43✤Luther
キアランがしばらく待てと言った。自分が間に入って取り成すと。
ルーサーは宿舎の自室でぼんやりと考えた。就寝前だというのに眠気はまるで訪れない。ベッドの縁に腰かけながら膝と肘を合わせるようにして項垂れていた。
オルグレン卿は今まで見たどんな時よりも激昂していた。今度ルーサーの顔を見たら息の根を止めかねない勢いだった。キアランに任せて大人しく待った方がいい――それはわかるけれど、気持ちがそうさせてくれなかった。
自分のことだ。自分の望みを通すのに、キアランに頼って待つだけでいいのかと。
何故、オルグレン卿にあんなにも失望されてしまったのか、まずそれがわからない。まだ若輩で、至らないところの多い身ではあると思う。けれど、あまりに唐突すぎて――と、そう思うのはルーサーだけで、思えばエリィも怒っていた。ルーサーが不甲斐ないと。
オルグレン卿に失望されて昇進に響くだとか、今はそんな先のことまでは考えられない。
ただ、オルグレン卿の許可がなければプリムには近づくことすらできない。あんな別れ方をして、そしてそのうちに他の誰かとプリムが婚約し直したという噂を耳にするのだろうか。遠目に、彼女が他の誰かのそばに寄りそう姿を眺めるしかないのだろうか。
それは嫌だと、どうしても受け入れられないと思う。
プリムは婚約破棄の常習犯だ。外野にはまたかという程度で受け入れられてしまうのだろう。
けれど、始まりはどうあれ、ルーサーの心はすでに彼女にある。あどけなさを残した顔立ちに精一杯の強がりを見せる彼女が、今では間違いなく特別なのだ。
どうしたらいいのか、上手い手立ても浮かばず、眠ったのだか眠っていないのだかわからないままに朝を迎えた。
それでも職務は全うせねばと、ルーサーは騎士の制服に身を包み、そうして巡回に向かうべく朝会にて打ち合わせをしていた。二人一組、隊の三十人ほどが宿舎の前に集まっていた。キアランはその中で一度ルーサーに苦笑して見せた。他の皆はオルグレン卿のあの剣幕を目の当たりにしたせいか、ルーサーとの距離を計りかねているようだった。皆が腫れ物を扱うようにルーサーに接しているのを感じた。
「――以上だ。巡回後に各々報告を怠らぬように」
上官の声に、皆が野太く返事をする。散り散りに城下へと向かって行く中で、ルーサーもキアランと並んで歩きながらつぶやいた。
「悪いな」
キアランまで悪く思われやしないかと心配になる。
すると、キアランはなんとも複雑な面持ちになった。
「まったくだ。こうこじれたのはお前も悪いんだからな」
「俺の何がいけなかったんだろう? 実は、彼女の弟にも叱られたんだ」
「お前の言動が誤解を招くことを、お前が理解していないのが悪い」
キアランの言葉の意味をルーサーなりに考えたけれど、どの辺りを指しているのかがよくわからなかった。こんな自分はやはり愚かなのだと思う。
皆の目があるところでは話しづらく、敷地の外へ出ると、塀で囲まれた門の外に供も連れずに一人でぽつりと儚げに立つメルディナがいた。日除けのつばの広い帽子が彼女の顔に影を落としている。清楚な白いワンピースは彼女にとてもよく似合っていた。ただ、何故そこにいるのかが謎だった。
「ルーサー様!」
メルディナはパッと顔を輝かせて駆け寄って来る。その時、キアランがルーサーの肘を力強くつかんだ。仕事中だから私用は慎めと言うのか。
一度ルーサーを見上げると、メルディナは震える両手を胸の前に添えてつぶやいた。
「あの、あれからプリムローズ様とどうなってしまわれたのか、それが気がかりで……。わたくし、もうどうしてよいのやら……」
どうやら、プリムとこじれたのではないかと心配してくれたようだ。気の優しい女性だとほんのり思う。
通り過ぎたはずの同僚たちもいつの間にか戻って来ていて、ルーサーの動向に目を向けていた。ルーサーというよりも、メルディナのような令嬢がここにいることが不思議なのだろう。
実際、プリムとはこじれているのでなんとも言いづらい。
話を変えたいけれど、メルディナと何を話していいのか困る。そう考えて、ふとひとつだけ思い当たった。だからルーサーは率直に訪ねることにした。
「そういえば、プリムの話というのはどういった内容だったのでしょう?」
「え?」
「プリムのことで話があるとあなたは仰った。そのお話というのをまだお聞きしていないと思いまして」
メルディナはルーサーがそうした質問をして来たことが意外だったのか、とっさに反応しきれずにいた風だった。そこから慌てて会話を続ける。
