泉 鏡花「龍潭譚」現代語勝手訳 (1) 躑躅が丘
泉鏡花の「龍潭譚」を現代語訳してみました。泉鏡花の現代語訳に関しては 白水銀雪氏が精力的に行われていますが、この興味深い作品を自分なりに現代語にしてみようと考えました。逐語訳ではなく、自分勝手な訳をしている部分も多くあります。
この作品は岩波文庫「鏡花短篇集」(川村二郎編)を底本としました。
泉 鏡花「龍潭譚」
躑躅か丘
昼時、日は高く、野蒜が生い茂るだらだら坂には樹の影も立たない。
坂の下とは雰囲気が異なり、この辺りは寺の門、植木屋の庭、花屋の店などがあって、町の入り口らしいとわかる。しかし、さらに坂を登っていくと、ほとんど畑ばかりとなった。手をかざして周りを見回すと、小高いところに番小屋のような小さな小屋が見えた。さらに目を移して谷を見れば、菜の花が咲き残っており、私がいる道の右にも、そして左にも、また、遠く前方にも後方にも色鮮やかな紅色の躑躅の花が咲き溢れていた。
ゆっくり歩いているが、坂を登っているせいか、じんわり汗ばんでくる。
よく晴れた空には一片の雲もなく、風は仄あたたかく野原を這うように吹いている。
「決して一人で行っちゃいけないよ」と優しい姉にいつも言われていたけれど、誰にも見つからないようにして、こっそり家を抜け出てきた。
しかし、こうして一人で来てみると、目にする光景は何を見ても、新鮮で面白い。
山の上から一束の薪を担いだ男が下りてきた。太眉で目が細く、鉢巻きの結び目を前に、額に汗を滴らせている。男はのしのしと近づくと、狭い道の脇に自ら身を寄せ、まず私を通らせてから振り返って、「危ないぞ、危ないぞ」と目尻にしわを寄せて、呪文を呟くように言うと、さっさと行ってしまった。
男をもう一度見ようと、振り返ったが、坂をおおかた下ってしまったようで、もうすでに肩まで躑躅の花に隠れてしまっていた。髪を結わえた頭だけがチラと見えたが、それもやがて山陰に隠れて見えなくなってしまった。
遠くに目をやると、小川の流れる谷間に、草で蔽われた小さいあぜ道が見える。そこを菅笠をかぶった女が鋤を担ぎ、小さな女の子の手を引きながら裸足で歩いて行く後ろ姿を見た。しかし、二人ともすぐに杉木立の中に吸い込まれるように消えてしまった。
前にも躑躅。後ろにも躑躅。見渡す限り躑躅の花が咲き、山土もそのせいか赤く染まっているように見える。その光景は現実のものとは思えないくらいに美しかった。
だが、このあまりにも美しすぎる光景は私に恐怖さえ感じさせた。急にゾクッとした。
「ここにいてはいけない」、「もう帰らねば」と思った。しかし、その時だった。私がいた一株の躑躅の中から羽音高く一匹の虫が飛んで出た。その虫はサッと私の頬を掠めて飛んでいき、五六尺離れたところの小石のすぐ横にとまり、羽を打ち振るわせた。不意打ちを喰らった私は反射的に手を挙げて駆け寄っていくと、虫はパッと飛び立って、同じ五六尺の距離にとまった。今度は追いかけずに、足下の小石を拾い、狙いをつけて投げた。だが、当たらない。そんな私をあざ笑うかのように、虫はふわりと飛んで一回りし、また同じ場所に羽を休めた。追いかけると逃げる。逃げるけれども、そんなに距離を置かず、いつも同じくらいの距離を保っている。そして、小刻みにキラキラと羽を振るわせながら、自身の二本の細い髭を、輪を描くようにして余裕綽々と上下させる小憎らしげな仕草を私に見せつけるのだった。
私はイライラして地団駄を踏んだ。虫がいた跡を何度も踏みにじって、「畜生、畜生」を繰り返しながら虫に躍りかかり、拳を振り下ろした。しかし、拳は当然のごとく空しく土に汚れただけだった。
虫はと言えば。一足先に飛び立って、少し離れたところで悠々と羽繕いをしている。その有様を私は憎しみをこめて、じっと睨んでやった。すると虫もじっとして動かない。よく観察してみると、その虫は羽蟻を少し大きくしたような形で、身体は五色を帯びて、青みがちに光っており、たとえようもなく綺麗だった。
「色が綺麗でキラキラしている虫は毒虫なのよ」と姉が教えてくれたのをふと思い出し、もうこれ以上関わらないでおこうと、虫に馬鹿にされた気持ちをいまいましく思いながらも引き返そうとしたが、ふと、足下にさっき投げつけた小石が二つに砕けているのを見つけると急に心変わりがした。「くそっ!」と悔しさが一瞬にしてわき起こった。すばやくその石を拾い上げて踵を返し、腕を振り上げてキッと毒虫に狙いをつけた。
思い切り投げつけると、今度は失敗せず、きっちり虫を撃ち当てた。「やった」とばかり私はうれしくなって駆け寄り、石でもって虫をもう一度しかと打ちすえ、石共々蹴飛ばしてやった。虫と石は躑躅の中をくぐるようにして、小砂利を伴いながらばらばらと音を立てて谷底深く落ちていった。
袂の埃をはたいて、空を仰ぐと、太陽は少し傾きを見せ始めていた。顔に陽射しが当たるとホカホカした。唇が乾き、さっき虫が掠めた目の縁から頬の辺りが堪えがたいほど痒い。
気がつけば、元来た道とは違う坂道を下りかけているようだった。知らないうちに丘を一つ越えたらしい。戻る道は先ほどと同じ上りになっている。見渡しても、見回しても、赤土の狭い道がうねうねと果てしなく続き、その両側には太陽の赤い光を吸い込んだように躑躅が咲き乱れて、遠く前後を塞いでいる。
そして、この広く真蒼な空の下には誰一人として姿はなく、たたずんでいるのは私一人だけだった。
つづく