カースト最上位に君臨するギャルが俺専属のメイドであることは誰も知らない。
どんな学校へ行っても必ず発生してしまうスクールカーストという身分制度。
地味なやつ、根暗なやつは問答無用で下位に位置付けられ、上位に所属するのは、見た目がいいやつ、コミュ力が高いやつ、運動神経がいいやつと決められている。
新学期が始まり、数ヶ月も経てば、自然と決定してしまっている理不尽極まりない序列。これはクラスでの発言権の有無や立場に大きく影響を及ぼし、学生生活を満喫するにあたって重要な項目の一つとなってしまっている。
スクールカーストが、ただのグループ分けであるのならば問題は無かったのだ。しかし、この身分制度を悪用し、自分より明かに劣っていると判断した人間に対して差別的な行為をする不届き者が現れてしまった。
陰気な人達を陰キャだと蔑み、見せかけの友人達と騒ぎ合うことに優越感と安心感を抱く戯け者。共通の敵を作り、陰で愚痴を言い合うことで深まっていく偽物の友情。仲間外れにされることに怯え、自我なんてものはとうに捨ててしまっている。ただ流されるだけの人間なんて排泄物となんら変わりない。
身分の境界線を色濃く線引きし、自分の立場を守ろうと必死に粋がる偽りの強者。その反面、上位者に対して不満を募らせる怠け者もいる。
青春を謳歌する生徒達を横目に、どうすれば自分を正当化出来るかと頭を悩ませる。自分を高める努力などはしない。ただ羨む気持ちを必死に押さえつけ、嫉妬の感情だけを外に吐き出すのだ。
前者と後者、境遇は違えど、自分らしくいられない人間は見るに堪えない。だから俺は、そんな醜き人間を生み出してしまうスクールカーストが嫌いなんだ。
でも、この世の中が平等でない以上、スクールカーストが無くなることはない。
そこで俺は考えた。この忌まわしき序列を逆手に取り、学生生活を楽しむ方法を。
決して交わらないと言われていた俺と彼女が特別な関係を持っているという事実。
他の誰も知らないことで生まれる背徳感。
真実を知った時、奴らはどんな表情を浮かべるのだろうか。馬鹿にしてきた俺に、どんな言葉を投げかけるのだろうか。
想像しただけで武者震いが止まらない。でも俺は、この事実を打ち明ける気など毛頭ないのだ。
秘密を隠して生活を送るというスリルを身体が欲している。俺は自分の掌の上で馬鹿踊る奴らを俯瞰で見ることに、この上ない愉悦を感じるのだ。
だから、この秘密だけは絶対にバレてはいけない。今の関係を保つためには、絶対に隠し通さなければならないのだ。
カースト最上位に君臨するギャルが俺専属のメイドであることだけは。
◇
授業の終了を告げる鐘が鳴り、委員長の号令で礼をすると、教室は一気に騒がしくなる。
さっきまで立ち込めていた、どんよりとした空気が晴れて、窓から心地の良い風が入ってきた。
俺は、ぐーっと伸びをした後、机の上に広げていた教科書とノートを机の中にしまった。
昼休みが始まった教室内は、授業という重たい鎖から解き放たれた反動からか、一段と賑やかになっているように見える。
カバンの中を探り、弁当が入っていないことに気がついた俺は、今日の昼ご飯は購買で買うことにしたのを思い出した。ポケットから財布を取り出し、中に入っている金額を確認する。千円札が三枚と小銭が沢山入っているので足りなくなる事はないだろう。
「隼人殿! 一緒に購買へ行きましょう!」
席を立とうと体を横に向けたところで、友人である佐々木智樹が声をかけてきた。
智樹の隣にいるのは、俺のもう一人の友人である横山光彦。二人は財布を片手に持ち、購買に行く準備は万端のようだ。
「うん。行こう」
俺は席を立ち、二人の後についていった。
三階にある教室から購買のある一階まで、友人達と会話をしながら進んでいく。
「今日からハヤシベーカリーのリンゴパンが入荷するらしいよ」
「むむっ! それは本当でありますか? 光彦殿!」
「本当だよ。今日の朝、購買の掲示板に張り紙がしてあったんだ」
聞いたことのないパンの名前で盛り上がる智樹と光彦。俺は、そんな二人に置いていかれないように問いを投げかける。
