64話 痛み
よろしくお願いします。
ジルは目を覚ました。そこは南軍の塔の医務室てもなければ、塔の湾曲に合わせて設えられた、狭く小さな自室でもない。
夢を見ていた気もする。だけれど、その夢にも掴み所がない。
ただ、安寧と言うには程遠い緊迫感と、辛気臭い寺院の蝋燭の臭い…その仄暗い印象だけがジルの頭にベットリとこびり付いていた。
夢の内容を細かく振り返る暇もなく、ジルは朝日の眩しさに襲われ、続いて、ジルの胃袋は千切れるように痙攣する。
内蔵が痙攣する痛みに、たまらずにジルは寝返りをうち、うつ伏せになりながら痛む内蔵に治癒魔法をかける。
血液とは違う循環が腹の中を巡ると、痙攣していた胃袋は、ぼんやりと感覚を無くしていく。
普段から胃袋の感覚など意識もしていない。
だけれど、内蔵を通る命の気脈へ魔力を送り、血肉の流れに干渉すると、やはり自身の内蔵が体から切り離され、何処かに無くなってしまった様な空虚な感覚を受ける。
ジルはゆっくりと膝を折り、両手を付いて、自分の体温で温めていた寝床のような物の上で四つん這いになった。
途端に、体の内部に大量の水を詰め込まれたような嫌な重さを感じると、それを口から吐き出した。
ジルは寝床の敷物を汚してしまったか?と、まだボヤける目を開いてみたが、視界に吐瀉物は存在しない。
するとジルの胃袋へ、魔法で切り離されていたはずの激しい痛みが戻ってくる。
ジルは両膝と左手を付いたまま、右手で自分の腹部を押さえる。そして右肩から敷物の上に崩れると、再びの苦痛と向き合った。
「自身の魔力に溺れているな。落ち着けジル…」
敷物の上に身を折ったまま、ジルが背後から聞こえた男の声に意識を向けると、ジルの鼻は、ミスリルに汗の湿っぽさが混ざった軍支給の金属鎧の匂いを拾う…これは仲間の兵士や騎士の匂いだ。
ジルに近づく男の力強い両腕が、背後からジルの両脇に差し込まれると、男はジルを軽々と引き摺り、ジルの体を街灯の下に座らせた。
ジルは街灯を背もたれにしながら一息付くと、再び魔力を集め、自分の体内へ向けて魔力を水平に注ぎ込んでいく。
心を落ち着かせ、丁寧に自らの内臓へと魔力を満たして行く。
ジルは自分自身に使ってみて、改めて自分の治癒魔法の未熟さを痛感していた。
街灯に身を預けるジルの霞む視界の端には、首を失った子牛の死体が転がっている。
根拠はなかったが、ジルにはそれがミノタウロスの幼体、ボビスの遺骸である事が直感的に理解できた。
ジルは明るい空を見上げ、肺を使い空気を吸い込む。
ジルの重い心には、朝の空気は軽過ぎるように感じられて、いくら吸い込んでも何かが足りない。
街灯の下に腰を落ち着け、深い呼吸を繰り返しながら、ジルは体に治癒魔法を染み込ませていった。
手足には力が戻り、胸の奥には熱い活力が少しづつ戻って来るのを感じる。
そして朝の風の中に、東の森から吹き込んで来る木々の微かな香りを感じ取ると、ジルは自分の意思の力を寄せ集め、胸の奥の痛みに硬く蓋をした。
ジルがゆっくりとミスリルの石畳の上に立ち上がると、初老の騎士がこちらに振り返った。
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夜営が開けた朝日の中で、北軍の士長ジェリマリガンは、南軍の軍医ジルが覚醒するさまを見ていた。
その目覚めは、母馬から生まれ落ちた仔馬のようで、地面をのた打ち回り、人の介助を必要としていた。
部下の騎士の一人、マルトスが昏睡の中からジルを引き摺り出し、街灯の下に座らせると、ようやくジルは目を閉じつつも人間らしい顔に戻り、溢れるような魔力で自身を癒やす。そして力強く立ち上がる。
ジルが立ち上がっても、その背丈はジルの背後に立つマルトスの首までもない。
兵士として鍛練を積んでいても、王都に二つ名を響かせていても、彼女は大柄な女性ではない。部下のリオリタと比べても一回りは小さい。
ジェリマリガンはジルの頭越しにマルトスからの視線を感じた。
目を合わせれば、穏便に済ませたい事が痛い程に伝わって来る。
確かに上官に対する発砲は重罪だが、こちらも王都に忍び込んだ身勝手な伏兵だったのだ。
マルトスにしてみても、妻の命の恩人を軍の法で縛る事は避けたいのだろう。
ジェリマリガンは、正面からジルの顔を見る。
女性らしい顔ではない。叩き起こされた兵士の顔だ。
それも、どちらかと言えば、身内と言うよりも捕虜にした敵兵の顔に近い。
