147話 失望の園《Paradise Lost》
東は女給仕の手から厚紙をとりあげる。
紳士とはいえない行動だった。それだけに彼の驚愕具合が窺える。
「これが真実だというのであれば人間を無償で保護するということになるな」
ダークブラウンの瞳が羅列された文字をつらつら読み進めていく。
当然書かれている文章は大陸のものであって人の共通言語ではない。
しかしこの世界には翻訳の道理が敷かれている。そのおかげで人間でも線がのたうつようなエルフ文字を理解できてしまう。
「ご覧いただける通り自由を剥奪するつもりは一切ありません。契約では貴方方人間たちを我々エルフが無償で保護するということに重きを置いております」
リアーゼは微風のように笑うばかりで底が知れない。
もし契約の内容が語られる通りであれば破格の待遇といえる。
ただそれだけにおいそれと鵜呑みにすることは難しかった。
「保護ってつまり、どういうことだ?」
ミナトが問うも、東は答えない。
「…………」
一心不乱。血眼になって契約書の文字に食い入って読み漁る。
「保護というのは人間様たちの衣食住のすべてをこちらで手配するということになります」
代わりに女給仕が超然として返答した。
厚紙をとりあげられ手持ち無沙汰となっている。
東の強引さにこれといって怒りを覚えた様子もない。ただ無感情。
「もし望むのであれば設備等の投資や娯楽、嗜好品共々をすべてこちらで無制限に手配させていただきます」
「それって……働かなくても勝手に国ぐるみでなんでもしてくれるってことか!?」
「そのようなご判断でよろしいかと。それでも就労に励みたいとお申しでるのならばこちらで良き働き場を斡旋いたしましょう」
まさに至れり尽くせり。とてもではないが信じられる話ではなかった。
巧妙な詐欺の手口と疑ってもオカシイ話ではない。なにしろあちらは望むまま望むものを無制限に与えるといっているのだから。
「そちらにとって悪い話ではないと思いますが、お如何でしょう。あくまで貴方方への真っ当な報酬としてご用意したものですのでお受けとりいただければ私としても本望なのですが」
リアーゼが嘘をいっている様子は――給仕共々――微塵もなかった。
それどころか人々を前にまるで我が子を慈しむ母であるかのよう。包みこむたおやかな笑みを咲かせている。
はたしてそこまで人に尽くす理由はいったいなんなのか。多くのエルフを救ったことは事実だが、とても対等な報酬とは思えない。
東が厚紙を読み終えて顔を上げる。
「1つ2つほど伺わせていただいても構わないだろうか?」
「はいっ。時間の許す限りであればいくらでも質疑応答にお付き合いいたしますわ」
契約内容を読み終えてなお半信半疑といった感じ。
ミナトと同様にエルフたちを信じ切れていないのだ。
対してリアーゼは出会ったばかりの様相から変わることなく、品良く、凜としつづけていた。
「では単刀直入で申し訳ないのですがね。なにぶん俺は話が早いのは多くの利点を産み人の魅力を高める美点として考える性分なので、お許し頂きたい」
東は、リアーゼを正面から見据える。
高い位置にある腰に両手を当てて僅かに前のめりに構えた。
この男は飄々としているが、決してバカではない。多くのモノから信頼されるだけの様相と風貌ならばそこらの大人以上にもつ。
その年輪より遙かに若々しい眼光の瞳の奥には、鷹の如き鋭さを併せもっている。
「我々人間にいったいなにを望む?」
薔薇の園に一陣の風が舞う。
豊かな花の香を乗せた微風が幾重にも重なった赤白桃の花弁を揺らがす。
「望むもなにもありません」
微かな間を開けてリアーゼはふふ、と繊細な喉を鳴らす。
背もたれに手をかけ立ち上がる。所作のみであるにもかかわらず白百合の花が咲くような楚々とした色気が舞う。
凹凸のクッキリとした鼻筋の通った横顔でさえ精巧。和人と比べると残酷なほど。
なだらかな撫で肩、均整のとれ長く美しい手足。神に寵愛されているかの如き完全さ。
「私の夢はとうに叶っているのです。貴方たち人間という新種族がこうして再び大陸に根づく。私はそのことを心から賛美しているのですから」
リアーゼが猫のように腰を揺らしながら歩み寄る。
すると東はたじろぎつつ表情を強張らせた。
「貴方の語るその言葉が真実であれば……つまるところ我々に1つの結論を求めているということになる」
「お察しの通りですわ。しかしすぐに解答を導く必要はありません。大陸種族と比べて命短き定めとはいえ互いに歩み寄るだけの時間はいくらでもございましょう」
リアーゼは東の胸板にしっとりとしな垂れかかった。
まるでねだるように男の胸に指を這わせて濡れ瞳で彼を見上げる。
一見して妖艶な舞台だが実のところそうではない。東は明らかな誘いを受けてなお拒絶の意思を残していた。
その証拠にいつでも捕れるリアーゼの輝かしき美を頑なに抱きしめず、自制している。
「ねえ? そちらの若き御仁様もそう思いません?」
蠱惑な微笑が狙いを変えた。
状況について行けてないミナトは、ドキリと心臓を跳ねさせる。
「な、なにですか? お、おい東これっていまどういう状態なんだ?」
「…………」
