『あきお』の修行
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、つぶらやくん。まさかこんなに朝早くに会うとはね。
――ふむ、買い物がてら、健康のために少し歩いていると。
熱心なのは大いに結構だけど、朝ご飯はしっかり食べたのかい? 朝飯前、という言い回しがあるけれど、実際に朝飯抜いての仕事は、知らぬ間に効率が落ちるらしい。心臓にも負担がかかって寿命が縮むというし、避けた方が賢明だろうね。
そう考えると、学生時代は無理が効いたな。全国レベルの部活だと、夜も明けきらぬうちから朝練があったのを覚えている。それについていけるのも、若くて健康な体があってこそだろう。
でも年食って同じことをやると、身体を壊しちゃったりする。本当、若いうちに色々やっといた方がいいね。心に身体がついていけるからさ。若さを何に使うかは、生涯の中でものすごく大切だと、大人になってから思っちゃうね。
我々はたいてい、夜から朝にかけて眠りを欲する生き物。人目につきづらいそれらの時間帯は、何をやるにも遠慮がいらない、よい時機だ。私も昔、そのような時間に活動する不思議と出会ったことがあってね。
つぶらやくんはこの手の話、好きだったと思うけど聞いてみないかい?
私が所属していた部活は、先ほど話したような全国区ほどじゃないけど、地方の大会上位の常連だった。平日は欠かさず練習があり、休日も他校との試合に時間を割くことが多かったねえ。
部活がない日でも、身体を動かさないとグッドなフィーリングを損なってしまう。自身に日課を用意して、それをこなしていたよ。朝早くのジョギングもその一環だった。
ある程度走るコースは決まっていて、たいていは家近くの橋から向こう岸に渡り、帰りはあえて一本ずらした橋を使って、家まで帰ってくる。部活に入ってから続けていることだったけど、その日は行きの橋の上で、クラスメートの一人を見かけた。
女子の中でも、頭をひとつもふたつも抜けた、大柄な女の子だったよ。男子の誰よりも関取に近い体格をしていて、膂力もある。名前は「あきこ」だったけど、関取っぽい見た目だからと「あきお」ってあだ名で呼ぶことが多かったなあ。主に男子の間でだけなんだけどね。本人も特に嫌がっている様子じゃなかったから、ずっと呼び名は変わらなかった。
ジャージに身を包んで私の前を走るあきお。正直、最初に見た時には侮る気持ちでいっぱいだったなあ。涙ぐましい努力か、なんて意地の悪いことも考えた。
ところが、あきおの足が思ったより速い。私は部活の中でも短距離、長距離ともに自信があり、あきおにもあえて後ろからついていってやろう、くらいの心持ちで当初は臨んでいたんだ。それがいつの間にか、自分の足の重さを感じてしまうほどにペースが上がっている。
あきおの通るコースは、私がいつも走っているものと同じ。さほど疲れているようにも見えず、私の方が息を切らし始める始末。まさか女子に、しかもあきおに後れを取るなど、にわかには信じられなかった。
およそ数キロの道のりを、いささかもペースを落とさず回ったあきおは私の家の手前数百メートルのところで、ようやく違う道へ。だらだらと汗を流して玄関の戸を開けた私は、久しぶりに朝シャワーをたっぷりと浴びることになった。
その日、あきおは普通に学校へやってきた。体育の時間もあったが、もう私があきおを見る目は、以前のどんくささいっぱいの彼女ではなかったよ。準備運動から本番のバレーボール中まで、それとなくあきおの動きっぷりを見ていたけど、明らかに手を抜いている。
レシーブを受け損なって、ころりと床に鉛筆転がりをかますさまに、男子が「あきおの回転レシーブ、出た〜」と茶化すくらい、みっともなかった。
朝、私を引き離さんほどの走りができる人物が、いかにも運動音痴なふりをするなど、解さない。
――能ある鷹は爪隠す、って奴か。面白くねえな。
若い私はそう思った。力があるのなら、それを存分に示してふさわしい評価を得るべきだ。そうすれば、ああやって小ばかにする声もなくなり、少しばかり生きやすい世界へ入れるというのに。
進んで道化となり、皆に笑われるようなことばかりするあきおに、いよいよ私は不審感を募らせていく。
