42✤Primrose
気を失っていたプリムが意識を取り戻したそこは、柔らかなベッドの上であった。
「う……」
鈍く疼く頭を押えて起き上がろうとすると、柔らかなベッドに沈み込んで上手く起き上がれなかった。肌触りのいい、大きなベッドである。しかし、ここがどこかということに想像をめぐらせると、プリムはひゃあと奇声を発し、跳ねるようにして起き上がった。
魔王の部屋だったりしたらどうしようかと。
心臓がぎゅっと縮み、荒く息をしていると、そんなプリムに魔王のものではない声がかかった。
「気がつかれましたンデスネ、コーネリア様」
かすれているけれど、落ち着いた口調である。暗いながらもほんのりとしたランプの明かりがあり、プリムはゆっくりと室内を見回した。薄紫の壁にシンプルな調度品、思ったほどにはおどろおどろしさのない、上品な部屋である。プリムがぼんやりと目を向けた先、マントルピースの横に黒い塊がいて、その塊がプリムに声をかけたのだと気づいた。
「ご気分イカガですか、コーネリア様?」
バサ、と片方の羽で羽ばたく。手がないのだ。燕尾服の袖の部分からは羽の先っちょが見えている。手のように袖に羽を通した幼児くらいのでっかいカラスがいた。目だけは金色で、襟に金の鎖なんてつけて多少オシャレだった。
「あ、あなたは?」
ベッドの上からおずおずと訊ねると、カラスは恭しくお辞儀をした。
「マルファスと申しマス。以後お見知りオキ下さいまセ」
「…………」
かれた声に時々妙な高音が混ざるけれど、聞き取り難いというほどでもない。
無害そうだけれど、これでも魔物だろう。プリムは警戒しつつ、それでも情報を得るためには会話しかないと思い口を開いた。
「マルファスさん、あなたは魔王の部下ですの? その、魔王はどこに……」
「マルファス、とお呼び下サイ。ワタシはチェザーリ様のお世話係でごザイます。チェザーリ様は公務を放り出したのデ、今は大臣たちにコッテリ叱られてマス」
それはもう正直に答えてくれた。いいのか、それを教えてもと言うほどに。
すると、マルファスの金色の瞳が笑った気がした。
「よくアル話です」
よくあるのか。
プリムが心で突っ込んでいると、マルファスは更に言った。
「ええと、コーネリア様をお待たセしてしまうので、モシ目覚められたら、ソノ間ワタシが話し相手をしてオケと仰せツカリましたンデ」
可愛いと言えなくはないカラスだ。見るからに怖い魔物よりはプリムを怖がらせないで済むと魔王なりの人選(?)なのだろう。プリムは少しだけ肩の力を抜いた。
そうして、マルファスに問う。
「わたくし、コーネリアとしての記憶がございませんの。マルファスはコーネリアを知っていたのかしら?」
大した質問ではなかったはずなのに、マルファスは翼の先を眉間らしきところに当て、フゥ、とくちばしの先から細くため息をついた。
「それはデスネ、またオイオイ。まあ、チェザーリ様にお訊ネ下さった方がイイカト」
なんだろう。緘口令か。
では何を話したらいいのやら。プリムは困ってしまった。
すると、マルファスは鳥らしく首を忙しなく動かしながら言った。
「まあ、暇ツブシに、例えばコーネリア様が暴きたいニンゲンの秘密でもあればお見せしますケレド」
さすが魔物だ。暇つぶしにしてはえげつないことを言い出した。
「暴きたいって……」
「ニンゲンのなら、ワタシたちに害はないノデ、いくらデモ」
けろりとそんなことを言い放つ。スキャンダルを求めるお喋り好きのご夫人だったら大喜びしそうだが。
生憎とプリムにその趣味はない。ため息をつきつつ断ろうとした。その時、ふと気づいてしまった。メルディナのことを訊ねてみようかと。
