44✤Primrose
マルファスのおかげでメルディナの本性を知ったプリムであった。
ただし、それをルーサーに伝える手段はなく、伝えたところで信じてくれるかどうかもわからない。モヤモヤとした気持ちでいると、マルファスが楽しげに水晶玉を羽でバサバサ撫でた。
「これはマタ楽しいニンゲンですナァ。いいノを紹介シテ頂いてありがとうございまス」
「そ、そう?」
礼を言われても複雑なのだけれど。プリムの引きつった笑みにマルファスは気づいたのかどうなのだかわからない。そのままメルディナ劇場が続くのかと思ったら、部屋の扉がノックもなしにバン、と開いた。
プリムはヒッと悲鳴を上げて、それから慌てて口を押さえた。
「待たせたな、コーネリア!」
来た。永遠に来なくてもいい元凶が。
「オヤオヤ、チェザーリ様、レディのお部屋にノックもナシはイケません」
マルファスの方がよほど紳士的なことを言った。けれど、聞いているのかいないのか――。
こってり説教されて来た割には心底嬉しそうな笑顔のまま、魔王は扉も閉めずにプリムのもとにまっすぐに歩んで来た。あたふたとするけれど、柔らかいベッドの上では上手く逃れられなかった。魔王はそんなプリムの手を取って力強く引き寄せる。
「あっ」
逆らう間もなく、プリムは魔王に抱き締められた。一見優男ではあるものの、力は強い。
しかし、その抱擁には甘さなどなく、熱烈であっても痛いだけだった。プリムは魔王の腕の中で全身がぞくりと粟立つのを止められなかった。ただ、魔王はそんなプリムの様子が少しも気にならないようである。
「愛しいコーネリア、ずっとこの日を夢見ていた」
こちらにしてみたら悪夢以外の何ものでもない。ガクガクと歯の根がかみ合わなかった。
マルファスは諦めたのか、ひとつ嘆息して部屋から出て行こうとする。行かないでと叫びたかったけれど、マルファスはぺこりとお辞儀をすると、丁寧に扉を閉めた。密室に魔王と二人。――正直、再び気を失いそうな状況である。が、気を失っている場合ではない。
「コーネリア、やはり前世の記憶は蘇らないままなのかい?」
涙を浮かべて、プリムは大きくうなずいてみせた。チェザーリは一度体を僅かに離すと、プリムの頬に冷たい手を滑らせる。
「そのようだな。随分と震えているし。そう怖がらずとも、私は君を大切にするよ。恐ろしいことなど何もない」
大切にするつもりはあるのだろう。それでも、怖くないはずがない。この人の腕の中にいると、どうしようもなく体が震える。体が彼を拒絶するように。
前世での夫と言われても、プリムにはさっぱりだ。記憶が蘇ったらこんな気持ちはなくなるのだろうか。
「ええと、そうだな。この城の中にいてくれるのなら、君の願いはなんだって叶えてやろう。さあ、遠慮なく言うといい」
赤い瞳が上機嫌でそんなことを言った。
ここで正直に、ルーサーに手を出さないでほしいと頼んだら、むしろ嫉妬心に駆られて何をするかわからない。こっそり隠れてやらかしそうだ。
だから、ルーサーのことを思い出させないようにしなくてはいけない。
「わ、わたくし、コーネリアとしての記憶が蘇らない限りは『プリムローズ』でしかありませんの。どうかそれまではプリムローズと呼んで頂きたいですわ」
嫌だと断られそうな気がした。魔王にとってはコーネリアという名が妻の名であり、他の名前など受け入れられそうもなかった。それほど愛しげに名前を呼ぶ。
そう思ったのに、魔王はあっさりと承諾した。
「ああ、それは気が利かなくてすまなかった。プリムローズ、これでいいかい?」
「……は、はい」
少し拍子抜けした。割と柔軟なところもあるようだ。
「プリムローズ」
「は、はい」
呼ばれたから返事をしただけだというのに、デレッと嬉しそうにする。ただ、プリムは嬉しくない。どっと疲れた。
プリムがそんなことを思っていても気づいていないらしい。おめでたいなと思っていたら、魔王は急に顔を引き締めた。
「プリムローズ、ところで式の日取りはどうしようか?」
「へっ」
「もちろん結婚式だ。君と私の」
口に出して言われると、プリムは現実に押し潰されそうだった。顔を引きつらせていると、それでも魔王は楽しげに続けた。
「君が十六になったらと思ったけれど、どうせ後少しのことだからな。まだあどけなさは少し――いや、それなりに残っているが、まあギリギリ――」
童顔で悪かったな、と密かにイラッとしたけれど、口には出さない。
「とにかく早いに越したことはないと思うのだ。さっそく明日には準備を整え、明後日でどうだろう?」
早い。早すぎる。
「あ、あの、わたくし、まだ記憶を取り戻しておりませんの。このまま結婚というのは――」
今になってもまだ時間を稼ぎたいプリムはささやかな抵抗を試みた。けれど、魔王はとんでもないとばかりにかぶりを振る。
「記憶は結婚してから取り戻せばいい。そう焦らずとも私ならば気にしない」
自分の妻だったという女性の生まれ変わりが夫である自分を覚えていないのに、気にしないと言う。そのうちに魂で惹かれ合うからとか言われた日には、プリムは嫌過ぎて泣くかも知れない。
思えば、妻にしようかという相手にこんなにも嫌がられている魔王は案外かわいそうなのだろうか。
すごく想われている。そうした気持ちは迷惑なほど――いや、痛いほど感じる。
ただ、これがプリム自身に向けられていると思えないから嫌なのか。その辺りはよくわからない。
好きな人の心が自分に向かないつらさはわかる身なのに。
とにかく、腰に手を回されたまま困惑しているプリムを、魔王はニコニコと笑顔で眺めていた。
「まあ、今晩はゆっくりと休むといい。さすがに疲れただろう」
そのひと言にプリムはひどくほっとした。表情がゆるんだ自覚がプリムにもあった。魔王はプリムの頬を更にひと撫ですると、額に唇をつけた。
「おやすみ、私の花嫁」
ぞわ。
その場で固まったプリムに、魔王はぽっと頬を染めて微笑む。名残惜しそうにしながらようやく部屋を出て行った。その途端、プリムは額の皮が剥けるほど、躍起になって額を擦り続けたのである。
どうしようもなくルーサーに会いたいけれど、会ったら余計に切なくなるだけだろう。ルーサーはもう、プリムよりもメルディナの方が好きなのだから。
けれど、ここで耐えることがそんなルーサーのためになるのだと信じるしかない。
できることなら魔王を好きになれたらいいのだろうけれど、それは難しいことだとすでに感じ始めていた。