ジルの目は澄んでいた。その澄んだ目の輪郭…目尻や眉根には悔しさが滲んでいる。
それが強い自責の念である事も溢れ出ていた。
ジェリマリガンは、ジルが自分自身を責める程には、この軍医を責めようという気持ちにはなれなかった。
ただ、ジェリマリガンには、ジルが勝手に自責の念を抱えているこの有り様が、何か不公平な事のように思える。
ジルが責任を感じているのは軍に対してではない。
ジェリマリガンは、自分の側に立てかけてあったジルのミスリル銃を手に取った。
ジルの澄んだ瞳が、自身の銃を捉える。
ジェリマリガンは奇妙な銃の弾倉を外し、弾丸の種類を確かめると、再び弾倉を銃に戻した。
ジルの銃は、ヴィカリーが率いる銃騎隊の物に似ていた。ジルの銃は、重い銃騎隊の銃よりも更に重い。
良く見れば、銃身は長く精度や射程に優れそうだが、弾倉の構造は一般兵の持つ連発式の物のようで、全体のバランスは悪く、取り回すには草臥れそうた。
ただ、部隊を治癒魔法で支援する軍医が、敵の背後や側面に回り込む事はない。
後方支援に徹するなら、これも合理的なのだろう。
ジェリマリガンは、自身がジルの上官として振る舞うべきか?を悩んでいたが、手にした見知らぬ銃の重みをジルに手渡してしまうと、その悩みは薄れていった。
ジルは渡された自身の銃を手にしたまま、ジェリマリガンを見つめている。
ジェリマリガンは気が付いていた。
自分は、ジルを受け入れる以前に、まだ南軍の士長、セルジュ・クワリテの不在を受け入れる事が出来ないのだ。
ジェリマリガンは語り始める。
「お前は南軍の軍医、巫女擬きのジルで間違いないな。」
ジルの目が、静かにジェリマリガンを見つめ、次の言葉を待っている。
「私は、有能な軍医であるお前を、セルジュ殿から奪う気はない。」
ジェリマリガンは一度長く目を閉じると、目を見開き、再び話を続けた。
「…ただ、今の南軍は壊滅状態だ。大半の兵は、今後は私の指揮下に収まる事になる…だが、お前は別だ。」
その言葉にジルの顔が引き締まる。
「ジル…お前は行方の解らなくなったセルジュ殿を探せ。その原因を突き止めろ。」
「...その原因は、この王都の荒廃とも無関係ではないはずだ。」
そう口に出してみて、改めてジェリマリガンの胸は痛んだ。
セルジュ・クワリテは簡単に死ぬ騎士ではない。だけれど一人の騎士では抱えきれない問題が起きてしまっている。
そもそもセルジュ殿が生きていれば、今の王都から行方を暗ます理由などない。真っ先に現場に出ているのだろう。
だけれど胸が痛んでも、その感情が解きほぐされる訳ではない。考え方や行動を変えていける訳でもない。
ジェリマリガンは、熱く絡まった厄介な感情そのままを、目の前の若い軍医に託した。
ジェリマリガンの目には、ジルの驚く顔が映っている。その驚きは、ジェリマリガンにとっても同じだった。
魔導回廊を介さない出会いなど、国から魔力証を与えられる前の、まだ少年だった頃以来なのだ。
現実のジルを目にすれば、自分が魔導回廊を通して得ていた”巫女擬きのジル”の先入観などは、どこかに消し飛んでしまっていた。
そしてジェリマリガンは、自分の持つ権力を、まるで無邪気な少年のように濫用した。
ジェリマリガンは自らの肩から、自身が羽織る北軍騎士団の紋章"北の空を睨むディスプレイサー・グリフィン"の意匠が小さく描かれた"隠蔽の外套"を外すと、ジルの左手に押し付けた。
「隊を外れている間は、騎士団直属の上級冒険者と名乗ると良い。」
ジェリマリガンは、外套をジルへ預けると、一度北の空を見あげ、話を続ける。
「今、王都の北に軍の補給拠点を設営している。」
「その外套を見せれば、その銃の弾丸も、そこで補充出来るだろう...一度立ち寄ると良い。」
夜営を終えたジェリマリガンには、細やかな軍法を思い出す事は出来なかった。今は魔導回廊を参照する事だって出来ない。
細かい事はどうでも良いのだ。魔導回廊に縛られない事は、ジェリマリガンにとっては、むしろ都合が良かった。
「...ありがとうございます。...士長。」
礼を述べるジルの口は重い。何かを喉に詰まらせているようだ。
それから語られたジルの長い話は、北軍の士長ジェリマリガンの心を、より熱く重苦しく悩ませる結果となる。
外套を外した士長ジェリマリガンの左肩のガントレットと、露わになった右肩の筋肉は、ジルの長い話が続く間も、王都の強い朝日の光に白くに塗りつぶされ、まるで混乱の中に溶け込んでいくようだった。




