49✤Luther
魔王の城があるのは魔界の奥底である。そこまで一人で辿り着けるのはいつのことになるのだろう。時間をかけていたら確実に手遅れだ。
ここはオルグレン卿に協力を頼むしかないのだろうか。
考え込んだルーサーの脳内をエリィは的確に読めたらしい。目つきが冷ややかである。
「うちの父さまなら頼らない方がいいよ。こんな話は絶対に信じないから。でも、魔王の城までなんて、ルーサーにいさまが一人で行ってたんじゃ途中で野垂れ死ぬね。運よく着けたとして、その頃にはプリムねえさまに子供が産まれてたらどうするのさ」
「う……」
可愛らしい顔で恐ろしいことを平然と言う。ルーサーが冷や汗をかいていると、エリィは深々と嘆息した。
「いいよ、わかってるよ。どうやって辿り着くかなんて考えなくていいよ。要するに僕は、行く気があるのかないのかを訊きに来たんだから」
「考えなくていいって、そういうわけには――」
「いいんだよ、転移魔術があるから」
エリィはあっさりとそんなことを言う。
確かに、宮廷魔術師ならば転移魔法のひとつくらいは使えるかも知れない。けれど、それは高位の術であり、使えるとするなら魔術師団長くらいだろう。その魔術師団長であっても、魔界の奥底までは難しいのではないだろうか。それでも、少しでも距離を縮められたらそれでも助かる。
「そうか。じゃあ、魔術師団の方に頼みに行って来る」
「ルーサーにいさま」
にこ、とエリィは無邪気に微笑んだ。
今更その顔が不気味に映るのは何故だろう。背筋がつぅっと寒くなる。
「話を大きくするのやめてくれる? プリムねえさまが魔王のお手つきだとか噂されたらどうしてくれるの?」
「いや、けれど……」
転移魔法の使い手が他にいるとは思えない。捜せば森の中に強力な隠者がいたりするのかも知れないけれど、そんな不確かなことはしていられない。
エリィは面倒くさそうに言った。
「で、準備はいいの?」
「え?」
「魔王のところに乗り込む準備だよ。あの剣は――持ってるね」
と、エリィはルーサーの腰の辺りに視線を向けた。
「支度はできている」
「心構えは?」
「今、したよ」
「ふぅん、上出来だね」
フフ、とエリィは軽く笑った。本当に、プリム以上に謎が多いのはこのエリィだったのかも知れない。
エリィは子供らしい細く短い腕をその場で持ち上げ、まるでオーケストラの指揮者のように振るった。ルーサーが最後に見た光景がそれであった。ルーサーの部屋に佇むエリィの姿がフッと薄れた。
体が、目に見えない手に抱え上げられたような感覚がした。それも、大切にではなく、振り回すように乱暴な扱いで。
嵐にでも遭遇した気分だった。目まぐるしく景色が変わる。その景色が動きを止めた時、ルーサーはやっと地に足がついたというのに立っていることができなかった。その場に膝をつき、そうして荒く息をする。しばらく続いた眩暈を落ち着けてから、ルーサーはようやく立ち上がった。
ただし、立ち上がった瞬間に絶望してしまいそうになった。
明かりも乏しく薄暗い、そこは夜の国であった。剥き出しの岩肌が続く断崖に、魔王の城らしきものが見えた。黒水晶を細工したような、どこか繊細な城。無骨な威容ではなく、もっと装飾的な美しさだった。薄暗くともほんのりと輝いてそれが見えた。星空の下にいるような光景だ。
「あれか……」
いきなり中へ飛ばされても困るけれど、ここからどうやって城へ潜入したらよいのやら。
それにしても、エリィはどうやってあんな術を使ったのだろう。才能溢れるにしても限度というものがある。
そこでルーサーは一度かぶりを振った。今はエリィの謎を考えるよりもプリムを救い出す方が先決なのだ。
きっと心細くて、それでも無理をして気丈に振舞っている、そんな気がした。ルーサーのことなどもう思い出してくれてもいないだろうか。
最後に見たあの怒った瞳は、ルーサーを見限ってしまったのだろうか。
プリムにそんな誤解を受けたことは、ルーサーが気をつければ済んだことである。そこまで気を回せなかった自分が悪い。
