死ぬ覚悟をするとは言ったけど、殺されるのは遠慮したい
兵の数は王国軍が圧倒していたはずだ。おそらく敵側の五倍以上はいたように思う。
だがこの場において数の差は意味をなさず、戦況は互角どころか王国軍側が押されているようにさえ見える。影鳥は空を自在に舞い、天馬を切り裂く。影人は、槍を受け銃弾の雨に見舞われようと、怯むことなく前進する。影獣は、その爪と牙で兵士の五体をバラバラに引き裂く。
そして、その中でも特筆すべきはあの狼だ。他の影よりも二回り以上大きく、およそ十メートルはある。その巨体を振るう様はまさに嵐というほかなく、騎兵さえも容易く蹴散らし、人間の攻撃などものともしていない。
だが、王国軍側の攻撃も全く通用していないというわけではなく、大砲での攻撃――銃もそうだが、打ち出しているのは鉛の弾ではなくエネルギーの塊のような光弾だ――や、魔法使いたちによる攻撃は一定の効果を上げているように見える。
しかし、時間が経つにつれて前線は崩れだし、大砲は破壊され、後方にいた魔法使いたちも襲われ始める。俺は、大勢が決したことを悟った。
これ以上この場に留まるのは危険だと判断し、アリサとサラに呼びかける。
「おい! ここにいたら危ない、早くどこかに逃げないと!」
しかし、二人は動こうともせず、アリサが俯いたままに口を開く。
「……どこに逃げるっていうのよ。あいつらは、どこにいたって襲ってくる。……いずれ、こういう日が来ることは分かっていたわ。だから、あんたを呼んだんじゃない……!」
震える体を押さえながら発せられた悲痛な叫びに、俺は何も応えることが出来なかった。
その痛ましい姿に耐えきれず視線を逸らしたとき、戦場の方からあの男の声が聞こえてきた。
「何をしておる! 早くそこから離れんか!」
咄嗟に顔を上げると、影狼が戦線を突破し俺たちの方に向かってきている。
男の叫びは他の連中にも聞こえていたらしく、迫る影狼に気づいた門番たちが悲鳴を上げながら門の内側へと駆け出す。俺も早く逃げなければと思い、アリサとサラに「おい、早く逃げるぞ!」と声を掛けて走り出す。門を潜り抜けようとした瞬間、サラのアリサを呼ぶ声が聞こえ、振り向くとアリサが逃げようともせず立ち尽くしている。サラはそんなアリサの側へと駆け寄り、手を引いて一緒に逃げようとしているがアリサは応じようとしない。
「お前ら、何やってんだ!」
俺は痺れを切らし、二人のもとへと駆け戻った。
「さっさと来い!」
ここで問答を繰り広げている余裕はない、左手でアリサの右腕を引っ掴む。
――そのとき、大気を揺らす唸り声とともに、巨大な影が俺たちの前に降り立った。
漆黒の巨狼。その存在は陽炎の様でありながら、確固とした存在感と圧倒的な威圧感を放っている。数百メートルの距離を跳躍した脚が大地を抉り、光を宿さぬ眼が此方を見据えている。
硬直。恐怖と驚き、動けば死ぬという絶対の予感が体を動かすことを許さなかった。
影狼が動く。無造作に振り上げられた左脚が標的をアリサへと定め、その命を掠め取ろうと迫り来る。
だが、動けない。掴んだままの右腕を引くこともできず、目の前の光景だけが流れていく。
「危ない!」
一瞬、瞬きをする間もない刹那。サラがアリサへと飛びつき、すんでのところで凶爪から逃れる。途端、影狼は唸り声を上げ、倒れこんだ二人を睨みつけながら前傾姿勢をとる。
弾丸の如き勢いで放たれる巨体。思わず、影狼へと手を伸ばす。
「このっ!」
――分かっている。
止めることなど出来るはずはない。伸ばした右手は届いてすらもいない。
無慈悲な瞬間が訪れようとしたその時、影は光によって灼き尽くされた。
何が起こったのか。あまりの出来事に困惑していると、ぽつりと呟くような声が聞こえた。
「……体現者」