「あの、それは……ルーサー様にお訊ねしてみたかったのです。本当にプリムローズ様のことをお好きなのかどうかを。オルグレン卿に命じられてのことで、ルーサー様が望まれたことでないのだとしたら、わたくしにもまだ希望が残っているのかと――」
語尾は涙声でかすれて消えた。顔を背けてうつむいた細い肩が小刻みに震えている。周囲がざわついた。それでも、彼女は言った。
「わたくしは――」
「メルディナ様」
ルーサーはその言葉を遮るようにして口を開く。メルディナはハッとして顔を上げた。美しい瞳に涙が煌く。その瞳に向けてルーサーはささやいた。
「とても……」
「はい?」
メルディナはきょとんとして小首をかしげた。
「いえ、プリムのことを好きなのかとお訊ねになったでしょう? ですから、とても、とお答えしたのですよ」
それがルーサーの正直な気持ちである。自分から訊ねたことのはずなのに、それがメルディナの聞きたかった答えではなかったのだろうか。メルディナの唇が震えた。
「わ、わたくしとまたお会いして下さると約束して下さったのは――」
「あなたがプリムのことで話があると仰ったからですが?」
ルーサーにしてみれば不思議なことなどひとつもない。メルディナにとっては違ったのだろうか。
すると、メルディナは両手に顔を伏せて泣き出し、これにはさすがにルーサーもうろたえた。何故ここで泣くのかがまるでわからない。女心など自慢ではないがルーサーにはまるでわからないのだ。慎重に気遣っているつもりが、一番大切なプリムにさえ伝わらないのだから。
「わたくしはあなた様をお慕いしておりますのに、どうしてそんな惨いことを仰るのですか?」
指の隙間から弱々しい声が漏れ聞こえる。ざわざわと周囲の声の方が大きかったくらいだ。
ルーサーが耳を疑ったのも無理はない。そんな風に思われるほどの接点が彼女とあっただろうか。
思えば、ルーサーはいつもそうだ。ずいぶん後になってから、あなたのことが好きだったのに、と女の子に告げられる。いつも過去形なのだ。一向に気づかないルーサーに愛想を尽かし、別の相手に心変わりした後で笑い話として教えてくれる。
ルーサー自身がその子たちに特別な思い入れがなかったせいもあり、深く考えたことはなかったけれど、そうした自分は本当に大切な人ができた時にも同じことをしてしまうのだ。
そこでようやく、ルーサーは気づいた。
婚約者であるプリム以外の女性に気持ちを向けられるなどとは、自分自身考えたこともなかったけれど、プリムはどうなのだろう。自分がいくら他の女性をそういう目で見ていないとしても、プリムがそれを理解してくれただろうか。
もしかして、プリムがメルディナと話しているうちに、ルーサーが心変わりをしたのかなどと疑われたのなら――。
ここでルーサーが曖昧な態度を取って、それがプリムの耳に入れば、もしかするとプリムは悲しい気持ちになるかも知れない。すでに、あんなヤツは願い下げだからくれてやると思っていなければの話だけれど。
――こんな時にでもルーサーの脳裏に母の声が蘇る。
どんな時でも女性に恥をかかせるな、傷つけるな、と。
こんなに人目のある場所で彼女の気持ちを振り払ってしまえば、彼女は恥をかくだろう。男なら、自分の気持ちに疚しささえなければ、多少の恥くらい堂々と受け止めればいい。けれど、女性の柔らかい心には傷もつく。女性が気持ちを伝えるというのは相当な覚悟の上でのことだと思う。
ルーサーの何をどう気に入ってくれたのかはわからないけれど、人の気持ちを無下にしてはいけない。
ただ――。
心にもないことは言えなかった。それから、間違ってはいけないことがひとつ。
ルーサーにとって特別なのはプリムだけである。
メルディナを気遣ってプリムを傷つけるようなことになったらと思うと、ルーサーはなり振り構ってもいられなかった。心の中で、言いつけを守れないことを亡き母とメルディナに詫びた。
「私は、プリム以外の女性のことは考えられないのです。申し訳ありませんが、ご理解下さい」
せめて嘘はつかない。誠意を持ったが故の言葉としてそれを言った。
もう、婚約者ではないくせにと言われるかも知れないけれど、それでもそう簡単には諦められないから。
クスンクスンと泣いていたメルディナから、ボソリと低い声が聞こえたような気がしたけれど、外野がうるさかったからその声と混ざったのだろう。
ルーサーは丁寧に頭を下げてメルディナの隣をすり抜けた。ついて来たキアランがパンパン、と何度もルーサーの背中を楽しげに叩いた。




