58話 人の輪
よろしくお願いします。
まだ朝日は王城の中に忍び込んではいなかった。
それでも、王城の裏庭の一角から零れる物音は、王城で不安な夜を明かした避難民の耳に届き、立ち上がる粉の香りは、彼らの期待をゆっくりと膨らませている。
本来、王城の裏庭には、まだ魔力証を持たない子供達を集める託児所があり、そこには託児所には不釣り合いに大きな厨房と食堂があった。
託児所の建屋が王を守る近衛騎士たちの宿舎として使われていた頃の名残だ。
昨日、王城に現れたパン屋の主人は、兵士と役人に掛け合い、この厨房の奥にミスリル製の粉ひき機を作らせた。
オーブンや粉を混ぜる桶は後回しになる。
まずは兵士たちが備蓄していた玄麦を挽き、外皮ごと粉にして、たっぷりの水でじっくりと浸水させる。
粉を篩いにかける時間もなく、外皮の栄養価も今は貴重だ。さりとて、口溶けが悪いままではパン屋の主人の気がすまない。
だからゆっくりと浸水させて、粉に混ざった外皮を緩め、粉の繋がりを強くする。
そして、この判断は正しかった。
その日の夕方から厨房の水道から得られる水量は細くなり、夜半には完全に止まってしまったが、パン屋が翌朝に使う水に限っては、浸水まで済ませ事足りていた。
パン屋に協力をしていたのは、付与魔術師にしては太すぎる腕をもった無骨で田舎臭い男だった。
彼の作る魔道具は構造も単純で華はなかったが、とにかく頑丈で無駄がなかった。
無骨な付与魔術師は器用に馬を操り、パン屋の求めに応じて、塩や蜂蜜などを人気の無くなった商店街から集めて回る。
人がいなければ書面を残して拝借し、人がいるなら頭を下げて魔力を払った。
▼
まだ薄暗い王城の裏庭では、今朝になって作られた大きな舟形のミスリルの桶の中で生地が混ぜられていた。
左右から3人づつ、6本の腕が底を掬うように生地をかき混ぜている。
5人の弟子は、そんな仕込み方は初めてだったが、元々手取り足取り仕事を習った訳でも無い。
触らせてもらえない仕事を目で盗み、頭で整理し続けては、体で生地の感覚を掴んでいる。
彼らには、新しい道具も製法も、何の問題にもならなかった。
浸水している最中に、外皮に付着していた自然の酵母も少し動き初めているようなので、パン屋の主人は加えるパン種を少し減らした。
この世界の中では、記録に残せる物は全て魔導回廊に蓄積されていたが、何処にでもあり、何処からでも混ざり、何時までも変化を続け、幾らでも分裂し増えていく…そんな酵母の姿やその機嫌の良し悪しは、いくら記録に残しても追いつかない。
だからパン屋はその日の酵母の働きを感覚で見極める。
その仕事は、魔導回廊とは何の関係も持っていなかった。
一晩置き十分に水和した生地には、初めに種と塩が加えられ、緩く捏ねられると、船桶の中でそのまま発酵を取る。
種や酵母が生地を柔らかく持ち上げるのを一時待ち、しっかりと生地が緩んだ所で、蜂蜜を加えて再び練り直す。
生地に体温が移り過ぎないうちに、仕込みの上がりを見極めると、パン屋の主人は生地の分割と成形は弟子に任せて、出来たばかりのオーブンの様子を見に行った。
▼
オーブンは近衛騎士たちの使っていた石積みみの櫓を再利用していた。
櫓の戸口は火を調整する炉となり、新たに梯子をかけられた2階部分は、窓を広げて窯の開口部が作られる。
3階まで続く櫓内部の階段はミスリルのスクラップに戻されて、櫓の屋上に抜ける出口は煙突になった。
石積みの隙間は溶かしたミスリルでしっかりと密閉され、分厚いミスリルの釜床の内部にはパン屋の主人が店から持ち出した火の魔道具が取り付けられた。
一階の炉の中で待ち構えていた付与魔術師が、太い腕から天井に向けて火の魔導具に魔力を送り込む。
魔力を蓄えた魔導具が動き始めると、2階の窯床は燃えるような熱を持ち、屋上の煙突からは揺らめく熱気が溢れ出ていた。
▼
