45✤Luther
城下町へキアランと巡回に出た。ほとんど毎日のように通るルートだから、目を瞑っていても歩ける気さえする。町の人々と挨拶を交わしながら大通りの坂を下って行くと、商店が立ち並ぶ辺りでパンの香ばしい臭いが漂って来た。それを嗅いだ途端に空腹を覚える。そういえば、あまりちゃんとした食事をしていなかった。武人は体が資本だというのに、情けない体たらくだ。
ルーサーが知る限り、城下町は常にのどかなものであった。騎士になってから、城下で大きな事件には出くわしたこともない。
ただ、朝から酔っ払って路地でひっくり返っていた中年の男がいたので注意した。そうしたら、この若造が知った風な口を利くな、と逆に説教された。では拘留所へと誘ったら、途端にペコペコと平謝りである。
酒で身持ちを崩す人は珍しくもない。酒に逃げたくなったそれなりの理由があってのことかも知れないけれど、周りが怯えるので厳しく接するしかない。
「ほ、本当に今日が初めてで、私はいつも真面目に働いているんですよぅ」
「はいはい、わかりました。続きは後で聞きますよ」
キアランが笑顔で、けれど相手が逃げられないようにがっちり腕をつかみながら微笑んでいる。
と、そんなことは日常の範疇だ。ただ、今日、この商店街で違和感を覚えた。
誰かに見られているとそんな気がしたのだ。ハッとして振り向くと、ルーサーを射殺さんばかりに睨めつけているその男には見覚えがあった。二十代半ばくらいの中肉中背の男だ。更に振り返ると、建物の陰で目を三角形に尖らせたメイドにも見覚えがある。
ルーサーは額に手を当てて嘆息した。
彼らはオルグレン邸の使用人たちである。ひと言、もの申したくて仕方がないといった顔でルーサーを睨んでいるのだ。
エリィと同じで、ルーサーが不甲斐ないと怒っているのだろう。
ルーサーはキアランにささやいた。
「すまないが、少しだけ任せていいか?」
「うん? どうした?」
「あそこの男に話を聞いて来る」
そうして、ルーサーは馬車の行き交う通りを素早く向い側まで渡った。オルグレン邸の使用人の男が驚いてとっさに逃げようとしたので、ルーサーも急いで後を追った。男を捕まえるのは容易かった。建物の角で走り去る肩をつかむと、男はヒッと悲鳴を上げて立ち止まる。
「あ、あの、その……」
ものすごい形相で睨んでいた割に、面と向かっては言えないらしい。慌てふためく男に、ルーサーはなるべく慇懃に言った。
「あなたのことはオルグレン邸で見かけました。私に何か言いたいことがあるようですね。どうぞ、仰って下さい」
一応年齢的に上であることと、上官であるオルグレン卿の使用人なのだ。頭ごなしには言わなかった。
男はそれでも落ち着きなく視線をさまよわせた。
「そ、それは……その……」
「プリムのことですか」
それ以外にないだろう。誰でもわかる。
男は仕方ないといった風に大きくうなずいた。
「そうです。みんなで手分けして捜しているのですが……」
「え?」
予測しなかった答えに、今度はルーサーが愕然としてしまった。
探しているとは、それではまるで――。
「まさか、いなくなったのですか?」
ここまでルーサーが何も知らないとは思わなかったのだろう。男はハッと口元を押えた。けれど、今更聞かなかったことになどできない。ルーサーは男の両肩をがっちりとつかんで揺り動かした。
「教えて下さい。どうかお願いします!」
ガクガクと前後に激しく揺する。それが人にものを頼む態度かと言われてしまいそうだが、この時のルーサーは少しも冷静ではなかった。あの夜会から一度はちゃんと自宅に戻ったはずだ。なら、どうしていないのだろう。ルーサーにはわからないことだらけだった。
そうして、もう、プリムの身に起こったことを優先して知らせてもらえる立場ではないのだということが身に染みて苦しくなる。