「リンゴパン? 有名なのか?」
「隼人殿! リンゴパンを知らないでありますか?」
「知らないなあ。光彦は知っていたのか?」
「噂だけは聞いていたよ。でも実際に見たことはないな」
無知である俺と光彦に呆れた様子の智樹は、いち早く階段の踊り場に降り立つと、俺たちの方を振り向き説明を始めた。
「お二人とも、いいですか? リンゴパンというのは、あのハヤシベーカリーの一番人気商品で、県外からも、その味を求めて買いに来る人がいるほど人気なのであります。リンゴの形をした、外はサクサク、中はふわふわの生地から溢れ出る果肉たっぷりのリンゴジャム。甘い香りが口全体を優しく覆い尽くしてくれる最高に贅沢な一品。一度食べたら、やみつきなのであります!」
智樹は自分の得意知識をひけらかすのが上手だ。とても丁寧に解説してくれるので本当に為になる。
「そうなのか。食べてみたいな」
「今日、買いましょう! 光彦殿!」
智樹の説明を聞いて想像したリンゴパンは、生唾を飲み込むほど美味しそうだ。
まだ知らぬリンゴパンの味を求めて、ワクワクしながら購買に辿り着くと、そこはいつも以上に混雑していて、既に長蛇の列が出来ていた。
「リンゴパンの人気恐るべしであります!」
「ちょっと混みすぎじゃないか? 新しいものには目がないやつばっかりだ」
隣で愚痴をこぼす光彦。まさかリンゴパンがここまで話題になるとは思わなかったのだろう。実際、この人気ぶりは目を見張るものがある。
一刻も早く並ぼうと早足で列に向かう途中、智樹が俺の肩を叩き呼び止める。
「隼人殿! 列が三つあるので、我々は別れて並びましょう! 一人でも買うことが出来たなら、それを三人で分ける! いいでありますな?」
「おっけー。買い終わったら階段前の柱に集合で」
「はい! 健闘を祈るであります!」
並び始めて数分経ったが、まだ少ししか列は進んでいない。前後に並ぶ生徒も、隣の列に並ぶ生徒も、友人と一緒に並んでいるらしく、楽しそうな会話が聞こえてくる。ひとりぼっちの俺は、肩身の狭い思いでいっぱいだ。
スマホを持ってきていれば、この待ち時間も苦にならなかったのだろう。しかしスマホはカバンの中に入れっぱなし。完全に失敗した。
隣の列に並ぶ智樹を探そうと考えたが、挙動不審者だと思われてしまうのが嫌で行動に移せない。
仕方がないので、俺は妄想をしながら時間が過ぎるのを待った。本当の自分は隠れた才能の持ち主で、この世界を裏から牛耳る組織の一員……
気がつくと、自分の番が次にまで近づいていた。己の妄想力に感心しながら、ガラスのショーケースに並べられているパンを見渡す。
新入荷のタグが付き、一番目立つ位置に置かれているハヤシベーカリーのリンゴパン。艶やかで美味しそうな見た目は、想像した通りの出来栄えだった。
ショーケースに残るリンゴパンは、あと五つ。自分の番が回ってくるまで残ってくれることを信じた。
前に並ぶ二人が、一つずつリンゴパンを注文する。
ヤバい、売り切れる……
焦燥感に駆られる一方で、この緊迫した状況を楽しんでいる自分がいた。友人達と分け合う約束をしているはずだというのに。
ようやく自分の番になり、財布を取り出し注文を開始する。最後の一つになっていたリンゴパンを見据えながら――
「「リンゴパンを一つください」」
俺の声と可愛らしい女性の声が見事にハモった。
俺はすぐさま、右横に並ぶ生徒へ目をやる。するとそこには、カースト最上位に君臨するギャルが立っていたのだ。
彼女は、カールさせた茶髪にパッチリとした大きな瞳で、可愛らしい顔立ちをしている。淡いピンク色のカーディガンを身につけ、制服をお洒落に着こなす姿は流石としか言いようがない。
俺は、平静を装いながら購買の小母さんに視線を戻した。小母さんは、隣の列を担当している小母さんと互いに見つめ合った後、示し合わせたかのように俺へ視線を向ける。
「ごめんね。最後の一つだから、どちらか譲ってくれないかな?」
名目上どちらかと言ってはいるが、小母さんたちの表情は明らかに俺に対して譲れと言っているように見える。
