第1話 異世界転生
暗い世界。
寝ているときの感覚から覚醒しない状況が続いている。これが「死」なのだろうか。
心地よい闇の海で、永遠の時を過ごす。
そこには、感覚や感情、思考といったものはない。「個」すら存在しない世界。
世界の終わりと始まりの原点。
滋という「個」は、もう二度と目覚めることはない。
雨の雫が海に落ちるように、「個」は「全体」と混じりあい、一滴の雨粒を識別することは不可能だ。
それが原点回帰。
今の滋の状況、いや、全生命体の「過去」と「未来」がここに収束する。
しかし、ここには砂丘から目的の一粒を見つけ出せる存在があった。
その存在は、滋の概念をそう認識し、優しくすくい上げ、手の平に乗せる。
今の滋はぼんやりと輝いており、光点には確かな存在をそこに示すだけの存在だ。
神……、なのだろうか。
うっすらと芽生える自我で、滋はそう思った。
死ぬ前の神に対する憎しみが、赤子の自我に水を巻き、花を咲かせる。
滋を優しく手の平で撫でる存在は言った。
「可哀想……。私に貴方を救わせて。違う世界ではあるけれど、貴方が私の希望となるのであれば、きっと……」
とりあえずこの存在を神と名付け、滋は憎しみを込めた言葉を放つ。
「おれ達を見捨てた神が……、何を今さらっ!」
運命と決めつけるには酷い結末。
滋の輝きは一層光を増す。
「できることなら助けたかった! だけど、私の力では貴方しか救えないかったの!!」
神にしては、やけに感情的な言動で反論する。
神は続けた。
「私の力で救えるのは貴方だけだった。だけど、貴方が私の希望となってくれるのならば、きっと、廻り合うわ……」
死ぬ前に見た情景は、魂に刻まれている。
忘れることは決してない。
「何をしたらいいんだ」
瑞葉、誠、礼士とまた会えるなら、
「それは……」
俺は何にでもなる。
愛する家族を取り戻すために。
「私の星を救ってください」
大きく出たもんだ。
人ひとり救うのに、どれだけの技術と鍛練が必要なのか、この存在は分かっていない。
だが、
俺は、消防士。
助けを求める声に、誰よりも迅速に救いの手を伸ばす、みんなのヒーローだ。
存在だけが崇高な、無能の神とは違う。
おれは、それだけのことをやってきた。
だから……、
「やってやるよ」
今までと何も変わらない。ただ「現場」が変わるだけだ。
それが家族と再開するための希望になるのなら、何を躊躇することがあろう。
憎しみを捨てることはできないが、前に踏み出せる可能性の一歩に、滋は全てをかける。
愛する家族の助けに応えるように、
次の現場に突き進む。
ーーーーーーーーーーーーーー
さっきまでの地獄のような頭痛は、すっかり息を潜めている。
耳鳴りもしない。
灼熱が肌を焦がす感覚も、今はない。
しかし、目を開けようとするとなんだか痛い。
外はそれほど明るくなさそうだが……。
おれは目を開けるのを断念し、耳をすませた。
周りで人が騒いでいるような声が聞こえるが、なんだよく分からない。
状況を整理しよう。
火災現場では、どれほど困難な状況であっても冷静さを欠けてはならない。非日常の緊張感は、普通に生活していても経験できるものではない。
消防署に配属されて間もない頃は、消防署に設置されているスピーカーから流れる出場指令が気になりすぎて、夜も眠れなかったことを思い出した。
そんな新人の頃の記憶はスッと思い出せる。
しかし、夜に幸田と筋トレの締めである「雑巾がけ」を行った後、ベンチでコーラを飲みながら幸田と話した後のことが思い出せない。
(コーラの缶を棄てた後、何かあったような気がするんだけど……)
意識にもやが掛かっているようで思い出せない。日頃使わない単語がなかなか思い出せないような感覚だ。
(まあ、直近の記憶以外は大丈夫そうだな。だけど、あ~、眠い。とりあえず、眠い)
記憶の整理がある程度済んだら、急に眠くなってきた滋。
眠気に身を委ねる滋をよそに、新たな生命の誕生にあわただしく対応する人達の声。
その喧騒が子守唄のように聞こえる。
産まれたての、まだ赤みを帯びた小さな身体は、健やかな寝息をたて眠りについた。
ーーーーーーーーーーーーーー
まてまてまてまて、まてーーーい!!