男が目を回しそうになっていることにようやく気づき、ルーサーは慌てて手を止めた。すると、男の口から切れ切れに言葉が漏れる。
「さ、捜さないでほしい、と置手紙があって、どこかに消えてしまわれました。皆、あなたのせいだと噂していて……」
「っ……」
弱々しく見えて、その実プリムはとても逞しかった。いつも前を向いて、一人でピンと立っていた。もっと頼ってほしいのに、大丈夫だと言い張る。
強い娘だとルーサーはプリムのことをそう思っていた。
だから、プリムがそうした行動に出るとは露ほども思っていなかった。
けれど、根っから強い娘などではないのか。どこか一点に綻びがあって、そこから崩れ落ちるようにしてプリムは自分を保っていられなくなったのだろうか。
それをルーサーのせいだと言うのなら、プリムに心を開かせることのできないルーサーがやはり悪いのだ。愛しいという気持ちはあれど、それがプリムの救いにはなれていない。
確かに不甲斐ない。
ルーサーは心底疲れて項垂れた。男がビクッと肩を跳ね上げたけれど、そんな男からルーサーは手を離して一礼した。
「事情を教えて下さってありがとうございます。私のせいだというのなら、私が連れ戻します」
どこに行ったのか、ルーサーにはただひとつの心当たりすらない。そのくせ、連れ戻すなどと大言を吐いてみせるのは、自分がプリムにとって特別であると思いたい、それだけのことだ。それから、こうして口に出して誓うことで自分を奮い立たせたかった。
男は戸惑っていたけれど、ルーサーは彼に背を向けてキアランのそばへ戻った。
「キアラン、悪いが緊急事態だ。すぐに戻りたい」
キアランは酔っ払いとは密着したくないのか、後ろに回させた手を腕一本で押さえ込んでいる。
「緊急事態?」
「ああ。すぐにオルグレン卿にお会いしに行かないと」
「オルグレン卿? ちょ……もう少し待てって」
「駄目だ。今すぐじゃないと。この人は一緒に連れて戻る。なるべく急いで戻って来るから、しばらく頼む」
職務を優先せねばならないと思うけれど、いつ何時も真面目に過ごして来た結果が今の状態だ。取り返しがつかなくなる前に、時には優先順位を心のままに組み替えても許してほしい。
「……余計にこじれても知らないからな」
と、キアランは呆れたけれど。
ルーサーはキアランから酔っ払いを受け取ると、無言で首根っこを捕まえて早足で進んだ。その時のルーサーの形相が凄まじかったのか、酔っ払いは少しも暴れることなく従順について来た。
詰め所で酔っ払いを引き渡すと、彼は酒気もすっかり抜けたのか、とても反省している風でルーサーに何度も頭を下げた。
「あの、オルグレン卿はどちらにいらっしゃいますか?」
詰め所の廊下で行き会った先輩騎士にルーサーが訊ねると、先輩騎士は苦笑して答えてくれた。
「お部屋にいらっしゃるようだ」
「ありがとうございます」
自分より背の低い先輩に、ルーサーは深々とお辞儀をした。すると、顔を上げた時に肩口をぽん、と叩かれた。
「がんばれよ」
そう言って去った先輩に、ルーサーはもう一度頭を下げた。
騎士団本部である建物の、ルーサーたち平隊員の宿舎とは別棟の最上階。軍事雑務のための個室が設けられており、そのオルグレン卿の部屋へとルーサーは急いだ。
屈強なオルグレン卿と同じくらい、入り口の扉が頑丈で近寄りがたくルーサーを拒絶しているように感じた。それでも、ここで怯んでいる場合ではない。ルーサーは大きく息を吸って覚悟を決めると扉を叩いた。
「オルグレン卿、ルーサー・アーミテイジです。お話があって参りました」
顔も見たくないと突っぱねられることも覚悟していた。けれど、オルグレン卿は存外落ち着いた声で返してくれた。
「入れ」