俺は再び、茶髪ギャルへ目をやった。すると彼女は、困惑した様な顔つきで俺を見つめている。
「おい、お前の方が言うの遅かったよな?」
この気まずい空気を断ち切るように、茶髪ギャルの後ろに並んでいた金髪ギャルが声を荒げて割り込んできた。
彼女は胸元を大きくはだけさせ、耳には厳ついピアスをしている。その風貌が放つ威圧感は、瞬時に場の空気を彼女側へと運んだ。
周りから冷たい視線を感じる。完全アウェイな状況だが、嫌な気はしない。むしろ、この異様な雰囲気をもう少し味わっていたいと思うほど、気持ちが昂っていた。
しかし、後ろに並んでいる人達に迷惑がかかってしまう以上、この状態を維持させておくわけにもいかない。
俺は、一呼吸置いた後、ギャル達の方へ手を向け、小さく頷いた。
「あ、はい。どうぞ」
「譲ってくれて、ありがとね。他に欲しいものはあるかな?」
「コロッケパンとカレーパン。あとレモンティーをお願いします」
「はい、三百五十円。どうも」
俺は購入した物を受け取り、お金を支払うと、すぐにその場を離れた。
待ち合わせ場所の柱に寄りかかり、友人が来るのを待つ。
少し時間が経つと、不満気な表情を浮かべた二人の会話が聞こえてきた。
「買えなかったであります。残念ですなあ」
「メディアが騒ぎ立てると皆んなすぐに飛びつくんだ。古参ファンにとってはいい迷惑だよな」
残念がる智樹と愚痴る光彦。俺は、その二人に歩み寄り自分の戦果を告げる。
「あと少しだったんだけどギャル達に取られちゃったよ」
「後ろから見てましたよ、隼人殿。あのギャル達は節度を守るということを知らないのです。あんなに大声でアピールされたら譲るしかないでしょう。本当に野蛮な奴らであります」
俺たちは、リンゴパンを買えなかった悔しさを愚痴りながら、教室へ戻った。
教室に着いた俺たちは、智樹の机に買ってきた物を置き、近くの席から椅子を借りて座った。智樹は目が悪く、席替えの時はいつも前の席を選ばせて貰っている。教卓から見て、左から二列目の一番前。ここが智樹の特等席なのだ。
いつの日からか、昼休みになると自然とここへ集まるようになっていた。この席の周辺は比較的落ち着いた生徒しかいないので居心地も良い。
俺は、すぐさま買ってきたパンに食らいついた。この学校のコロッケパンは最高に美味しい。
智樹と光彦も、それぞれが買ってきたパンを口いっぱいに頬張っていた。平和な時間とは、このことをいうのだろう。
コロッケパンを食べ終え、レモンティーを飲みながら教室を一望する。
昼休みは特にスクールカーストが浮き彫りになる時間だ。それぞれが所属するグループの下へ集まり談笑をして時を過ごす。
もちろん、グループに属さない者もいる。彼らは、スマホをいじっていたり、机に伏せて寝ていたり、勉強をしていたりと自分のやりたいことを自由にしている。マイペースに行動したい人にとっては、集団でいることが足かせになるのだろう。
また、男子と女子を比べると男子の方が圧倒的に一人でいることが多い。これは男と女の思想の違いなのだろうか。まだまだ考察の余地がありそうだ。
それはともあれ、このクラスで一番騒がしい集団は、ギャル数人とそこに群がる運動部の男子生徒達だろう。奴らは窓側後ろの席を占領している。授業中は大体寝ているのに対して、休み時間になると元気いっぱいに燥ぎ始める、とても愉快な連中だ。
その中で突出した存在感を放っているのが、先ほど俺からリンゴパンを奪い取ったギャル、姫宮加奈子。
ギャルであるにもかかわらず、成績優秀で運動神経もいい。容姿端麗で明るい性格の彼女は、学校一の美女と噂されるほどの人気者だ。
「このアクセ、マジやばくない? 可愛すぎるんだけど! マジ欲しい!」
「待って、マジやばい! 今週末、買いに行こーよ!」
「いいねー! ついでに原宿に寄って行かない? タピオカとパンケーキ食べたいんだよねー」
クラスの隅にいても聞こえるような馬鹿でかい声で話すギャル達。自分たちのプライベートを公にすることになんの躊躇いもないらしい。
俺は、その様子を遠目から観察していた。すると、一人のギャルと目が合ってしまう。
