26話 稲妻
よろしくお願い致します。
軍医のジルさんと別れた後、シジフォスは直ぐに魔導回廊の幹線から離れた。
繋がっているだけで頭が痛くなるくらい、魔導回廊には悲痛な情報が溢れている。
幹線から裏路地に逃げ込むと、自分宛に通知が8件来ている事に気が付く。
カヌーとティトと、母親からの6件だった。
母親が寄こした通知の件数からは、いつも通りの健全なしつこさを感じた。
裏路地の細い回線から魔導回廊に繋がると魔力と時間を取られる。
シジフォスは母親からの通知は後回しにして、まずはカヌーの通知から目を通した。
カヌーは王城への避難誘導の補助として、東の丘陵地帯で働いているとの事だ。
周りを見回すと丘陵地帯に人気は全くない。
避難誘導は上手く行っているのだろう。
シジフォスは続いて他の通知を拾いに魔導回廊に潜ろうとするが、視界の端から寒気を感じ現実に引き戻された。
その魔物をシジフォスは見た事も聞いた事もなかった。
一見すると立ち上がった熊のように見えたが、少し小さく細い。腕と体毛が長く、狼のような尾が生えている。
左腕は獣の脚だったが、右腕は真っ黒な人間の腕だった。
魔物の濁った眼がシジフォスを一瞥し、目と目が合う。
シジフォスは理解した。コレはあの黒い両足の仲間だ。
ウネウネと波打つ体毛から粉のような闇が周囲に溢れ出し、東の丘陵地帯を汚染していくようだ。
しかし、シジフォスが身構え、腰に差した短剣に手をかけるのを待たずに、魔物は素早く立ち去った。
繁華街の坂の中腹の方向……シジフォスの実家のパン屋がある方向に。
シジフォスは母親からの通知を確認しなかった事を悔やんだが、立ち止まっては居られなかった。
魔力を”消音の革靴”に流すと、魔物を背後から追いかけた。
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東の丘の繁華街も、裏道に入れば道幅は細く入り組んでいた。
魔物は込み入る路地をまるで無視するかのように進んだが、魔物から溢れた黒い粉を追えば追跡する事は出来る。
尾を引く黒い粉を追いかけ、裏通りを何度か蛇行する。
シジフォスにとっては、子供の頃から走り回った庭のような場所だった。
シジフォスが実家のパン屋の斜向かいの雑貨屋の角に立つと、魔物の側面に出てしまった。
慌てて魔力を”隠蔽の外套”に切り替え姿を消す。幸い、魔物の視線からは外れていたようだ。
魔物はパン屋の向かいの街路樹の下に立っていた。
パン屋から幹線の表通り一本分の距離を取り、パン屋の裏口に通じる脇道を見ている。
そして視線の先にはカヌーの背中があった。
表通りにはパン屋の建物の影とカヌーの影が並んでいたが、シジフォスの目の前でカヌーの影だけがスルスルと魔物に向かって伸びていった。
シジフォスはカヌーに向かって駆けだしていた。
カヌーを助けようと思っての事ではない。むしろ自分がカヌーに守ってもらいたかった。
子供の頃からずっと、カヌーはシジフォスや友人達を守ってくれた。
カヌーと二人であれば、あの魔物も何とか対処できると思った。
そしてカヌーの口から家族の無事を聞きたかった。
カヌーに手が届き、声をかけようと思ったその直後、背後から土を蹴る音が聞こえ、シジフォスの全身が毛羽立った。
シジフォスが振り返るその刹那に、視界の左端に黒い右腕を振りかぶる魔物が見えた。
シジフォスは咄嗟にカヌーを庇っていた。右手でカヌーの左肩を突き飛ばす。
そして黒い刃のように尖った魔物の腕が、シジフォスの右腕を断ち切った。
シジフォスは意識を手放してしまいそうな痛みに襲われたが、
その後の痛みを忘れてしまう程の理不尽な光景に目を奪われていた。
自分から切り離された右腕の断面と、腕が切り離された肘の断面へ、魔物の刃は張り付くように無数の黒い糸を引いていた。シジフォスはそれを他人事のように見ていた。
そしてシジフォスの肘の断面が、その無数の黒い糸を吸い込んで行く。
魔物の刃から無数の黒い糸は離れ、全てシジフォスの肘の断面に吸い込まれた。
負けじとシジフォスの体も、黒い糸を洗い流すように血を吹き出していたが、その血の勢いも黒い糸を黒い粉に変えるだけで、血だまりすらも、その黒い粉に混ざって嫌な臭いを発していた。
シジフォスの魔力も意識も維持は難しく、”隠蔽の外套”の効果も切れる。
シジフォスの左手は、短剣を抜いたつもりだったが、今は痛みと違和感を感じる右肘を抑えていた。もう足も動きそうにない。
