婚約破棄なら先程なさったばかりですよ
【あらすじ、お望みになられた→お望みになった】 あらあら、いけませんね。つい正直に指摘してしまいましたが、こういう時は出来るだけ相手に寄り添うように対応しなければいけないのでした。
「それで、どうして婚約破棄をお望みになられたのですか?」
「それは、お前が一番分かっているだろう! ……それは……ええっと……ああ……そうだ! お前が朝食をいつまでたっても用意してくれないからだ!」
朝食を既に召し上がったことまで忘れていらっしゃるようです。
そもそも彼の頭の中で、私はどういう関係として認識されているのでしょう。妻? それともただの料理人? まさか、あの泥棒猫と勘違いなさっているわけではございませんよね?
……とにかく否定せずに、出来るだけ意図を汲んで差し上げるのが肝心です。
「では、今から朝食を準備してまいりますので、こちらで淹れたての紅茶でもお飲みになってお待ちくださいね」
「ああ! 分かってくれればいいんだ!」
満足そうに頷いて席に着くアラン様。すぐにお食事の支度を致しましょう。彼がこうなってしまったのは私のせいでもあるのですから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある時、私達エルフの住む森からジビエラという名の、おっちょこちょいな小鹿がいなくなりました。彼女は村の子供達が仕掛けた罠に掛かり、寄ってたかって虐められていたのですが、偶然そこにアラン様が通りがかり助けて下さったそうです。
危ないところを救って頂いたお礼をするために、ジビエラは本来人間が訪れることが禁じられている森の楽園へと彼を案内しました。
アラン様と初めて出会った刹那、私の体と心は稲妻に打たれたかのように痺れました。その凄まじい衝撃で、これが運命の出会いというものだと直感したのです。
彼の澄んだ蒼色の瞳、耳に心地よく響く甘くて穏やかな声、全てを包み込んでしまうような優しい笑顔に心臓を射抜かれ、私は瞬く間に虜になってしまいました。
すぐに盛大な歓迎の宴を催すことにしました。そそっかしいジビエラも美味しい鹿肉シチューにして召し上がって頂こうかと思ったのですが、慈悲深いアラン様が悲しまれるかもしれないと考え直して止めました。彼女もある意味、恋のキューピットのようなものですし。
最初は私達の真心を込めたもてなしを大いに楽しんで下さっていたのですが、しばらくすると時間を確認して、そろそろ帰らなければならないと仰ったのです。
「村に幼馴染で許嫁のルイズを待たせているので、心配をかけてはいけないと思って……」
ああ、何ということでしょう! 私とアラン様の仲を引き裂こうとする、浅ましい泥棒猫がいたなんて!
動揺のあまり手を滑らせて、彼が召し上がる飲み物に魅了の霊薬を、食べ物にエルフである私の血を混ぜてしまいました。
いえ……きっと私の記憶違いでしょう。なにせもう百年以上も昔の出来事ですし、愛しのアラン様にそのような無礼な真似をするはずがありませんもの。
真実の愛に目覚めたアラン様は、それから泥棒猫の汚らわしい名前なんて全く口にしなくなり、代わりに私の名を耳元で何度も甘く囁き、永遠の愛を誓って下さいました。
彼と幾度も情熱的に体を重ね、互いの愛を激しく確かめ合いながら、直に授かるであろう子供達に二人の馴れ初めを語って聞かせる場面を夢見て、至上の悦びに打ち震えました。
そんな愛と幸福の日々は、数日前に突如として終わりを告げました。
アラン様が急に取り乱して私のことを口汚く罵り、村へ帰ると言い出されたのです。一体彼が何故そこまで激怒しているのか、私には全く理解できなかったのですが、しばらくしてこれが所謂『ホームシック』というものだと閃きました。
彼が住んでいた村は、愛を交わした明くる日には跡形もなく滅ぼしてしまいました。だって、せっかくわざわざ結婚の御挨拶に伺ったのに、私のことを誘拐犯や魔女呼ばわりする非常識な人間ばかりだったものですから。
鳶が鷹を生むという言葉があるように、きっとアラン様は奇跡的にサルから生まれた優れた人間だったのでしょう。ですから彼を産んだ後のサル達は、元から無価値だったのです。
今はただの荒れ地になっているはずですが、それでも少しはアラン様の心が落ち着くかもしれないと思い、彼を明るく笑顔で送り出しました。良き妻というのは、夫の多少の我儘にも寛容でなければなりませんからね。
しかしいくら待っても彼は帰って来ませんでした。痺れを切らして村の跡地に出向くと、そこには一人でぽつんと立ち尽くしているアラン様の姿がありました。すっかり老人のような見た目になってしまわれた彼の姿が。
「アラン様! その御姿は一体!?」
「はあ……そうか、俺の名はアランだった……そうだったな……」
「ああ……まさか……」
アラン様の足元に落ちていた空き瓶。中に僅かに残った薬液の匂いを嗅いで確信しました。彼はエルフの血を中和する魔法薬を飲んでしまったようです。完全に血の効果が無くなっていれば、今頃老衰で息絶えているはずなので、うまく計算して調合されていたのでしょう。
思い返すと、彼がおかしくなったのも何者かによって解毒剤を盛られていたのが原因なのかもしれません。楽園の中にとんでもない裏切り者が潜んでいたようですが、彼女の処分は後回しにしましょう。まずは彼を子供や孫達の待つ我が家へ連れて帰らなければ……
大丈夫ですよ、アラン様。私達の愛の巣に戻ったら、すぐにまた私の血をたっぷりと飲ませて差し上げます。呆けてしまった頭は戻らなくても、寿命は元通りになりますから何も心配いりません。たとえ私のことが分からなくなってしまわれても、この命が尽きるまで何百年でもあなた様を愛し続けますわ。
だって、それが真実の愛というものでしょう?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アラン様、お待たせしました! 美味しい鹿肉のシチューが出来上がりましたよ!」