渡りに舟といおうか。その日の部活は、希少な休みと相成った。帰り道に、私は教室を遅めに出たあきおの後をつけていき、周りの人が少なくなったところで声をかける。
どうして体育の時間に、あのような無様をさらすのか。朝に、並みの学生以上のペースで走るのを見たのに、なぜ全力を出さないのか。はっきりさせなきゃ気が済まず、私は質問を浴びせながら詰め寄った。
「見てたんだ」と、あきおは特に驚いた様子もなく、私を見下ろしてくる。そう、見下ろしてくるんだ。当時、170センチちょいだった私より10センチは背が高い。縦も横も上回られると、男としては複雑な心持ちだ。
「一言でいえば修行よ、修行」
「いや、分かるけどさ。それをどうして学校で発揮しないのかを聞きてえの。俺は」
「学校は休憩よ。あそこで力を入れるなんてばからしいわ。大事な時に動けなかったらやだし」
「へー、学校以外に目立てる場所とかあんの? お前、部活に入ってないじゃん」
「じゃあ、見せてあげる」
あきおは不意に、私の額にちょんと手刀の指先を当ててくる。とたん、視界が涙のあふれた時のようにぼやけた。思わず目をこすったけれど、水分は出ていない。
あきおと周りの景色がぼやけて見える。今、私たちはあの日のジョギングで別れた、件の曲がり角にいる。両脇を挟むブロック塀、あきおのすぐ後ろの電信柱、そしてあきお自身の姿も、色で区別をつけるのがやっと。
そのあきおが、膝から崩れ落ちる。正座を少し崩し、ひざ下を開きながら尻をつける、いわゆる女の子座りだ。だが本来ならあきおに隠されていた向こうの景色が見えなくてはいけないのに、そこに立つ者がひとり。
あきおとは正反対に、スレンダーな女の子だった。私の知るどの女性よりもずっと細く、抱きしめたらそのとたんに砕けてしまいそうな、ガラス細工を思わせる。そしてなぜかその女性だけは、相変わらずぼやけている視界の中で、鮮やかに姿を見ることができるんだ。そして右手には、刃をせり出したカッターナイフに似た小刀が。
最初、この女の子にあきおが刺されたのかと思った。でも、その小刀には血はまったくついていないし、何より彼女の顔があきおなのだ、全身のふっくらとした肉だけがついていないだけで。
軽く膝を曲げた少女は、次の瞬間には見えなくなってしまった。私が慌てて周囲を見回すと、つむじをなでて何かが落ちてくる感触。
地面に転がったのは、ひづめのついたシカの足だった。博物館の標本でみたことがある。これもまた鮮明に私の目に映るもので、その断面は外された模型部品のように、血も肉ものぞかせていなかった。
頭上を見る。そこにはちょうど宙返りをしながら、私の背後へ降り立とうする瞬間の彼女。そして切り離たれたと思しき、地面に転がるものより、若干付け根の肉が大きい足が浮かんでいた。
そしてこちらは、付け根の部分にぎざぎざとした歯の浮かんだ、大口が開いている。私の頭がすっぽりと入ってしまいそうな大きさだったよ。だがそれを確認できたのも、彼女が地面に降り立つ時まで。
私の視界は、ぱっとクリアになる。そこには転がった二つの足も、着地したあきおの姿もない。そして振り返ると、あの太っちょのあきおが首を回しながら立ち上がるところだったんだ。
「あーあ、やっぱり『お肉』って重たいわ」
うなじに手を当てながら、気だるげにつま先をとんとんと、地面を叩く。理解が追いつかない私の様子を察し、彼女は口を開いた。
「私、あっちが本当だから。こっちの身体でいるのはきついのなんの」
「着ぐるみ……なのか? ずいぶん手が込んだ、というか学校でありなのか、それ?」
「うーん、別にチャックがあってそこから脱ぐとかじゃないんだ。こうね『ふっ』と出て、『えいやっ!』と入る感じ。で、この身体に入っているのは、訓練のためってこと。重いものをつけるって、身体がない時でも役に立つのよ」
分からない。さっぱり分からない。
「あー、ひとことでいえば『幽体離脱』? で、さっき切り捨てたのは悪さをする奴。普通の人には見えないから、ちょっとの間だけ、君を『見える』ようにしてあげたってわけ。
こういうことに対処できるよう、普段はこのお肉背負って修行してんの。あーあ、だるう」
あきおはふりふりと手を振りながら、その場から去っていく。
以降も彼女をジョギングで何度か見かけ、先行するのを追い抜こうとしたこともあったが、ついに果たせなかったよ。