生地は発酵も焼き上がりも速い小さな物から、時間のかかる大きな物まで、様々な大きさに分割され、小さな物から順番にオーブンに入っていった。
次々とパンが焼き上がると、その香りは朝の王城に広がっていく。
焼き立てのパンの香りは避難民の心に染み込むように、朝日と共に王都の隅々まで忍び込んでいった。
いつのまにか、王城の裏庭には人だかりが出来ていた。
焼き上がるパンを待ちながら、避難民はパン屋をぐるりと取り囲むように、整然と列を作っていた。
▼
▼
▼
シジフォスが尻を付く岩盤の床は、既に暗闇ではなく、淡く冷たい光を照り返していた。
背中側で柔らかく輝くスカラベの抜け殻は、星の光のようだったが、目の前に浮かぶ少女の輝きは青白い冬の朝日のようだ。
周囲に飛び散った粉塵も、階下から響いた轟音も、今は落ち着いていたが、目の前の少女の青い髪は虚空に広く漂い、まるで網を貼っているように見える。
少女の白い肌はシジフォスには凍っているように見えた。彼女は人間ではないのだろう。
シジフォスは怯えてはいなかった。その人ではない少女を、恐ろしいとは思わなかった。
だけど、シジフォスの右腕は違っていた。
シジフォスの右腕は、シジフォスの意志に反して、溶けるように姿をかえる。
尻もちを付いていたシジフォスは右腕の支えを失い、上体を右側に傾けた。
シジフォスの右肘が、意図せずに岩盤の床を打つ。シジフォスが軽い痛みに自身の右肘を見ると、液体のようになってしまった黒い右腕は岩盤の上を滑り、シジフォスの二の腕の影に隠れてしまった。
シジフォスが体を傾けたまま顔を上げると、目の前に浮かぶ少女は、冷たい瞳でシジフォスの右肘を見下ろしていた。
シジフォスは、少女の視線の鋭さや、その場の張り詰めた空気を他人事のように感じていた。
少女から逃げ惑う黒い右腕を、自分は横から眺めている。そもそも自分が怒りを買うような理由もない。あのスカラベの抜け殻を汚したのも、黒い右腕だ。
だけど、そんな勘違いも束の間、目の前に浮かぶ少女がシジフォスに近づいて来ると、その青く輝く髪の毛の幾本かが捻じれてまとまり、より太く輝く線になる。
そして、その青い線はシジフォスの右肘の裏側、関節の柔らかい部分に突き刺さる。
黒い右腕ではない。シジフォスの右肘の内側から少女の髪の束が差し込まれている。
その時、シジフォスは身動きが出来なかった。なんらかの魔法の力が働いてるわけでもない。
例えば、靴を履く時、足は動くが靴は動かない。服に袖を通す時には、腕は動くが服は動かない。
シジフォスは、まるで履かれる靴や、袖を通される服のように、さも当たり前にその鋭利な髪の束を受け入れていた。
青い髪の束は冷たかった。冷たい線はシジフォスの二の腕を登り、右肩を通り、首筋を抜けて脳に入った。
冷たい線がシジフォスの脳を横断して行くと、また首筋を抜け左肩に達する。
シジフォスに怖さは無かった。まるで、自分がハンガーに吊るされた衣類になったように感じていた。
実際に、シジフォスの傾いていた上体は起こされて、両肩は地面と水平になっている。
そのまま青く冷たい線はシジフォスの左の上腕を通り、さも当たり前かのように、左肘の内側から外に出る。
そして一直線に宙に浮かぶ少女の頭に突き刺さった。
少女の頭から伸びる青い線が、ぐるりとシジフォスを串刺しにしている。
青い線が強い光や淡い光で、複雑に明滅している。それをシジフォスは目で見る事が出来ている。
だけど、何が行われているのかは全く解らないし、何も感じない。恐怖も痛みも何もない。
それは地中に埋められた魔導回廊の事など、それを突っ込まれた地面からして見れば、何の意味も無い様と似ていた。
シジフォスは眼前に浮かぶ少女の意のままにされながら、自身の尻から感じる岩盤の固さに、何か親近感のような物を感じていた。
3章が開始になります。
サブタイトルの「~話」の部分を「3-1」のように変更しようか検討中です。