彼女の心が清く、本当にルーサーのことが抑えられないほどに好きだと言うのなら、悲しいけれどプリムは少しだけ救われるかもしれない。この人になら、と。
「……メルディナ・ヴィンゲートという令嬢のことが知りたいですわ。教えて下さるのかしら」
他人を覗き見る、それは少しも褒められたことではなく、プリムには疚しさしかなかった。けれど、知りたいと思う気持ちは罪悪感を押しのけるほどに強かった。
「畏マリましタ!」
マルファスは嬉しそうに答えて、燕尾服の下にどう隠し持っていたものか、カボチャほどの大きさの水晶玉を両羽の先で押し頂いた。――が、つるりと滑ってそれを落とし、割れなかったが転がったので、それを追いかけて転がしながら戻って来た。羽であんなに重たいものは持てないと思う。
「あなた、その羽では持ちにくいのではなくて?」
一生懸命にベッドの上に水晶玉を乗せたマルファスに思わず突っ込むと、マルファスはくちばしをカチカチ鳴らして言った。
「持ちにくいナンテものジャないデスヨ。ワタシ、普段は人型なのデス。それが、チェザーリ様がコーネリア様が落ち着くマデはそのままでイロと」
やはり、魔王なりに気を遣ってくれたようだ。それくらいでほだされたりはしないけれど。
サテサテ、とマルファスはつぶやくと、羽の先で水晶をバサバサ、と叩いた。
「メルディナ、メルディナ、メルディナ・ウィンゲート、と」
このマルファスを見ていると悲壮感が薄れて行く。ここは魔王の城の中なのだろうけれど、そんな気がしなくなって来る。
本当にあんなので見えるのかとプリムはあまり信用していなかった。けれど、水晶球にはくっきりと彼女の姿が映し出されたのである。
そこは彼女の屋敷なのだろう。白い机と椅子のある庭園の中で詩集を開く彼女がいた。
『メルディナ、また求婚の手紙が来たよ。アーヴィング卿のご子息からだ』
そう言った身なりのよい紳士は、メルディナの父親だろう。髪の色や目元が少し似ていた。メルディナはぱたりと詩集を閉じた。
『まだ娘に結婚の意志はないようだとはぐらかしておいて下さいませ』
『ああ、わかっているけれど一応知らせておこうかと思って』
父親は笑顔で手紙を握り潰した。メルディナは何も言わない。
『格下の座天騎士の息子に嫁いだところでお前にも私にもなんの得もないものなぁ』
『ですけれど、まだ利用価値はありますので、ハッキリ返事は致しませんわ』
プリムが耳を疑った瞬間であった。けれど、二人の会話は続いて行く。
『熾天騎士の子はすでに妻帯している者がほとんどで、オルグレン卿のところの長男では少々幼すぎる。まあ、せめて同格の智天騎士のところが妥当だな』
『そのオルグレン卿のところのご令嬢プリムローズ様がご婚約なさいましたけれど、お父様はどう思われますか?』
落ち着いた目を静かに父親に向けながらメルディナはそう言った。
プリムはドキリとして目を瞬かせる。ウィンゲート卿はフン、と鼻で笑った。
『部下の若造で、父親は座天騎士止まりで退役したというじゃないか。オルグレン卿があの程度の若造で手を打つとは意外だった』
あの程度とはひたすらに腹が立つ。
メルディナはようやく父親ににこりと微笑んだ。
『お父様、わたくし、あの方がとても気に入りましたの』
『は?』
『ルーサー・アーミテイジ様ですわ。逞しくてとても素敵な殿方でしたもの。オルグレン卿に見込まれたのですから、優秀な方のはずですわ』
ウィンゲート卿は苦りきった表情を浮かべてつぶやく。
『……また悪い癖が出たな』
『あら、仰っている意味がわかりませんわ』
にこりと微笑むメルディナ。彼女の方が父親よりもゆとりを持ってその場にいる。
