泉 鏡花「龍潭譚」現代語勝手訳 (7) 九ツ谺
九ツ谺
やがて私の横に来て、添い寝をしてくれた。
美しい人は先ほど水浴びをしたせいか、肌に触れると時折ゾクッとしたが、私は幼児のように安心しきって身体にしがみついた。
「もっと、もっと」とせがむと、おとぎ話などを二つ、三つ聞かせてくれたが、やがて、
「一ツ谺、坊や、二ツ谺と言えるかい」
「二ツ谺」
「三ツ谺、四ツ谺と言ってごらん」
「四ツ谺」
「五ツ谺。そのあとは」
「六ツ谺」
「そうそう七ツ谺」
「八ツ谺」
「九ツ谺―ここはね。九ツ谺というところなの。さあ、もうおとなしく寝るんですよ」
そう言うと、私の背中に手をかけて引き寄せ、玉のような乳房を口に含ませてくれた。露わになった白い襟元や肩の辺りに鬢のおくれ毛がはらはらと乱れかかっているのが見える。
こういうところは姉とまったく違っていた。姉は私に乳を含ませるなどということを決して許さなかった。懐をまさぐろうとするといつも叱られた。母が亡くなってもう三年が経つ。乳の味は忘れていないが、今こうして口に含んでいるのは母のそれとは似ていない。ふくよかな玉の乳房は口に含むとたちまち淡雪のように消えてしまい、舌にとらえることもできず、私の口の中にはただ、さらさらとした唾だけが溢れ出た。
軽く背中をさすられて、ぼんやりと目を覚ましかけた時、屋根の上か、天井裏からだろうか、凄まじい音がした。その音は鳴り止まず、そこにつむじ風が吹き、柱までガタガタと音を立てるものだから、私はその恐ろしさに戦慄き、美しい人にしがみつくと、しっかりと抱きしめながら、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍しておくれよ。いけません」と、きっぱり言うとやがて物音は消えた。
「怖くはないよ。ネズミだもの」さりげなく言うが、私はさっきの恐ろしい響きの中に、何ものかが叫んでいたような気がして、それが耳から離れず震えていた。
美しい人は蒲団から半ば身を乗り出して、枕元にあった蒔絵模様の手箱の中から、一振りの守り刀を取り出すと、それを鞘ごと身に引き寄せ、凜々しい声で
「何が来ても、もう怖くはないよ。安心してお眠り」と言った。私はその様子を頼もしく思い、美しい人の胸にぴたりと顔を埋めた。
少しは眠ったのだろうか。と、ふと目が醒めた。わずかに消え残った灯りに照らされて、床柱はつやつやと黒光りし、その辺りに、なにやら薄紫色のものが立ち籠めて、香の薫りが漂っていた。
私はほんの少し枕から顔を浮かせた。美しい人は私の顔に顔をくっつけるようにして、軽く目を閉じ、睫が数えられるくらいの近さで、すやすやと寝入っている。何か話しかけようとしたが、遠慮もあって、どうしてもできず、しばらくその寝顔をじっと見つめていた。しかし、淋しさに堪えきれず、そっとその唇に触れてみた。ところが、触れたと思った瞬間、なぜか指はそれてしまい唇に届かなかった。それにしても、目の前の美しい人はすっかり寝入っている。悪戯心が起きて、それなら今度は鼻をつまんでやろうか、それとも目を押さえてやろうかと、またじっと顔を見つめた。だが、鼻先をつまんでやろうと狙いをつけて手を触れようとしても、どういうわけかうまくかわされ、私の指は空を捻っただけで、美しい人は雛人形のような顔を一筋も崩すことはなかった。
目の縁を押してやれとも試みたが、不思議なことに、その女のおくれ毛の先が私の頬に触れるまでに近くにありながら、水晶の中にあるものを取ろうとするみたいに、どうやっても指先は顔には届かない。
ついには、考え抜いて、乳の下に顔を伏せて、額を強く押し当てたが、顔には温かい霞がまとったような、ふわふわとしたのどかな感触だけが漂い、くっつけた額は、薄紙一枚の手応えも感じないまま、ハッと下に落ち沈んでしまった。そして気がついてみると、美しい人の胸は元あったところ、私の横で形よく仰向いており、私の鼻はというと、奇妙にも、自分の肌でぬくもった蒲団の中に埋もれているのだった。
つづく