「うわ、あいつこっち見てるよ」
「リンゴパン取られたから根に持ってるんでしょ。ほんと、キショいわー」
悪口でさえもクラス全体に聞こえるようなボリュームで話す。きっと、俺への当て付けなのだろう。
「加奈子も災難だねー。あんな奴に目をつけられて」
「そうかな~。別に私は気にしないけど~」
「マジ、加奈子たん天使! でも、ちゃんと嫌悪感振りまいとかないと勘違いするぞ。あのキモオタ共は」
俺たちの外見だけを見てキモいという判定を下すなんて失礼なやつだ。姫宮と連んでいるのに肝心の御頭方は全く影響を受けていないらしい。朱に交われば赤くなるということわざは、まだ色付き始めて間もない人にのみ該当するのだろう。あのギャルは完全に染まり切ってしまっている。真っ黒な醜き人間に。
「いいよ別に~。そこまでするの面倒だし、そもそも興味ないし〜」
「興味ないって一番辛いやつじゃん! ウケる」
「かわいそうだよな。あいつらは加奈子みたいな可愛い女の子と付き合うことなんて絶対にないんだから」
「だよねー。一生孤独の永遠ボッチでしょ」
俺たちの話題で盛り上がるギャルと、それに賛同するサッカー部の男子生徒。こいつらは俺たちのことを完全に見下している。
俺一人に対しての悪口なら看過することが出来るのだが、一緒にいる友人を巻き込むのは許せない。そんな苛立ちを隠せないでいた俺に、智樹が心配そうな顔で話しかけてきた。
「隼人殿、あんな馬鹿共の発言に耳を傾けてはダメですよ。触らぬ神に祟りなし。刃向かったところで、結局損をするのは我々なのであります」
「別に、何か言い返してやろうなんて思ってないよ。ただちょっと気になっただけだからさ。あんな安い売り言葉、タダでも買わないよ」
「それがいいであります。我々には奴らを相手にする時間なんてありませんから。では気を取り直して、土日にやってたアニメについて語り合いましょう! 隼人殿、光彦殿、見逃した作品はありませぬな?」
俺たち三人は、アニメと漫画が好きという共通の趣味を持ち合わせたグループだ。昼休みに感想などを語り合うこと、放課後にグッズ巡りをすること、休日にアニメイベントに参加することを目的としている。自分では考えられなかった考察や意見を聞くことができたり、自分の思いを発信できたり、非常に有意義な時間を送ることが出来る。
「見始めた作品は全部見続けているよ。今回の『鬼神の刀剣』の戦闘シーンは凄かったね。感動しちゃったよ」
「俺も全部見てる。隼人の言った通り、鬼神は神回だったね。クオリティが段違いだ」
「あれはアニメ界の歴史に残る神作画だったであります! わたくし、録画したのを五回は見返しました!」
「話も面白いし見ていて飽きないね。今季の覇権は決まりかな」
「いやいや、光彦殿。ライトノベル原作の『ブレード・アーティスト』も最高ですぞ! 主人公がかっこよすぎるであります」
「確かにBAも面白かったな。今季は豊作だ」
「わたくしも、早く小説家になって、アニメ化にまで辿り着き、自分が生み出したキャラクターが動いてくれるところを見たいであります」
「智樹の書く小説は凄く面白いから大丈夫だよ。絶対にアニメ化まで辿りつける。俺が保証するよ」
「隼人殿! わたくしは、あなた様のような友人が出来て幸せであります!」
話が盛り上がる中、俺は再びギャル集団へと目を向けていた。奴らは、派手にデコレーションされたスマホを片手に、また別の話題で盛り上がっている。しかし、その中で姫宮だけが、紙パックの紅茶から飛び出しているストローを咥えながら、こちらをじーっと見つめていた。
俺は、その切なそうな表情を見て、彼女にハンドサインを出す。
姫宮は、俺の出した合図に了承のサインを返すと、すぐさま席を立った。
「私、お手洗い行ってくる」
「りょー」
姫宮は、友人に自分の行き先を報告すると、素早く教室から出て行った。
俺は、その様子を横目で確認していた。彼女の足音が聞こえなくなったのを確認し、カレーパンの最後の一口を頬張ると、それをレモンティーで流し込む。