東は答えようとしない。あるいは沈黙が答えか。
どころか瞳さえ閉ざし、身じろぎひとつしないまま、佇むだけ。
見かねたように給仕の女性がほふ、と吐息をひとつ漏らす。
彼女はそっとミナトの肩に手を添えてから唇を耳元へと寄せた。
「リアーゼ女王は貴方方人間がこの大陸世界に居着くことを願っておられるのです」
女性特有の甘い香と潜めた息が神経を尖らせてくる。
ミナトはゾッと身震いを覚えながらも己の耳を疑って剛直した。
「え、そ、それって……!?」
回す首の関節がぎぎ、とブリキのように軋む。
そうしてようやく東のほうを見る。
すると彼もまた覇気のないわびしげな表情でミナトのことを見つめていた。
「コイツら……オレたちに元の世界へ帰るなっていってるんじゃないのか?」
肯定でもない。しかし否定するでもない。
ミナトは寒気を覚えて声を震わせる。
「それなのになんて顔してやがるんだよ? オレたちは元いた世界に帰るために行動してたはずだぞ?」
「あくまで選択肢のひとつとして思慮していた事態でもある。船を直さずこの世界に永住するという可能性はゼロではない」
そんな選択肢があってたまるか。
思いを口にだす前にミナトは東の胸ぐらを締め上げていた。
「バカいってんじゃねーよ? それってつまりノアの民が魔女に喰われるのを放っておけってことだぞ?」
「あくまで可能性としてあるという話をしているだけだ。もしかしたら船をどうやっても修理できないことだって考え得る」
いまミナトの内側にあるのは怒りではなかった。
落胆、失意、失望。そして怯え。
「それに考えてもみるんだ。お前の語った魔女の話が本当のことならば宇宙へと戻ったとしてノアが無事であるという保証がない」
「なあ……そっちの道を言い訳で塞ぐのは違うだろ?」
「それどころかあの闇に住まう無数の化け物のなかをどうやってもう1度掻い潜るというんだ。船が修理できたとして世界の狭間を確実に抜けられる方法はない」
「おい待てよそれ以上は聞きたくねぇよ? 黙れよ? オレたちがここまで進んでいた道はそっちじゃねぇはずだろ?」
ミナトは縋るような思いで目の前にいる大人を見つめていた。
なのに東は理路整然と語るだけで、こちらと一切目を合わせてはくれない。
否、本来であればそれが真っ当なのだ。ミナトだって頭の片隅においやりながらも可能性としては考えていた。
元いた世界に帰るために必要なのはブルードラグーンの修理だけではない。修理はただが第1段階でしかないのだ。それ以降の課題のほうが莫大な難度を秘めている。
「船の修理が完了したとして闇を抜ける途中で攻撃を受ければ俺たちは犬死にだ。かといって抜けられたとしてノアの現状は不明。戻っても母船がなければ俺たちの帰る場所は残されていない」
なおも東はこちらを見ようとはしない。
そのはずなのに口だけはペラペラと良く動く。
「お前だってこの世界の美しさは知っているだろう? あんななにもない星の海を延々と漂いつづけるよりもこちらの大陸世界で生きるほうが人間として正しいとは思わないのか?」
「じゃあミスティさんたちはどうするんだよ!? ディゲルは!? チャチャさんは!? 杏やウィロメナや久須美たちは!?」
「ノアの民はどうなる!!?」声を押しとどめるだけの冷静さはもはやない。
噴出する思いに似て悲痛めいた悲鳴だった。
叫びが薔薇園にうわんうわんと響き渡る。
「ノアの民を忘れてこっちで生きろっていうのか!!? オレたちだけが生き残ってそれを平和だって抜かすのか!!?」
なのに縋る手でいくら揺らしても意味がない。
大人は口を閉ざすばかり。この渇望に応じてはくれないのだ。
これは子供の、未成熟な我が儘でしかない。だけど唯一の大人が手伝ってくれなければ我が儘のままで終わってしまう。
だからミナトは諦めたくなかった。導き手である東をなんとしてでも繋ぎ止めなければならなかった。
「……きる……?」
「……へ?」
ミナトは思わず怯え縋る手を止めた。
東は未だ前髪の影に隠れてでてこようとはしない。
しかしその放ったひと言は、彼の心を現す完全な意味を伝えていた。
「フレックスすらまともに使えないお前に……なにができる?」
そこからミナトがなにかを言い返すことはなかった。
伝える気力さえぽきりとへし折れるように膝からすとん、と崩れ落ちてしまう。
「お前以外の連中はどうする……? 幸運にも人の生きられる世界に降り立ち穏やかな暮らしを望む若者を……俺の一存でまた死地に向かわせろというのか……?」
東の声は低く震え、拳は硬く握られていた。
それ以降のミナトは記憶さえままならなかった。
頭を殴られて消し飛んでしまったかのよう。その薔薇の園で見た景色は遙か遠く。
ただ覚えていたのは、信頼していたはずの大人が本気の眼差しで歯を食いしばっていたことくらい。
その日からミナトはブルードラグーンへと帰ることを止めた。
涙は涸れている。代わりに心が渇いていく。
少年は現実を受け入れることさえ拒絶し、足掻くことさえも拒んだのだった。
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