けれど、もう一度顔を合わせたら、今度こそしっかりと想いを口にしよう。手を振り払われたとしても、簡単に諦められる気持ちではないから。
ルーサーが岩場の砂を踏み締めるごとに、その足音に吸い寄せられる魔物たちがいた。自分たちのテリトリーに迷い込んだ獲物を、目を光らせて待ち受ける。
それらは地上に零れ出たような低俗な魔物ではなく、王城付近を護る魔族なのだろうか。体躯は岩のように大きかった。犬に似ているけれど、首は三つ、足は六本、尖った白い牙に唾液がぬるりとまとわりついて垂れ下がる。地鳴りのような低い声がその三つの喉から響いた。黒い毛皮を波打たせてルーサーの目の前でにじり寄る魔物。
ルーサーはごくりと喉を鳴らして剣の柄に手をやった。その時、上空から羽音がして、正面に注意しつつ上を見上げると、煤けた鱗を持つ竜の翼と腹が見えた。地上に這い出して来る魔物など小物ばかりであったのだと改めて感じた。
気が遠くなりそうだ。まともに戦っていたら、魔王のもとへ辿り着いた頃には瀕死の状態だろう。
ルーサーはぐ、と腹に力を込め、一瞬だけ息を止めて剣の刃を出した。父から借り受けた剣は、以前のものよりも軽く感じる。とはいえ、結局のところ剣は道具に過ぎない。使うルーサーが未熟であればそれまでなのだ。
害意を感じ取ったのか、犬型の魔物が山のような肩を怒らせて哮る。怯んでしまいそうな自分を奮い立たせ、ルーサーは前へと踏み込んだ。
迫って来た魔物の爪をとっさにかわすと、爪は地面の岩を削った。鋼鉄のような硬さである。あれにかすったら骨まで砕かれそうだ。けれど、動きはそれほど素早くない。ルーサーは迫り来る前足の腱を断つように、剣先を魔物の足に食い込ませた。そこから力任せに斬り上げる。
きゃうん、と犬のような声が上がったかと思うと、三つある首のひとつがその口を開いてルーサーを飲み込まんばかりに迫った。その鼻先を素早く斬って、なんとか退ける。二つ目の首も片目のまぶたを斬って避けた。傷口から落ちる血が雨のように降る。血腥さに慣れたルーサーでも、その血の飛沫に顔をしかめてしまった。まるで死肉のような臭気がする。
しかし、浅い傷が増えるばかりで、決定的なダメージではない。長引いては不利になる。
踏み込むべきか逡巡している間もなく、犬の魔物は咆哮を上げた。気圧されたその瞬間、上空にいた竜が飛来する。その大蛇のような尾に横っ腹を撥ねられ、ルーサーはその痛みと衝撃に目が眩んだ。火花が舞うけれど、すぐさま体勢を立て直したのはほとんど本能的なものであった。
竜の顎がカッと開き、そこから炎の息が吹きつけられた時、ルーサーはとっさに剣を盾にして力を込めた。多少のことならば、剣の刃を構築する質量を盾のように作り変えて耐えることもできる。
ただ、あれだけの炎をルーサーの力で防ぎきることはできないだろう。多少、腕の一本くらいは焼けるかも知れないと覚悟した。
けれど、ルーサーの手にした剣はまるで半円の殻のような防壁を作り出した。轟々と燃え盛る炎に包まれつつも、ルーサーは大した熱を感じなかった。剣が持ち主の意思に従うものとはいえ、この剣がここまで精度がよいものであったとは、ルーサー自身が驚いた。本当に、父に感謝しなくてはならない。
と、そんなことを考えたルーサーを嘲笑うかのような拍手が、炎が切れた眼前から発せられた。
「これくらいにしておこうか。本気で死なれても困るからね」
軽やかな声である。それは幼い、可愛らしい――。
「エ、エリィ?」
エリィは犬の魔物の頭の上に腰かけていた。にこりとルーサーに笑いかける。
「その剣、僕の力も注いでおいたからね。多少は戦えると思うよ」
ルーサーは愕然とした。あの時、弟たちがこの剣を選んでくれた。一緒にいたのは――。
エリィは笑うのをやめた。魔物たちはエリィに攻撃する素振りを見せない。何故か急に大人しかった。
「エリィ、君は……」
「質問は後だよ。まずはプリムねえさまだ」
そう言うと、エリィはふわりと魔物の頭から地面に降り立った。その姿は天使とは言いがたい。




