109話 届かぬ悲鳴、届かぬ願い《Suddon Attack》
「早く! もっと走って!」
村をでてからどれほど逃げただろうか。
エルフたちは護衛たちとともに森のなかを疾駆する。
後方からは無数の魔物が追従してくるため予断を許さない状態だった。
耳やかましい奇声を発しながら脇目もくれずエルフたちをとり囲まんとしている。
「Keeeeeeee!!」
連中にとって種族は餌か袋でしかない。
男ならば血を啜り肉を食らい骨をしゃぶる。女も大半は同じ運命を辿るが、気に入られれば巣に連れ帰ってハイヴの糧とする。
数を数えたらキリがない。大きさは少年少女ほどとはいえ小鬼よりは些か大きい。苦難を越え成長した大型種の群れだった。
小鬼よりも力は強く狡猾。それでいて手爪はナイフの如く鋭利で攻撃的。
奇声は耳やかましく、唾に腐臭をまとわせにしどと散らす。
「Kekekekeeee!!」
「――ッ!??」
狙われた婦女は足を止め青ざめた。
すかさず木盾の兵が回りこんで間に割って入る。
「させるものかァ!!」
「――Geッ!?」
無防備に飛びこんできた鼻面へ盾を全力で叩きこむ。
顔面を穿たれた鬼は青い流血を鼻穴から吹きだす。背から強かに地面へと崩れ落ちる。
しかし次の瞬間木盾の兵は耽美な顔を苦痛に歪めた。
「ぐぁっ!? ば、バカないったいどこからの攻撃だ!?」
装備の薄い太ももに木枝が深々と刺さっていた。
先端が雑に尖らせてあり杭のように加工してある。明らかに自然のものではない。
「ま、まさか先の1撃は陽動!?」
「――っ!?」
婦女が慌てて木盾の兵の袖を引く。
と、別の兵士が彼に向かって叫ぶ。
「後ろだッ!!」
注意する叫びも虚しく這い寄る影が兵の頭上を横切る。
しかも今度狙われたのは婦女のほうではない。怪我を負った木盾の兵を爪が狙う。
「Kiiiiiiiiiiiii!!」
「し、しまった!?」
即座に盾を構えようとするも、がくり。
深々と杭の刺さったほうの膝が崩れた。
姿勢を崩した兵にニタリと下卑た笑みが降り注ぐ。
鬼は盾を蹴り飛ばし覆い被さるようにして兵を押し倒した。
「Kya! Kya! Keeeeeeeeee!!」
「は、なれろ! 邪魔をする、なあああ!」
組み伏せる鬼の力は強く、粗暴。
比べて兵の青年はあまりにも華奢すぎる。
「ここから少しでも遠くに逃げて! ここは我々に任せ民の方々はいますぐここから逃げてください!」
幾度と爪が放たれ整った顔に傷が刻まれていくなか彼は必死に叫ぶ。
しかし婦女は決死で足掻く彼から離れられずにいた。
「っ!? っっっ!!?」
ただおろおろと右往左往するしかない。
周囲で戦闘する兵たちも魔物の多さに圧倒されて手が足りていない。
すぐ近くには己を守り組み伏せられた兵が1人ほど。なおも鬼からの攻撃を辛うじて受けながら藻掻いている。
「Kiiiii……!」
「ッッ!?」
狼狽える婦女の腕が別の鬼によって引き上げられた。
それは1撃目を囮としてこなした鬼だった。
戦場とは常に流動しているもの。狼狽なんてしていれば瞬く間に運命は朽ちていく。
余裕を与えられた鬼の行動は1つしかない。悠々と歩み寄って捕獲しただけなのだ。
「Kaaaaaaa……!」
「ッ!! ッ!! ~~~ッ!!」
鬼の生臭い吐息を浴びてようやく理解する。
さあっと青ざめ運命を悟ったところで遅いのだ。
気づいた頃にはすでに終焉という薄氷以上に脆い膜の上に立たされている。
「Ke――kekekeke!!」
鬼は奇声を上げると、婦女の衣服に爪を立てた。
そしてまとう衣服を軽くひと薙ぎに切り裂いて分断する。
珠の如き肌が露出した。形のよい房が押さえを失いふるりと重力にたわむ。
「ッッッ!?」
婦女は口をパクパクとさせながら烈火の如く頬を染めた。
拘束されていないほうの手で慌てて放りだされた胸鞠を覆う。
が、鬼は許さないとばかりにその行動を遮った。両手で婦女を拘束しそのまま木の幹へと押さえつける。
「KEEEEEEEEEEE!!!」
婦女は両腕を頭上で拘束されてもはや為す術なかった。
逃げることも逆らうことさえ出来ず。彼女に出来ることは逃げなかったという後悔のみ。
鬼は捉えた獲物の濃い匂いのする箇所に鼻を宛てがう。冷えた汗でしどと濡れた首筋、蒸した脇、軽く触れるだけで沈む胸元に顔を埋めるようにして吸気していく。
それからこれは己の勲章であるとばかりに青黒い舌を這わせて味をみる。
「Keeeerarara!! Kiiiiiiihiiiiiira!!」
「――ッ! ――ッ!」
婦女は肌に睨めつく感覚に嫌悪するようぶるりと慄いた。
そして縋るような視線を彷徨わせ救助を請う。
しかし残酷にも希望の光が差すことはなかった。葉の天蓋に覆われた空は暗く、木々の向こう側では未だ魔物との戦う喧噪が響く、
なによりあちらも多くの魔物と戦闘しており生きることに必死なのだ。こんな木々が衝立となっている森の一角になんて気が回る者はいない。
「KyaKyaKyaaaa!! KyaKyaKyaKyaKya!!」