「もう食べ終わったのでありますか? 相変わらず早いでありますな!」
「うん。ちょっと用事を思い出してね」
俺は飲みかけのペットボトルをカバンに放り込み、ゴミを捨てて教室を出た。
階段を上り、五階の隅にある空き教室の扉を開けると、そこに加奈子の姿があった。彼女は、窓枠に手をかけ、外の景色を眺めている。
俺は、ゆっくりと扉を閉め、加奈子の元へと足を進めた。
「遅いよ、隼人」
俺の気配に気がついたのか、彼女は振り返り、潤んだ瞳で上目遣いをしながら、そう呟いた。こういう表情をされると、少し意地悪をしてみたくなってしまう。
「はい、これ。ちょっと潰れちゃったけど」
加奈子が差し出すのはハヤシベーカリーのリンゴパン。買ってから今まで、手をつけずにとっておいてくれたらしい。
俺は、その袋を受け取ると、加奈子の顔を覗き込んだ。
「俺に興味ないって言ってたよね。あれ地味に傷ついたなあ」
「ち、違うよ。あれは隼人以外の人に言ったことで、隼人に対して言ったわけじゃ……」
加奈子は俯きながら答えた。弱々しい声が加虐心を唆る。隼人以外の人という言葉に引っかかりを覚えたので、俺はこのまま冷たく遇らうことに決めた。
「そっか」
「隼人、怒ってる?」
「怒ってないよ」
「嘘……隼人は怒ると口数少なくなって私と目合わせてくれなくなるもん」
加奈子はカーディガンの裾を掴んでモジモジとした後、俺を見つめてこう言った。
「ねえ、どうしたら許してくれる?」
彼女は震えた声で許しを請う。少しやり過ぎてしまったかもしれない。でも、ここで怒っていないと告げてしまうと心の中に蟠りが残ってしまう気がした。そこで俺は、自分の気持ちを抑えるべく、一つの方法を提案する。
「じゃあさ、このリンゴパン、加奈子が俺に食べさせてよ。そしたら、気分よくなるかも」
「食べさせる、だけでいいの?」
「うん、いいよ。メイドさんらしくお願いね」
加奈子は澄んだ瞳を見開いた後、すぐに真面目なメイドモードに入った。
「かしこまりました、ご主人様。それでは口を開けてください」
加奈子の綺麗な指がリンゴパンを掴んでいた。俺は、その指先に見惚れながら、リンゴパンを一口かじる。
サクッとした食感にリンゴの甘い香りが口一杯に広がっていった。すぐ前で加奈子が、優しい表情を浮かべ見守ってくれている。これが、より一層美味しさを引き出しているのだろう。
「どうですか? 美味しいですか?」
「美味いよ。すぐ売り切れるのも納得できる味だね」
「よかったです」
加奈子は安心した様子をみせると、再びリンゴパンを俺の口へ近づけた。
「加奈子は食べないの?」
「隼人が全部食べていいよ。私はさっき、メロンパンを食べたから」
「加奈子にも食べて欲しいな。この美味しさを加奈子と共有したいから」
「うん、わかった」
加奈子は持っていたリンゴパンを自分の口元へと運んだ。ふと名案を思いついた俺は、彼女の口に入る直前で静止するよう声をかける。
「待って。今度は俺が食べさせてあげる」
「え、でも……」
「いいから、ほら貸して」
俺は、加奈子からリンゴパンを受け取ると、彼女の口元へと運んだ。加奈子は、俺が食べた部分にかじり付き、幸せそうな笑みを浮かべる。
「どう? 美味しい?」
「凄く美味しい。ありがとう、隼人」
その後も、俺たちはリンゴパンを互いに食べさせあった。最後の一口は、とても名残惜しく感じられた。
食べ終わると、俺たちは床に腰を下ろして休み時間が過ぎていくのを待った。俺の胸を背に寄りかかる加奈子は、とてもいい匂いがする。
「さっき俺以外の人って言ったでしょ。あれもやめてくれると嬉しいな。二人は俺の友人だから」
「ごめんなさい。私、隼人のことしか考えてなかった」
「いいよ。俺も意地悪してごめん。最初から怒っていたわけじゃなかったんだ」
「そっか……。よかった」
少しの静寂があった後、俺は加奈子を優しく抱きしめた。加奈子の前で組まれた俺の手に、彼女は自分の手を添える。その手はとても温かく、凄く幸せな気持ちになれた。
しかし、幸せな時間は有限であり無限ではない。授業開始五分前の鐘が、この夢の空間を一気に現実へと引き戻した。
