
「オレの名前は――ミナト・ティール。イージス所属マテリアルリーダー、マテリアル1だ」
意を決し、己の真の名を告げた。
(区切りなし)