「あ……あああ、うっ……にへ、て……」
婦女の目に映ったのは、己を守ろうとした者の末路だった。
完全な上位体制をとられた兵は度重なる暴力によって顔の原型が失せていしまっている。
幾度と殴られ、刻まれ、窪み、凹み、腫れてしまっていた。呼吸も浅く刻み吐く言葉さえもはや虫の息。
「Keeeeeeeeeee!!」
それでも暴力が終わることはない。
鬼というのは勝手で小賢しい。しかも先ほどのはおそらく仲間と連携を組んだわけではない。同族を犠牲にして隙を窺っていただけ。
同族が殺されることに情はない。しかし自分と同じ種族の者がバカにされることを己の傷とする。同族が功績を上げれば己のもの、逆にしくじればまさに鬼となって首を跳ねる。
魔物とはそういう格の低い知性しか持つことが許されていない。神の魂を与えられていない者に教育や道徳はおろか常識は芽生えぬ。
「……っ、っ……」
孤立無援。しかし婦女は涙を散らしながら口の開閉をするばかり。
しかし彼女にはもう1段階向こう側の絶望が訪れる。
鬼はおもむろに貪っていた身体から頭を剥がす。
「KEEEEE……HeHeHeee……」
「ッ!!?」
婦女は新緑色の瞳をこぼれんばかりに剥いた。
まず生理的に受け付けなかったのは強烈な臭気いだった。そして毒々しく鼓動するモノの巨大さと穢らわしさに喉元が熱くなる。
そしてそれは彼女の無防備な入り口に宛がわれた。ここでようやく見ていたはずの絶望の味を知ることになる。
「…………」
婦女は歯を食いしばりながら世界を閉ざした。
震え怯えながらこれから身に与えられる謂れなき罪を受け入れる。
言葉はない。ただ世界の巡るままに力なきものは時の激流に流され征くのみ。
「女の敵――処す!」
「G? GEEEEEEEErararara!!?」
突如閉ざしたはずの世界に異変が起こる。
巡るのみの時に異物が入りこむ。
婦女は固く閉ざした瞼を開く。
「……! ……?」
と、そこにはなにもない。
鬼も、暴力も、罪なき運命もすべてがなく。あるのは頭部が失せた鬼だったモノがぐたりと横たわるだけ。
拘束される力がなくなったため婦女は腰砕けとなってしまう。白い尻の生のまま木の根にすとんと落とす。
細腕には鬼にキツく掴まれていた痣が生々しい形で残されている。
「ッ!!」
呆けていたのも束の間だった。
己を助けてくれた木盾の兵のほうに意識を向ける。
「……あ、り、が……」
「大丈夫。終わらせたらすぐ治療役を呼ぶ」
「……あの、女性、を……」
「そっちも大丈夫。アナタもあの子も良く頑張った」
ふたりと思わしき声だけが交わされていた。
実態は兵がただひとりきり横たわるだけで、浅く呼吸している。もう1つの声の主は影も形もありはしない。
ふと、婦女の視界でさも霞の如く兵の傍らの景色が揺らぐ。
「声がでない、つまりアナタも呪いに侵されている? まさかこの一団は呪いの患者をどこかへと移送する集団?」
被り物を脱ぐようにして少女が景色に浮かびあがる。
それでも彼女に身体はなく、存在しているのは頭部のみだった。
下草が沈むんで靴底の痕がつづくように婦女の下へと揺らぎが近づいてくる。
「…………?」
「もう安心していい。これは気休めではなく事実」
すると少女は婦女の前で片膝を落とす。
己の羽織っている透明ななにかを、婦女の裸体にふわりと掛けた。
透明の羽織を脱いで現れたのは、年端幾ばくもいかぬ冷たい瞳の少女だった。
少なくとも耳は丸く体内マナを秘めていないためエルフでないことだけは確か。
身には全身を浮かし透かすような衣服とは思えない不思議な皮をまとっている。手には筒を、腰には短剣。どれも大陸世界では見ぬ代物だ。
そして彼女は、天を閉ざす葉の筵へ手にした長い筒状のなにかを高々と掲げる。
「マテリアル! セイントナイツ!」
「To hell with you!!」少女はそう叫んで筒に掛けた指を引く。
途端に放たれたのは紅く煌々とした光の矢だった。
光の矢が天で弧を描く。と、遅れて天蓋を突き抜けるよう幾つかの風が降り立つ。
「俺は襲われてる連中の護衛に入る! 攻撃役は任せた!」
「なら僕は駆除役だね! 1秒でも早く多くの魔物を仕留める!」
「私は魔法で出来る限りの支援と攻撃役を臨機応変にこなします!」
「ヨルナ! 力を貸してくれ!」
降り立った風は、地上に着地すると同時に下草を蹴りつけた。
尋常ならざる速度で森のなかへと散開する。
ただひとり残った少女は、婦女に向かって頬を緩ます。
「もう止まらないし誰も死なせはしない。だって……私たちは盾だから」
そして彼女もまた蒼をまとい影となって消滅する。
「…………」
彼女は、盾といった。
しかし呆然と空虚を見つめる婦女の瞳には、そう映らなかった。
きっとあの勇猛な者らは、もっと勇敢な言葉で、説明不可能な特別である。
それがまさにいま戦場となったこのエルフの森へ、獣の如く放たれたのだ。
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