鐘が鳴り終えると、俺たちは立ち上がり、少し距離をとる。今から家に帰るまで、また赤の他人同士に戻るのだ。
「じゃあ、また家で」
「うん。じゃあね、天王寺くん」
俺たちは挨拶を交わすと、別々に教室へと戻っていった。
教室に戻ってからは、いつも通りに学校生活が過ぎていった。
放課後は、智樹と光彦と一緒にアニメグッズショップへ行く約束を履行する。
色々なアニメグッズを見て、友人達と楽しい時間を過ごし、帰路につく。
駅から少し離れた、大きめのお屋敷。鉄の門を開け、庭を抜けて、玄関の扉を開けた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
メイド服に身を包み、主人である俺の帰りを待ってくれていた加奈子。
うちで用意されているメイド服は白と黒を基調としたシンプルな作りだが、胸の部分だけがやけに強調されるように出来ている。
このデザインを考えたのは俺の父親だ。父は昔からメイドが好きらしく、お金持ちになった暁には雇ったメイドに自分がデザインしたメイド服を着させると夢に抱いていたらしい。これを実際に叶えてしまう胆力は俺も見習わなければならないと思う。
欲に忠実なのはいいのだが、母がこの服を着て寝室から出て来たときには、気まずくて一週間ほど口がきけなかった。そういうことは俺の目につかないところでやっていただきたいと切に思う。
以上の様に、このメイド服は完全に父の趣味からきているものなのだが、俺もその血を引き継ぐ者。本能がメイド服を着るように命じてしまうのだ。
加奈子はプロポーションも抜群なので、アニメやゲームに出てくるメイド以上に可愛い。この可愛さを超えられる者は未来永劫現れないだろう。
「ただいま」
いつもなら、笑顔で迎えてくれるのだが、今日の表情はどこか曇ったように見える。
「元気なさそうだな。何かあったのか?」
「お母さんから、もっとしっかりしなさいって怒られたの。家のことはちゃんとやってるんだけどね……」
いつになく消え入りそうな声を発する加奈子。加奈子の実母である真紀子さんは、よく加奈子に対して小言を言う。加奈子と接している時間など極僅かだというのに、自分はなにもかも知っているかのように語る。俺からしてみれば癪に障って仕方がない存在だ。
今日の落ち込み具合を見るに、また理不尽なことをたくさん言われたのだろう。こういう時は、しっかりと話を聞いてあげてから、不安要素を取り除いてあげるのが一番である。
「今日は、なんて言われたんだ?」
「茶髪はやめて黒に染めなさいとか、派手な化粧はやめなさいとか。ねぇ、隼人はどう思う?」
「俺は、加奈子がしたいようにすればいいと思う。好きなことをしている時の加奈子が一番可愛いから」
「隼人……」
加奈子は、瞳を潤ませながら俺の胸に飛び込んで来た。俺は、加奈子の背中をさすり、彼女が落ち着くのを待つ。
「もう大丈夫か? お腹がすいたし、そろそろ夕食にしよう。準備をお願い出来るかな?」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」
少し勇気付けられた様子の加奈子は、俺から離れ、厨房へと向かっていく。
俺は自室に戻り、部屋着に着替えてから食堂へ移動した。
椅子に座り、スマホをいじりながら食事の用意を待っていると、加奈子がサービスワゴンを押して入ってきた。俺は、待ってましたと言わんばかりに姿勢を正し、加奈子が料理を並べてくれるのを眺める。
食事の準備が終わり、専属のシェフが作ってくれた料理の解説が終わると、加奈子はその場を立ち去ろうとした。
「ありがとう。あれ? 加奈子は一緒に食べないの?」
「私は、あとで食べるよ。ほら、早く食べないと冷めちゃうよ」
いつもなら自分の食事も一緒に持ってくるはずなのに、今日の加奈子はそうしない。また真紀子さんに余計なことを吹き込まれたのだろう。加奈子は良くも悪くも従順すぎるんだ。
「真紀子さんの指示なら無視していいよ。加奈子も一緒に食べよう」
「え? なんでお母さんだってわかったの?」