シジフォスは痛みに任せて意識を手放し、そのまま眠ってしまいたかった。
意識が朦朧として来る中で、シジフォスは魔物の顔を見た。
魔物の濁った両眼は怯えていた。何か取返しの付かない失敗をしてしまったかのように体はオロオロと後ずさっていた。
そしてシジフォスの微かな視線の先で街路樹が蹴り飛ばされたように揺れ、魔物の背後に稲妻が轟いた。
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キャトスがまだ小さかった頃、雷帝の剣を兄のユダプスが引継ぎ、
雷帝の塔を平民の魔術師、”埃のラスキン”が引き継いだ。
二人はキャトスの憧れだった。
そして時が過ぎ、ラスキンとの結婚の祝いに、兄は王として雷帝の剣をキャトスに授けてくれた。
これからは夫が王都を守り、キャトスがその夫を守るのだ。
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屋根を蹴るキャトスが、魔力をまとった体で宙に舞うと、風の精霊はキャトスを避けて逃げていった。
キャトスの体は風の抵抗を受ける事もなく、空を滑るように飛んでいく。
稲光が輝く両手剣の光の帯を残しながら、瞬く間に不吉な黒い塊に迫る。
眼下に見える黒い塊は、以前叩き切ったメイジゴブリンに少し似ていた。
キャトスが街路樹の幹に斜めに着地すると街路樹は大きくしなる。
キャトスはその反動を脚力で強引に抑え、そのまま黒い塊の背後に飛んだ。
キャトスが蹴った事で焼け焦げた街路樹は、稲光を放つ両手剣と、直視できない程に強く輝く雷の帯で繋がっているようだった。
背中にある両手剣を右手で抜くと、キャトスの体はそのまま斜め前に一回転する。
頭と一緒に、両手剣を構えた両腕も回転し、再び頭上に掲げられると、黒い塊はもうキャトスの間合いに入っていた。
そして強く輝く雷の帯をまとった両手剣は、黒い塊の背中を右肩から両断した。
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キャトスが着地すると、剣先が地面に触れて火花が散り砂煙が舞った。
キャトスは左足を軸に素早く反転し振り返ると、直ぐに黒い塊の生死を確認する。
その目を見ると、既に眼球は朽ちていた。
キャトスは素早く踏み込むと、念のために黒い塊の首を切り飛ばす。
そして砂煙が晴れ、キャトスが振り返ると、小柄な男が右手を抑えて屈みこんでいた。
その屈みこんだ男の真っ黒な腕に驚いた矢先、別の黒い塊が屈みこんだ男の上に覆いかぶさる……切り落としたはずの黒い塊の半身だった。
黒い塊の半身がその自重を小柄な男に預ける。すると小柄な男の体は抵抗するように一瞬白く輝いたように見えた。
しかし、続いて足元の血だまりが真っ黒に染まると、黒い塊の半身は、小柄な男の体を血だまりの中に押し込んでしまう。
小柄な男の体も、黒い塊の半身も、その血だまりの中に沈み込み消えてしまった。
そして血だまりになった地面の部分が凹むと、中心に黒い渦が巻き、そのまま血だまりも地中に消えてしまう。
キャトスは血だまりがあったはずの地面を剣で切り付けてみる。
火花が爆ぜ砂煙が舞ったが、それだけだった。
その直後、王都をゆったりと揺らしていた巨大な足音が急ぎ始めた。
間隔の狭まった足音が近づいてくる。
東の丘の中腹に居るキャトスからも、巨大な足がミスリルゴーレムを担いで走り寄って来るのがよく見えた。
考える事を止めたキャトスは、もう一度両手剣に魔力を込め巨大な足に構え直した。
キャトスはさらなる魔力を剣に送り込もうとするが、その両手剣が向かうはずだった相手は突然爆発してしまった。
キャトスを置いて黒い両足が担いでいたミスリルゴーレムは空に打ち上げられ、
黒い尻尾と一緒になって、キャトスに向かって落下してくるようだ。
キャトスには、それは星が落ちて来るように見えた。
キャトスは考える事も迷う事もなかった。自分の本能に従って素早く行動した。
路地に大柄な冒険者が腰を抜かして呆然としている。
キャトスは彼の命の気脈に素早く魔力を打ち込んだ。これでしばらく体は強張り動く事はないだろう。
暴れられるとやっかいな荷物を、身に着けた鎧や装備ごと肩に担ぐと、キャトスは東の丘から全力で離れた。
キャトスが東の側塔から城壁に飛び、城壁から北の貴族街の方向に飛んでいると、背後から凄まじい轟音が響き、辺り一帯は粉塵に包まれた。




