135話 ブサイク《White Velour》
夢現をたゆたう微睡みの表面をけたたましいアラーム音が遠慮なく触れていく。
瞼を開く前に手を伸ばして目覚ましを黙らせる。
「……う~?」
重い身体を引きずるように頭を揺り起こす。
意識の覚醒もままならぬ状態で目をぐりぐりこすった。
よたよたと覚束ない足どりでバスルームへと向かうと、鏡横に備え付けられた加湿済みのタオルを1枚引き抜いてぐしぐし拭う。
鼻腔いっぱいに化学洗剤の香りが流れこんでくる。ほんのり暖かいタオルは僅かに塩素の匂いが染みついていた。
拭い終えた使用済みタオルはそのまま洗濯用のボックスに戻しておく。こうすることで自動でクリーニングがされ、やがて元の場所へと戻される仕組みとなっている。
ここまでくるとだいぶ目を覚めてくるというもの。
「……ひどいかお」
鏡の向こうにいる少女が未だ眠たげな眼差しで蔑んできた。
目は兎のように充血しているし、瞼もぽてぽてと腫れぼったい、頭髪もボサボサである。
いっぱしの乙女としてこのままプライベートルームの外にでるという無謀な選択肢はない。
「……おふろぉ」
よろよろ、と。透明な個室側に入っていく。
扉がオートで閉じられると噴出口からほどよく暖かい霧が噴きだした。
少女は四方八方から当てられるミストを浴びながらほう、と長めの吐息を吐く。
「あ~……生き返る。別に死んでたわけじゃないけど」
こういう独り言をいってしまうのも微妙におじさん臭いといわれてしまうのだろう。
しかし誰も聞いていないし1人なのだから許してもらいたいものである。
バスルームにミストが立ち籠めていった。腕やヘソ太ももなどの普段はあまり露出させない白い肌を湿らせていく。
常日頃からパラダイムシフトスーツをま全身にとっているというわけではない。睡眠時などはさすがに縮めて自由を確保することも多かった。
いくら老廃物を消化してくれるスーツといえど寝るときくらいは解放されたいというのは、人間の性。
しっとりと滲む汗とともに老廃物が滲んでいく。とはいえ目に見えるものではないから気分の問題だ。
「少なくとも……嫌な疲れは抜けていくわね。このまま嫌なものすべて溶けだしちゃえばいいのに……」
軽く頬を叩いてから個室をでて身体を拭う。
芯からほんのり温まったおかげで目覚めは十分だった。
塩素臭いバスタオルをボックスから引き抜いて身体を拭いながらリビングのほうへと向かう。
リビングに戻ると1人に与えられるにはやや広めの空間が広がっている。空気が若干冷え冷えと感じられるくらいに殺風景だった。
少女は化粧台にすとんと小ぶりな尻を下ろす。
片手に装備したドライヤーで髪を乾かしながら、もう片手間に小物入れのなかを漁っていく。
「リップ……リップとぉ……あった!」
とりだした櫛とリップクリームを台の上に置いた。
ひとばすは髪型を整えるほうを優先する。引っかかりの少ない粗めの櫛でざっくりと明るめの髪を梳いて伸ばす。
一般的な女性と比べればかなりこざっぱりした髪型だという自負はある。しかし乾きやすく整えやすいというのは利点であろう。
時は金なりとはいえだ。たまには女性らしい振る舞いもするべきかと思うこともあったり。……なかったり。
「んー……」
化粧台の鏡にはむっつり顔の少女が口を三角に尖らせていた。
それから仕切りに首を傾げてあっちを向いたり、こっちを向いてみたり。鏡に映る自分を改まってよく観察してみる。
「やっぱりウィロとか久須美みたいに女性らしくっていうのは難しいわね。胸はあるほうだと思うけど、愛嬌でいったら夢矢くんとか愛のほうがあるし……」
睨んでみたり口角を引っ張り上げてみたり。
少しおしゃまなウィンクも決めてみたり。
同世代と比べて育ちの良い胸を押しだす。幅の広い腰に手を添え理想のポーズを探してみる。
なのだがやはりというか、どれもしっくりこなかった。
大人の階段を上り始めたとはいえ己の想像していた大人からはだいぶほど遠い。
「……アホらし。朝っぱらからなにやってんのかしら」
少女には自分が無愛想だという自覚もあった。
気丈、当たりが強い、生意気。そんな安い無礼言葉は聞き飽きるくらい聞いた。
だからといって今日から唐突に自分を変えるというのも鼻で笑いたくなる。
「アナタって本当にブサイクね? いつもいつも我を通すことしか考えてないからそんな無愛想なのよ?」
鏡の向こう側に立つ少女は、いつもなにかに飢えている。
環境も境遇もなにもかもに満足を覚えたことがなかった。
常になにかに飢え、向上を目指し、挫折を覚え、たとえ達成しても満たされることはない。
自分と向かい合っているだけでなぜかムカムカしてしまう。だからてきとうに前髪をぱっぱと払う。用意しておいたリップを唇に引いて朝のルーティンはおしまいとした。
少女は化粧台から立ち上がってソファーの上に脱ぎ散らかしてあった制服を拾い上げる。
ビキニタイプに分割させたパラダイムシフトスーツの上からスカート、シャツ、ジャケット、上着と順に着こんでいく。
制服のシワを伸ばしてしゃんと立てば余所行きの完成。冷蔵庫から透明なシリンダーをとりだし、ぐっ、とひと息に朝食の液体をそのまま喉へと流しこむ。
わざとらしいミントの香りが鼻につく。不快感を水でゆすいで濾過器直通の排水へと吐きだす。
そうして口を拭ったタオルを洗濯用の箱に投げ入れたところで、ちょうど通信が入った。
『杏ちゃん起きてる? もうそろそろみんな集まってくる時間だよ?』
聞き慣れた友人からの慎ましいモーニングコール。
約束の時間には余裕持って行動することこそ一人前なのだ。
回線の向こう側にいる彼女の幼馴染みもまた特に時間と約束を尊重する。そのため余裕をもって行動するのはチームの決まりでもあった。
「よしっ!」
これで本日も国京杏の出撃準備が完了した。
両頬を強めに叩いて気合いを入れて臨む。
最後に化粧台の上に置かれたデジタルフォトフレームへ別れを告げることも忘れない。
「お母さん。いってきます」
どこか自分に似た面影の女性へひと言を添えてから私室を後にする。
そこに映された女性こそが、彼女を不細工で無愛想で不満にさせる原因だった。
いまはもういない。手の届かぬどこか遠い場所にいってしまった。
そう、あの日に出会った彼と同じ。
ここにもういない。
………………