そんな娘にウィンゲート卿はわざとらしくため息をついてみせた。
『お前はすぐに人のものがほしくなる。そのくせ、すぐに飽きる。いや、最初から掠奪するその瞬間だけが喜びであるのか。すべてはそのためでしかない』
『娘になんてことを仰るのですか。わたくしはその都度この方こそはと思うだけですわ』
『しかし、オルグレン卿に目をつけられるようなことはさすがにやめておけ。後々が厄介だ』
それを聞いた途端、メルディナは冷ややかな目を父親に向けた。社交場で麗しく儚げに咲く花のようにしている彼女とは別の顔である。
『あら、常にわたくしは何も悪くございませんのよ。殿方が勝手にわたくしを愛してしまうだけですの。わたくしを悪く思われる方なんていらっしゃいませんわ』
『よく言う……』
『そもそも、お父様はオルグレン卿に代わって熾天騎士になろうという気概はございませんの? オルグレン卿をよく思われておられない方もいらっしゃるでしょうに』
『恐ろしいことを言う娘だな。まあ、いずれはだな……』
『わたくし、テイラー卿とラッセル卿も熾天騎士の座を狙っていると見ておりますのよ。あの狡猾な方々にオルグレン卿の力もそのうち殺がれると思いますの』
『……お前というヤツは』
呆れているのか感心しているのかわからないような声だった。
プリムは父娘のその会話に薄ら寒さを覚えた。けれど、プリムの父の方は心配要らないだろう。そんな程度の野心家たちに潰されるほど弱い存在ではないのだ。
ただ、ルーサーのことは馬鹿だと思う。
プリムも彼女の本性なんて見抜けなかったのだし、メルディナが上手いのかも知れないけれど、それでも馬鹿だと思う。いい気味だと言いたいような、それでも純粋なルーサーが傷つくのは少し憐れなような、プリムは複雑な心境だった。
そこで父娘の光景に影が差した。マルファスの羽が水晶玉に覆い被さったのである。マルファスが水晶玉を磨くようにして羽を揺らすと、羽を退けた瞬間に、水晶玉の中の光景は変化していた。
メルディナのドレスが変わっている。そのドレスには見覚えがあった。あのドレスを着たメルディナに社交場で会ったことがあるのだろう。
メルディナは帰宅する馬車の中で両親に向けて微笑んだ。
『今日、ルーサー様とお近づきになれましたの。またお会いして下さいますかとお訊ねしたら、あっさりと承諾して下さいましたわ。呆気ないくらいにあっさりと』
その勝ち誇ったような声に、プリムの心はギリ、と痛んだ。
ウィンゲート夫人はというと、宝石を星屑のようにちりばめた扇で顔を扇ぎつつ、ふぅと嘆息した。娘と似たところはあるけれど、一見してあまりいい印象は受けない。家族しかいない場なので気を抜いているのだろう。
『オルグレン卿のご令嬢は大層お美しいと評判でしたけれど、あれは厚化粧のなせる業ですわ。少し見ればおわかりでしょうに、皆さん騙されて愚かなこと。化粧を落とした素顔なんて、きっと見られたものじゃございませんわよ』
ホホホ、と楽しげに笑う。
――実際、厚化粧なので何も言えない。言えないけれど腹は立つ。
メルディナはうぅん、と可愛らしく小首をかしげた。
『もしかすると、その素顔をご覧になってガッカリされていたのかしら。ルーサー様ったらあっさりひっかかりすぎですわ。あれではわたくし物足りないかも……。とはいえ、最後まで気は抜けませんけれど』
ホホホホ、と笑い合う母娘を父親は少々呆れた目をして眺めていた。
しかし、自分も令嬢を演じて来た。本来の自分とは違う、作り物の令嬢と思って来たけれど、メルディナもまた作られた令嬢である。
女はバケモノだと、このメルディナの高笑いを聞いたらルーサーも気づくだろうか。
少し遅いかも知れないけれど。