「加奈子のことなら、加奈子の両親よりわかっている自信があるよ。どうせ『主人と使用人が一緒に食事をとることは適切ではない』とか言われたんだろ?」
「うん。隼人は何でもお見通しだね」
「俺と加奈子の主従関係なんてあってないようなものだから、そんなに気負うことはないよ。さあ、一緒に食べよう」
「でも、お母さんに見つかったら、なんて言われるかわからないし……」
「その時は、俺が真紀子さんにしっかり伝えるから。それならいいだろ?」
「うん、わかった。今から持ってくるね」
加奈子は自分の夕食を運んでくると、俺の前の席に並べ始めた。俺は、彼女の準備が終わるまで、食事には一切手をつけず見守っていた。時折見せる、加奈子の心配そうな目付きが堪らなく可愛い。
「それじゃあ、食べようか。いただきます」
「いただきます」
俺はオニオンのクリームポタージュスープからいただいた。まろやかな舌触りで後味もよく、凄く美味しい。
スープを半分くらい飲み、顔を上げると、加奈子が不安そうな顔でこちらを見ていた。
「冷めてない? 大丈夫?」
「冷めてないよ。心配ないから加奈子も食べな」
加奈子は安心した顔を見せると、自分の食事に手をつけた。
「やっぱり、一人で食べるより加奈子と一緒に食べた方が美味しいね」
「私もそう思う。ありがとう、隼人」
楽しい晩餐も終盤にさしかかってきたところで、食堂のドアが開く音がした。
ドアの方へ目を運ぶと、しかめっ面をした真紀子さんがこちらに向かってくる様子が目に飛び込んでくる。
「加奈子! 隼人君と一緒に食事をするのはやめなさいって言ったでしょ。本当に言うことの聞けない子ね」
声を荒げて注意をする真紀子さん。貴重な二人の時間が台無しだ。
俺は、いても立ってもいられなくなり、真紀子さんへ真剣な眼差しを向けながら、言葉を返した。
「真紀子さん、これは俺が頼んだんです」
「そうであったとしても、私は遠慮するように言ったんです。それなのに、この子は……」
加奈子を睨み付け、イライラしたような表情を浮かべる真紀子さん。俺は冷静さを欠かないよう、ただ淡々と言葉を紡いだ。
「加奈子の主人は、どこの誰でもない、この俺です。加奈子が母親より主人の命令を優先しなければならないのは当然でしょう?」
グッと歯を噛み締める真紀子さん。平静を保てれば、言い争いで勝てない相手ではない。
「それと、この髪型やメイクをしているのも俺の命令です。何か不満なことがあるのであれば加奈子ではなく、俺に直接言ってください」
「本当に下品な格好よね。あなたは自分のメイドを低俗な人間に仕立て上げることに対して、なんの恥じらいも覚えないのかしら?」
「品の良し悪しなんてそれぞれの価値観が決めることでしょう? 俺は、今の加奈子が大好きなんですよ。自信を持った、元気で活発な今の加奈子が本当に好きなんです。あなたには絶対に分からないでしょうけど」
俺の方が加奈子のことをわかっている、理解している。その自信に後押しされたのか、不思議と笑みが溢れてしまっているのが自分でもわかった。
「もういいわよ。それじゃあ、私、もう行くから。加奈子、後片付けくらいはちゃんとやっておきなさないよ」
真紀子さんは、なにも言い返すことができなくなったらしく、虚ろげな目をしながら去っていった。
「ありがとう、隼人」
「何てことはないよ。さあ、夕食を続けよう」
デザートのシャーベットを食べ終え、片付けを加奈子に任せた俺は、風呂に入り、自室に戻っていた。
宿題を終わらせ、時計を見ると夜が更けているのに気がつく。
もう寝ようと、ベッド近くのランプだけをつけ、ベッドのなかに潜り込んだ。
スマホを起動させ、友人たちへの返信、ソシャゲのログインを済ますと強い眠気に襲われる。
今日一日、色々なことがあった。加奈子と二人きりで食べたリンゴパンの味は一生忘れないだろう。
真紀子さんに一矢報いることが出来たのも大きな進歩だ。
うとうとしながら回想をしていると、ドアをノックする音が鼓膜を揺らし、目が覚める。
こんな夜更けに部屋を訪れてくる人は、加奈子しかいない。俺は、喉の調子を整えると、ドアに向かって声をかけた。