ちょっと、まてーーーーい!!
あれから、寝たり起きたりを繰り返し、ようやくスカッと目が覚めた滋は、自分のおかれている状況に困惑した。
いや、困惑どころじゃないて。
だって、おれ、これ……
赤ちゃんじゃね???
今、滋は揺りかごの中で絶賛覚醒中である。
ようやく見えるようになった目の前には、赤ちゃん用のおもちゃがぶら下がっており、メリーゴーランドみたいにゆっくり回転している。
最初に覚醒したときのような喧騒はなく、今は穏やかな時を刻んでいる。
そう、まさしく滋は、できたてホヤホヤ0歳児の状態であった。
(でも、父さんと母さんの姿が全然違うんだが……)
滋の父は地元で不動産業を営んでおり、母もそれを手伝っている。そんなこともあってか、一人っ子であった滋はなかなか裕福な生活をすることができた。
父は滋よりも身長が高くガタイも良かった。
人情に熱く人当たりも良いため、仕事の関係者からは「お父さんみたいな男になるんだぞ」と言われて育ったものだ。
母は、身体が弱く病気がちであったものの、目鼻立ちがくっきりした美人であった。そのため、授業参加のときに友達の女の子から「滋君のお母さん美人だね」と言われるのが自慢だった。
そんな恵まれた両親に育てられた滋は、子供のときからよく友達に頼られた。大人になり、消防士となった滋に対して異を唱える者は全くいなかった。
今目の前にいるのは、その両親との記憶とまるで合致しない父と母と思われる人物達。
「セリス! リゲルが起きたぞ! あ~ん、可愛いでちゅね~、リゲル」
赤ちゃん言葉でデロデロに甘い口調の男が、おそらく今の俺の父親である。身長は以前の滋と同じくらいか。明るめの茶髪に深い緑色をした瞳、整った顔立ちをしているが、右目に大きな傷がある。
隻眼の男、名をスコールと呼ばれていた。
「スコール、その赤ちゃん言葉は辞めてって言ってるでしょ! ちゃんと私達と同じように接して上げないと、自立できない子供になっちゃうじゃない」
ごめんごめん、とスコールは悪びれなく謝った。
「まったくスコールったら」
と毎度お決まりの問答なのか、美しい金髪を背中まで伸ばした美女、セリスは肩を落として言った。
セリスもスコールと同じ緑色の目をしているが、スコールよりもやや明るい緑色だ。曇りのない真っ白な肌は、長く伸びた金髪に映えている。美しい顔立ちと相まって、とんでもない美貌を形成しているセリス。
(この二人の子供だったら、俺ってかなりイケメンに仕上がりそうだな。ってか今の母さん美人すぎだろ)
そんな希望と邪な気持ちに少しばかり心を踊らせた滋、……改めリゲルは、また眠りについた。
ーーーーーーーーーーーーーー
どうやら、おれはリゲルという名前の赤ちゃんに転生したっぽい。
なんかの拍子で転生し、赤ちゃんライフを満喫している0歳児は、そう結論付けた。
転生して約1ヶ月。
睡眠と授乳を繰り返し、特に代わり映えのない毎日を送っている。
父スコールの姿をあまり見かけないが、仕事が忙しいのかなぁ、としか今のリゲルには分からない。普段はもっぱら母セリスと一緒だ。
これまでで分かったことは、父と母の名前、そして自分が赤ちゃんであるということ。
言葉はどうやら日本語ではないみたいだが、なぜか理解できる。全世界の言葉を知っている訳ではないが、アラビア語のようなマニアックな言語も多少かじっているリゲルとしては、聞き覚えのない言葉で会話をしているように思う。
(外国の子供に転生したのか? それにしては、服装が現代っぽくないし、家も丸太をうまいこと加工したみたいな作りだ)
ずっと揺りかごの中にいるリゲルは、家の全貌がよく分からなかった。両親の服装もなんとなく中世のヨーロッパみたいだ。
リゲルは、揺りかごに揺られながら今後のことについて考える。
(前世の記憶を持った赤ちゃんになったわけだけど、このまま普通に赤ちゃんしてたら普通の赤ちゃんのままだよな……)
目の前には、見慣れたメリーゴーランドっぽいおもちゃがくるくる回っている。
(まだ身体は動かせないけど、動けるようになったら……、アレを開始するか)
くりくりとした大きな目を細め、赤ちゃんらしからぬ表情でニヤリと笑うリゲル。
そう、アレとは「雑巾がけ」だ。
前世で自重トレーニングを極めたリゲルは、現在、赤ちゃんらしからぬ筋トレの知識を無数に有している。
その中でも抜群の効果を発揮した「雑巾がけ」
前世では、25mの往復を50週するのが限界であったが、幸田が10週で根を上げていたと考えると、とんでもない周回数である。
「雑巾がけオリンピック」というのがあれば、滋は間違いなく金メダルだろう。
(子供のポテンシャルを活かしてトレーニングしていけば、25m100往復も夢ではないな!)
