17話 境界
よろしくお願いします。
シジフォスは起き抜けに触れたベッド脇のサイドボードの質感に魅入られてしまった。
上品なクルミの木を使った木製の家具のように見えて、少し探って見ると内部の枠組みがミスリルで作られている。
一見すると、魔導回廊へ繋がる無粋な突端を見つける事は出来ないが、ベッドから立ち上がる際に、触れる家具から自然に存在を感じる事が出来る。
魔導回廊に繋がるまでの感覚に少し距離があり、上品で柔らかな遅延が心地よかった。
酔った勢いの思い付きで、王都で一番の高級宿"レセンティブス"の一階の部屋を借りる事になったが、居心地の良さは想像以上だった。
サイドボードだけではなく、部屋全体がシジフォスとその魔力証に最適化されているようだ。
あてがわれたのは一階の隅で、従業員用の控室も近く、彼らの歩く音や働く音も聞こえる。
宿から良い扱いを受けているとは言い難かったが、それも支払う魔力相応だ。
裏手の用水路から食材を搬入している音や、働く作業員の爽やかな挨拶、宿を立つ他の客や、その見送りをする従業員の軽やかな声も聞こえて来る。
良い環境から得られる充足感と、清々しい朝の空気が宿全体を満たしていた。
シジフォスがサイドボードから手を離せずにしていると、突然、宿の裏口の防犯用のミスリル床から身に覚えのある圧迫感があった。
上品で柔らかな遅延は全くなく、ズケズケと彼女の威圧感が朝の高級宿に響き渡っている。
すると搬入を行っていた作業員の声も小さくなり、宿の従業員も小走りになり緊張感も増していた。
シジフォスは昨日の一件で彼女には良い印象を持っていたが、面倒な事に首を突っ込む気はなかった。
ただ、この緊張感じゃベッドでのんびりもしてられない。出立するにも丁度いい時間だろう。
シジフォスは外套に袖を通し、短剣を腰に下げると、防犯用ミスリル床の反応を感じた裏口へ向かった。
シジフォスが裏口を抜けると、お気に入りの裏庭に出た。朝日で白い砂利が輝いている。
そこでは南軍区の軍医のジルさんが宿の支配人らしき初老の女性と話をしていた。
初老の女性は昨晩シジフォスの対応を避けた人だ。目で合図をし、予約もなく宿にやって来た酔っ払いの対応を若い部下の男に投げていた。
シジフォスが裏庭に現れると、二人の女性は同時にシジフォスの方に振り返り、そろって似たような嫌な顔をした。
そして次の瞬間、港の方から巨大な金属が叩きつけられるような轟音が響き、海鳥の群れが港から四方に飛び去った。
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ジルの切り替えは速かった。
支配人の事は一瞥もせず裏庭の隅へ進むと、港に向かって緩やかに曲がりながら視線を通す用水路を一目確認し、次に宿屋の脇道へ移動する。
脇道から人が城に向かって逃げていく混雑した商店街を見た後、宿の敷地の境界にあるミスリル床で状況を確認していた。
「失礼、また伺います。」
そして裏庭に戻り支配人に挨拶だけ済ませると、即座に空いている用水路沿いの歩道を港に向かって走り始めた。
ジルが少し進むとジルの体は輝き、港に向かう足は加速した。
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シジフォスはジルの後を追って行こうか迷った。
面倒事には関わりたくないが、何が起こっているのか?解らないまま逃げ回るのも無駄が多そうだ。
カヌーと落ち合う時間にはまだ余裕があったし、既に王都を巻き込む大事になっている。
ギルドに顔を出す前に、直接現場を見ておくのも良いかも知れない。
シジフォスはジルの事を真似て、宿の敷地の境界にあるミスリル床から魔道回廊に接続してみた。
そのまま支配人さんのいた場所を振り返ると、彼女も自分の責任に追われ、裏庭からは居なくなっていた。
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ジルは混乱する作業員をかき分け、居酒屋の前に積まれた空き樽を飛び越えて港に向かった。
港の方向の空には黒い雷雲が見える。
商店の裏側を繋ぐ用水路の側道は朝の搬入で荷物も多かったが、混乱する民よりは余程に避けて走りやすい。商店街の端まで走り、カフェに向かう小さな橋の下を抜けると、一気に用水路の幅は広がり、海の匂いも広がっていた。
自分の足腰の命の気脈に付与魔法をかけ、走行速度を上げる強化魔法をかけると、普段走る時のように息が上がる事がない。
呼吸とは別の循環が下半身でグルグル回り、頭は妙に冷めたままだ。
衝撃音は一度大きく聞こえた後は何も響かない。遠くで人々の逃げ惑う声が聞こえる。到着するまでは何も解らない。
ジルは現場に急行しながら、現実を繋ぎ直すように宿の支配人とのやりとりを思い出していた。
宿の確保が出来なかったのは仕方なかった。王都北側で働く役人が結婚式を行うそうで、田舎から親族を呼ぶそうだ。
王都南の高級宿レセンティブスから王城までは目抜き通りになっている。
王都の民からしても、南の要塞の騎士団よりは、働き者の役人の晴れ姿と、その花嫁の方が見たいだろう。
役人は平民出身の知った名前だった。信頼できる男だ。
兵士が魔導回廊を通して騎士団から管理されているように、役人も魔導回廊を通して貴族の管理を受けている。
黙々と働く役人に、ジルは共感できる面も多かった。
ジルは宿との交渉を後回しに出来た事に少しの安堵も感じていた。
だれれど、港の倉庫街に銀色の巨大なワームが視界に入ると、その安堵は跡形もなく掻き消えていた。
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これだけ大きい魔物が魔導回廊に感知されない。さっき宿の前から確かめたはずだ。
ワームの背景になるように、黒々とした雷雲のような雲が広がっている。
ジルはすぐさま銃を取り全弾を発射する。
ジルが強化魔法で現場に急行した事も、今ミスリル銃を全弾発射した事も魔導回廊には筒抜けで、魔法や魔導具を使った行動は、それ自体が軍や騎士団への報告になる。
ジルはそんな言い訳を思いながら軽くなった弾倉を外し、予備弾倉へ差し替えた。
空になった弾倉を弾帯に戻そうとすると、弾倉はジルの手から零れ、地面に落ちて乾いた音を響かせた。
ジルは空の弾倉を拾い弾帯に収めると手で髪をかき分ける。
そして軍支給の兜を忘れて来た事を思い出した。
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ジルは用水路の側道から、人気もまばらになった商店街に入ると、番頭が逃げてしまった問屋の入り口のミスリル床から魔導回廊に繋がり、目視で得た情報を魔導回廊に流した。
そしてジルが再び巨大なワームに視線を戻すと、その巨体は地下に向けて沈み込んでいた。
自分の想像も付かない魔物が、考えも及ばないうちに次の行動に移っている。
ジルは無力感を感じながら再び報告を重ねると、重い足取りを港へ向けて踏み出した。




