47✤Primrose
プリムはあの後、限りなく人に近い容姿をした――尻尾や角があることを除けば――侍女たちによって湯浴みをさせてもらい、ネグリジェを着せてもらった。シルクで肌触りのよいものであっても、自分の持ちもの以外を着せられて落ち着くはずもなかったけれど。
先ほどの部屋に案内され、ようやく一人になれたけれど、丸まってベッドの中で震えながら夜を過ごした。朝が来るのが怖い。
夢の中でもし、ルーサーが魔王を倒してプリムを救い出してくれるようなことになったら、現実との違いに目覚めて苦しむから、そういう夢は見たくなかった。
エリィたち家族の夢が見たいなと思ったけれど、夢は見なかった。
この城の外観をプリムは知らない。どういったところにあるのかもわからない。
だから、朝になっても日が差し込むのかどうかさえわからないのだ。そもそも、朝というものがあるのだろうか。薄暗い部屋の中、なんとなく目が覚めてぼんやりとしていると、不意に気配を感じた。ハッとして目を見開くと、ベッドの縁に腰かけた魔王がプリムを見下ろしていた。
「起きたか」
薄暗い中、赤い瞳がにこりと微笑む。
この時ばかりは頭からルーサーのことも全部吹き飛んで、プリムはただただ絶叫していた。ここまでの声が自分から出るとは、プリム自身も驚いたくらいだ。魔王はさすがに面食らった様子で呆けたけれど、すぐに立ち直った。
「すまない、寝顔を眺めていたくてつい。うむ、恥ずかしい思いをさせたのだな」
恥ずかしい以前の問題である。ほぼ条件反射であった。
すると、部屋の明かりがパッとついた。よくわからない丸い光源が天井に灯る。そして、カシャカシャと床を引っかくような音がして、マルファスがやって来た。プリムにはカラスが救世主のごとく光り輝いて見えた。
「チェザーリ様! ですからレディの部屋に無断で入ってはナリません!」
「うん? けれど、私の花嫁なのだが」
「そんナだからモテナイんですョ」
「ぐ……」
このカラス、魔王を黙らせた。なかなかにできるカラスである。
「トニカク、もう少しお待チ下さい」
渋々、魔王はプリムの部屋から出て行った。と思ったら、一度戻って来た。気を抜いた直後のことでプリムは再びビクリと肩を跳ね上げた。
「ああ、後からドレスを選ぶ。もちろん結婚式のだ。楽しみにしているよ」
魔王はポッと頬を染めるけれど、プリムはげんなりした。そんな魔王の足音が遠退いて行くと、マルファスはやれやれといった具合にかぶりを振った。
「悪気はナイんですョ」
「え、ええ……」
このカラス、こう見えて魔王よりもずっと年上なのかも知れない。何か老成している。
「まあマア、とりあえずお着替エを。そウしたら朝食デス」
「……食欲がないから要りませんわ」
食欲なんてない。大体、何を出されるのかわかったものではないのだ。
そう思ったことを見透かされたらしく、マルファスは羽をトントン、とデコに当てながらつぶやいた。
「おやオヤ、食欲がナイと。そう仰らズ、お召し上ガリ頂けますカ? お食事を終えタラ、いいものをお見せしマスよ」
「いいもの?」
「エエ。昨日のニンゲンの、とっテモ面白い場面デス。いッヤー、アレは面白かっタ!」
なんと思わせ振りな。人間の心理をよく理解しているカラスだ。
というか、あの後もメルディナを観察していたのか。
「ううう、わかりましたわ。食べますわよ」
プリムもその誘惑には勝てなかった。何かルーサーに関わることかも知れない。そう思うと余計に知りたかった。
マルファスがどこからともなく取り出したベルをチリンチリンと鳴らすと、昨日の侍女たちがやって来た。マルファスが一礼して去ると、侍女たちはプリムにゆったりとしたデザインのハイウエストで締めたドレスを着せた。ブルーグリーンの割とシンプルで大人っぽいデザインである。デコルテ、両肩がむき出しで、肌が出る分心許ない。髪の毛も夜会巻きにされた。
そして食事はいうと、血の滴る――ではなく、レモン風味の卵スープ、焼き立てのパン、たっぷりのフルーツ、などと本当におかしなものは出て来なかった。これはプリムのための特別メニューなのか、魔王も同じものを食べているのか、どちらなのだろう。――それ以上、深く考えないようにした。
とりあえず、見た目が普通の食事はなんとか摂ることができた。プリムがちゃんと食べ終えたのを確認したかのようにマルファスが戻って来た。後ろで羽を組みつつガニマタで歩いて来る。
「お食事は終えラレましたナ」
「ええ」
「ではデハお約束のモノを」
マルファスは侍女たちがテーブルを片付けて去った後、その丸いテーブルの上に昨日の水晶玉を乗せた。本当に、どこから出したのだろう。今日はもう慣れたのか転がさなかった。
「フフフ、では行キますョ」
バッサバッサと水晶玉を羽で叩く。すると、その水晶玉にメルディナの清楚な立ち姿が映った。あれはどこにいるのだろう。メルディナが待ちぼうけしているように見えた。そう考えてすぐに気づいた。あれは騎士たちの宿舎のそばではないだろうか。メルディナはルーサーを待つのだ。
ズキリと胸が痛むけれど、プリムの推測は正解であった。
『ルーサー様!』
嬉しそうな、輝く笑顔が出て来たルーサーに向けられた。メルディナの本性を垣間見た今でもどちらが本当の彼女なのかわからなくなるような徹底振りである。
