泉 鏡花「龍潭譚」現代語勝手訳 (5) 大沼
大 沼
「いないって、私どうしよう、爺や」
「まるっきりいらっしゃらないことはございませんでしょうが、もう日は暮れまする。なんせ心配なことになりましたなぁ。お嬢様、遊びに出します時、帯の結び目をトンと叩いてやっしゃればよかったに」
「ああ、いつもはそうして出してやるのだけれど、今日は、私に隠れてそっと出て行ったんではないかしらねぇ」
「それは本当、うかつでございましたなぁ。帯の結び目さえ叩いておきゃ、それだけでお姉様なり、お母様の魂が入るっちゅうもんで、魔の奴はどうすることもできねぇに」
「そうねぇ……」と何とももの悲しげに話しながら社の前を横切っていった。
私は走り出た。が、遅かった。出るのを躊躇し過ぎた。ためらったのは姉までも怪しいものではと疑ったからである。
悔やんでみたけれど、もう遅かった。ずっと先の境内の鳥居の辺りまで追いかけてみたが、もうその姿は見えなかった。
涙ぐんで一人立ちつくし、ぼんやりと辺りを見ていると、暗い夜空の下、銀杏の樹があり、その樹が描く大きな丸い影に重なるようにして立っている女の人の後ろ姿があった。
姉にあまりにもよく似ていたので、「姉さん」と声をかけようとしたが、もし、得体の知れないものに声をかけて、自分がここにいることを教えてしまうことになったら愚かなことだ。そう思い直して止めた。
そうこうしているうちに、その姿はまたどこかへ消えてしまった。見えなくなってしまうと今度は恋しくなり、たとえその正体は恐ろしいものであっても、仮にも優しい姉に姿を変えているのだから、自分を捕まえてむごい仕打ちをすることもないだろうと考えた。
先ほど声で姉だと思ったのは間違いで、本当は、今、幻のように見えたのが本当の姉だったかもしれず、なのに、どうして声をかけなかったのか。悔しさのあまり、泣いてしまったが、もうどうしようもなかった。
ああ、色んなものがことごとく怪しく見えるのは、すべて自分の目が変になったか、でなければ涙で曇っているのだろう。そうだ、先に見える御手洗の水で清めれば治るのではないと考えて、近づいていった。
御手洗には、横長の煤けた行燈が一つ上にかかってあり、ホトトギスの絵と句などが書かれてあった。その行燈の下で見る水はよく澄んでおり、青い苔むす石鉢の底まではっきり見える。水を手に掬おうとして俯いた時、そこに映っている自分の思いもかけない顔はいったいどうしたことか。思わずアッと叫んだが、心をこめ、気を取り直し、両目を何度も拭い、もう一度のぞき込んだ。
映っているのは二度と見たくないほど変形した自分の顔だった。自分はこんな顔ではないはずだ。なぜこんな顔に映っているのか。それはきっと心が惑わされているからだ。今度こそ、今度こそは綺麗な顔が映っていますようにと怯えながら、何度も見直しているその時、肩に手をかけられ、震えた声で
「おぉ、おぉ、千里。えぇもう、本当にお前は……」と言うのは私の姉だった。
その声に思わず私がすがりつこうと振り返ると、私の顔を見て、
「あれ!」と言いながら、一歩後ずさりして、
「人違いだったよ、坊や」とだけ言い残して、そのまま逃げるようにサッと駆け去っていった。
得体の知れないものが色んなやり口で私をいたぶっているとしか思えない。その仕打ちにあまりにも腹が立ち、地団駄を踏み、もう無茶苦茶に泣きながら、姉の後を追いかけていった。捕まえてどうこうしようとか、そんなことは考えていなかった。その時は、ただ、ものすごく悔しくて、本当に悔しくて、追いかける以外はできなかったのだろう。
坂を駆け下り、また駆け上った。町中の大きな道のようなところにも走り出た。暗い小径もかき分けた。野原も横切った。畦も越えて後を振り返ることなく走って行った。
どれくらい走ったのだろう。いつの間にか私は蘆が生い茂った大きい沼の前に来ており、そこで行く手を遮られた。
沼は、漆黒のおどろおどろしい森に四方を囲まれ、その中に漫々たる水面を湛えて、まるで銀河が横たわっているように見えた。
私は力尽きたように、その生い茂っている蘆の葉の中に倒れ込んだ。後は覚えていない。
つづく