そのひと言に安堵しつつ、ルーサーは扉を潜った。幾何学模様の絨毯に書棚、ソファー、それほど多くの調度品があるわけではない。マホガニーの机に肘をつき、額を支えるようにして座っているオルグレン卿はいつになく疲れて見えた。一礼して前に進んだルーサーに、オルグレン卿は目を向けた。そこには昨日のような熱はない。プリムの失踪が思いのほか堪えているのだろうか。
オルグレン卿は短く嘆息すると言った。
「すまなかったな」
「え?」
「プリムの話や噂を鵜呑みにして、君の言い分を聞いてやらなかった。上官としてはあるまじき行為だが、父親としては如何ともしがたくてな」
上官としてあるまじきと言うけれど、こうして部下の若造に上位の騎士が易々と謝るのは称賛されることではない。配下に侮られては統率が取れぬと、位が確かであればあるほど、武官は名誉や体面を大事にする。その上官に恥をかかせたルーサーに怒りをあらわにしてみせたのも、立場があればこそである。今更ながらにルーサーは冷静になった。
だから耳を疑い、二の句を告げられずに固まってしまうと、オルグレン卿はどこか柔らかく笑った。それはとても珍しいことである。
「先ほど、隊員たちが数名、君のことに口添えしに来た。あれは一途な男だから、婚約のことはもう一度考え直してほしいとのことだ」
いつの間に、とルーサーは妙に恥ずかしくなった。けれど、仲間たちのその心は嬉しかった。婚約が決まった時は少しも喜んでくれなかったくせに。
ただ、単純に喜んでいる場合ではない。
「私は彼女の他にはもう考えられないのです。けれど、彼女がいなくなったと聞き及び、それで参りました」
すると、オルグレン卿はやはり疲れた顔をした。
「いくら君に別に想う相手ができたとは言え、そこで世を儚むほどにか弱く育てたつもりはない。早まったことはしていないはずだが」
「え……」
まさに危惧した通りの事態なのだ。ただ、ルーサー自身がそれに気づくのが遅すぎたのだ。
自分の気持ちを伝えるのは難しい。だとしても、どうしてそんな風に受け取られてしまったのだろう。ルーサーはプリムだけを見ていたのに。
プリムは今、そんな誤解を抱えたままでいる。そう思うだけでルーサーはじわりと冷や汗が滲むのを感じた。そんなルーサーにオルグレン卿は苦笑する。
「誤解だということはわかった。それから、君は自分で潔白を証明した。だからもういい」
「わ、私はオルグレン卿の配下です。私を娘婿にと見込んで下さった以上、潔白であろうと、そのような噂を立てられたこと事態が上官の顔に泥を塗ったようなものです」
軽率なルーサーが物笑いの種になるだけの話ではないのだ。
もういいと言ってくれても、自身の愚鈍さが情けなく、そうして申し訳なくなってルーサーは胃がキリキリと痛むのだった。それを言っている場合ではないのだが。
オルグレン卿は厳しい面持ちながらに、そんなルーサーを気遣ってくれていたように思う。
「そうした事情は察するというのに、君は女心にはとことん疎いな」
などと失笑され、ぐうの音も出ない。
「しかし、娘を捜し出し、その誤解を解かぬことにはどうにもならぬ。その後でもう一度二人にこの婚約をどうするべきか問うとしよう」
「……ありがとうございます」
ルーサーはプリムに少しも相応しいと示せていないというのに、オルグレン卿はまだ望みを繋いでくれた。そのことに心から感謝した。
なんとかしてプリムを捜さなければ、このまま終わるなんて嫌だ。ルーサーはあの時折見せる微笑を脳裏に呼び起こし、拳を握り締めた。
ただ、とオルグレン卿は言う。
「宮廷魔術師団に依頼したのだが、娘の消息がつかめない。国内にいれば捜せないはずはないというのだが……どこにいるのか」
手がかりがなくとも、そうそう諦めるわけには行かない。
ルーサーはオルグレン卿に深々と頭を下げて部屋を出た。