脳筋も真っ青になりそうな夢を膨らます赤ちゃんであった。
それはそうと、さっきからいつもより早いスピードでメリーゴーランドのおもちゃが回っている気がする。
(しかし、本当に転生ってあるだなー。テレビでたまにそんな話題も出るけど、眉唾としか思わなかったし。けど転生したってことは、おれはいつ死んだんだ? コーラ飲んだ後に死ぬようなことあったっけ?)
何か重要なことを忘れているような焦燥感がリゲルの胸を締め付ける。
(何がきっかけで転生したのか……、ん?)
まだ形の整っていない新生児の頭をフル回転させるリゲルは、ふと視線を正面に向けた。
(あれ? 風もそんなに吹いてないのに、今日はやたらと早く回ってね?)
リゲルは揺りかごに寝かされているのでよく分からなかったが、今リゲル家には心地よい日差しが窓から家を照らしている。
春のような気候だ。
風が吹いてもそよ風程度で、少し開いた窓から風が優しく肌を撫でる。
その程度の風にしては、異様な早さで回るメリーゴーランド。
(ちょっ、これは明らかにおかしいスピードだろ!?)
ビビる赤ちゃんリゲル。
顔はリゲルの気持ちを汲み取って、今にも泣き出しそうだ。
メリーゴーランドは、さらに勢いを増し、もはや扇風機みたいな速度で回っている。
変化は突如起きた。
回転の中心から、ブラックホールのような黒い穴が開き、徐々に大きくなっていく。秒ごとに大きくなるブラックホールは、すでにサッカーボールほどの大きさになっており、ジリジリと静電気のような黒光りを吐き出している。
(こ、こえぇぇぇぇぇぇぇぇ!!)
正直、赤ちゃんリゲルの生存本能は限界だった。
溜め込んだマグマを噴火させるかのごとく、その小さな口から恐怖に彩られた声で両親に助けを求めるように……、
「ふぇ……、ふぇ……、ふっ!!」
「ダメーーーーーーーーーーーーーーっ!」
――ぼふっ!?
ブラックホールから飛び出した「何か」が、リゲルの顔面に張り付き、リゲルが叫ぶのを寸前で阻止した。
「ダメったら、ダメなんだよーーーーーーーーーーっ!!!」
リゲルの小さい顔に張り付いた「何か」が、大声を上げてリゲルが泣くのを阻止している。
(くっ、くるしい……)
顔を真っ赤にして、呼吸困難になりそうなリゲルに対し、その「何か」は問いかけた。
「……、もう泣かない?」
不安そうな表情の「何か」
(な、泣かないから、早くどいてくれ。くる……しい)
リゲルは心の中で答えた。
「はぁ~、危なかった!」
リゲルの顔に張り付いた「何か」は、そういってゆっくり顔から離れた。
安堵の表情を浮かべている。
リゲルが最初に頭によぎったのは、ティンカーベルだ。夢の国でお馴染みのアレである。
とりあえずこいつは、ティンカーベルと名付けておく。
約30cmほどの大きさのティンカーベルは、ふぅっと一旦呼吸を落ち着け、そのペッタンコの胸を威勢よく張ってこう言った。
「今日から私が貴方のご主人様だよ!よろしくね、奴隷ちゃん!」
0歳1ヶ月から始める奴隷生活の幕開けである。