優男の友人と並んで出て来たルーサーは、いつものことだけれどむしろ淡々としている。一見そう見えるだけで内心ではきっと喜んでいるのだろう、とプリムは久々に見たルーサーの顔に苛立ちと切なさを募らせた。
ルーサーを見上げると、メルディナは両手を胸の前に添えてつぶやいた。
『あの、あれからプリムローズ様とどうなってしまわれたのか、それが気がかりで……。わたくし、もうどうしてよいのやら……』
その周囲にいた騎士たちが何事かと集まって来る。ルーサーとメルディナに目を向けている。
人が集まって来たことで、プリムにもメルディナの思惑が少しだけ読めた。周囲の目がある場所でルーサーからメルディナに心変わりしたという決定的なひと言を引き出したいのだ。
ルーサーならあっさりそんな罠にかかりそうな気がする。プリムはこの先を見るのが怖くなった。けれど、これはきっとすでに起こってしまったことなのだ。プリムが目を背けても変わらない。
そんなプリムの心を知らないルーサーはぽつりとつぶやいた。
『そういえば、プリムの話というのはどういった内容だったのでしょう?』
いきなり自分の名前が出た。心臓が潰れそうな衝撃だった。
メルディナもルーサーの言葉に呆然としている。
『え?』
『プリムのことで話があるとあなたは仰った。そのお話というのをまだお聞きしていないと思いまして』
一体、どういうことなのか。プリムは食い入るように水晶玉に見入った。
メルディナはそこから慌てて会話を続ける。
『あの、それは……ルーサー様にお訊ねしてみたかったのです。本当にプリムローズ様のことをお好きなのかどうかを。オルグレン卿に命じられてのことで、ルーサー様が望まれたことでないのだとしたら、わたくしにもまだ希望が残っているのかと――』
語尾は涙声でかすれて消えた。顔を背けてうつむいた細い肩が小刻みに震えている。周囲がざわついた。
――思った言葉がなかなか引き出せないから、メルディナなりに勝負に出たようだ。そう、ルーサーは鈍いのだ。内心、思い通りに進まない会話にメルディナも苛立っているだろう。
それにしても、なんてことを訊くのだろう。プリムはあまりのことに耳を塞ぎかけた。
ルーサーの本心なんて今更知りたくない。傷つくのは嫌だ。
『わたくしは――』
言葉を重ねようとしたメルディナを、にこりともしないルーサーが遮る。
『メルディナ様』
メルディナはハッとして顔を上げた。美しい瞳に涙と期待が煌く。
ああ、あれに勝てる男性はいないな、とプリムはどこかで思った。
もういい、見届けよう。そうして、忘れよう。プリムにはそれしかできないから。
その瞳に向けてルーサーはささやく。
『とても……』
『はい?』
メルディナはきょとんとして小首をかしげた。水晶玉を眺めていたプリムも一緒に首をかしげた。意味がわからない。
『いえ、プリムのことを好きなのかとお訊ねになったでしょう? ですから、とても、とお答えしたのですよ』
はあ? とプリムは声を上げてしまいそうになるのを、両手で口を押えて耐えた。心臓が壊れそうなほどに力強く脈打って、頭に血が上る。指先が痺れるように震えた。
とても、と端的過ぎるその言葉に、ルーサーの心が現れている。何それ、と思わなくはないのに、自然と涙が浮かんだ。
『わ、わたくしとまたお会いして下さると約束して下さったのは――』
『あなたがプリムのことで話があると仰ったからですが?』
『わたくしはあなた様をお慕いしておりますのに。どうしてそんな惨いことを仰るのですか?』
ワッと泣き崩れたメルディナの指の隙間から弱々しい声が漏れ聞こえる。ざわざわと周囲の声の方が大きくなった。
フェミニストのルーサーだから、女性を傷つけるようなことは本意ではない。こんなにも人目のあるところでこれ以上会話を続けたら、メルディナが傷つくと曖昧にやり過ごすと思った。
それなのに、そんなプリムの予想も裏切って、ルーサーは至極真面目に言ったのだ。
『私は、プリム以外の女性のことは考えられないのです。申し訳ありませんが、ご理解下さい』
はっきりと。本当にはっきりとそう告げた。
周囲からヒュウ、とはやし立てるような口笛が響く。そういう恥ずかしいことを人前で言うタイプだっただろうか。
クスンクスンと泣いていたメルディナから、ボソリと低い声が聞こえた。恥をかかされた怒りが収まらないのだろう。メルディナをか弱いと信じていそうなルーサーに聞こえていたら卒倒しそうなセリフだったけれど、どうやら聞こえなかったらしい。
「ネ、ネ、面白かったでショウ? デモ、プリムって誰デショウネ?」
マルファスが楽しげに水晶玉を叩きながらそんなことを言った。
「ア、アレ、コーネリア様?」
気分を和らげようとして見せたはずが、とマルファスの声が焦っていた。
その時、プリムはハラハラと涙を零していた。
嬉し涙なんていう単純なものではなかった。あんなにもまっすぐなルーサーを最後まで信じてあげなかった自分の愚かさに、涙が止まらなくなった。
可愛い態度なんてひとつも取らなかったのに、本当に大切に想ってくれていた。そんなはずはない、と自分が勝手に否定してしまっただけなのだ。ルーサーが自分を好きでいてくれる理由がわからないから、不安があるから、好きでいてくれるはずがないとあっさり心変わりを疑った。
ルーサーは何も悪くなかったのに。
ごめんなさい、とプリムは慌てるマルファスのそばでしばらく泣いていた。