「どうぞ」
声をかけてから、ほんの数秒後にドアが開く。薄暗い部屋に伸びる影法師。その中には、寝巻きに着替えた加奈子が、枕を持って立っていた。
青色のモコモコしたパジャマに身を包み、髪を下ろした様子の加奈子。この姿を見ることが出来るのは一緒に住んでいる者だけだ。
「眠れなくて……。一緒に寝てもいい?」
「いいよ。俺もちょうど今、寝ようと思ってたんだ」
ランプの明かりを消し、俺と加奈子は横になる。部屋に差し込む月光のおかげで、部屋の様子がぼんやりと見えていた。
「今日もありがとう。私、いつも隼人に助けられてばっかりだね」
「俺も、いつも加奈子の笑顔に助けられてるよ。ありがとう」
俺は、加奈子の寝ている方へと体を向ける。すると彼女も同じ行動をとっていたらしく、お互いの手がぶつかってしまった。
「ご、ごめん」
「こちらこそ、ごめんなさい」
沈黙の時間が流れた後、加奈子は俺の頬を目掛けて手を伸ばす。
柔らかく、温かい手のひら。その手は顔の上半分にまで迫ってきていた。長い前髪をかきあげられ、はっきりと加奈子の顔が瞳に映る。
「隼人、昔みたいに前髪をあげてる方がかっこいいよ。隼人の目って女の子みたいにぱっちりしてて可愛いし」
「今はこれでいいんだよ。いや、これじゃなきゃいけないんだよ」
「そっか。……そうだよね」
「うん。明日も早いし、もう寝るね。おやすみ」
「おやすみ、隼人」
朝、目が覚めると、透き通るように白い柔肌を露出した加奈子が隣で寝ていた。寝相が悪かったのか、寝巻きが少々乱れている。
俺は、無意識のうちに加奈子の寝顔を眺めていた。彼女の寝顔はどこか幼く、とても可愛らしい。
俺は、加奈子の綺麗な頬に触れようと人差し指を伸ばした。柔らかな頬をフニフニしていると、加奈子は俺の腕にぎゅっと抱きついてくる。きっと、抱き枕か何かと勘違いしているのだろう。
身動きが取れなくなってしまい、どうやってこの状況から脱するかを考えていると加奈子が「……んんっ」と甘い声をあげた。
眠りが浅くなっていると判断した俺は、空いている方の手で加奈子を摩る。
「加奈子、もう朝だぞ。起きないと」
加奈子はゆっくりと目を開け、俺を確認すると、顔を綻ばせながら口を開いた。
「……はやとぉ、おはよぅ……」
「おはよう。ほら、早く起きないとまた真紀子さんに怒られるぞ」
俺はベッドから出て、カーテンを開けた。そして、ハンガーラックに掛けてあったワイシャツを羽織り、寝ぼけた加奈子の様子を見ながら、一つずつボタンを留める。
「まだ起きないのか? 朝食の時間に遅れちゃうぞ」
「もうすぐ起きるよ。……ねぇ隼人、ちょっとこっちきて」
加奈子は布団から手だけを出し、おいでおいでと招く。俺はボタンを全て締め終えてから、ゆっくりとベッドの方へ向かった。
「どうした? ――っうわっ!」
加奈子は俺の手をしっかりと掴むと、ベッドの中へと引き込んだ。
「危ないだろ。急にどうしたんだ」
薄っすらと差し込む日の光が、シーツの中に潜り込む俺たちをほどよく照らす。
加奈子は俺の首に腕を回し、顔を近づけた。付き合いが長い彼女でも、急に顔を近づけられると緊張してしまうものだ。
俺は目を閉じ、加奈子のされるがままに身を委ねた。緊張の余り、乾いた下唇を噛み締めてしまう。
加奈子の顔は、俺の顔の真横で静止したようだった。俺は薄っすらと目を開け、彼女を確認しようと目を横に動かす。
「ずっと大好きだよ。隼人」
耳元で囁かれる加奈子の優しい声。ゾクゾクした感情とドキドキした情感が色濃く交わった。
◇
きっと俺と加奈子は、今後もこの関係を続けていくのだろう。高校生活に加えられた秘密という隠し味は今では無くてはならない重要な素材の一つとなってしまっているのだから。
バレた時はどうしよう、なんて不安は杞憂に過ぎない。俺の計画は如何なる事態にも対応できるよう線密に練られているからだ。
だから事実が発覚してしまうその日まで、今の環境を目一杯楽しもうと思う。
カースト最上位に君臨するギャルが俺専属のメイドであることは誰も知らない。