41✤Primrose
――あの男を消し去る。
あの男とは、ルーサーのことだろうか。他に思い当たるはずもない。
プリムはその長い手紙を手に愕然とした。そうして、指先まで震えた。心臓がきつくつかまれたように縮み上がる。恐怖が体中を支配した。
魔王はルーサーを消すという。
ルーサーとは婚約を破棄したいとプリムが父に願い出たのを聞いただろうか。聞いていてくれたならルーサーは無事でいられると思うけれど、このところルーサーのことで泣いてばかりいるプリムの様子も魔王は見ていたのだとしたら――。
このまま時が経ってプリムを迎えに魔王が来たとして、プリムはルーサーに心奪われたままだと気づかれるだろう。その時、魔王はプリムの未練を断ち切るために、本当にルーサーを消そうとするのではないだろうか。
そのことに思い至ったら、プリムは体から力が抜けてその場にへたり込んだ。
とても優しかったけれど、心変わりした人。他の女性が好きな人。
けれど、だから死んでしまえとは思わない。本当に死んでしまったら、プリムは今よりももっと苦しい思いをする。そんな思いをするくらいなら、どんなことだってできるような気がした。
それなら、泣いている場合ではない。
プリムは拳を握り締め、しっかりと脚に力を込めて立ち上がった。赤い石のペンダントを決意を込めて首から下げた。その途端、そこに心臓が移ったような奇妙な感覚がした。
それから机の上の手紙と贈り物の数々をオモチャ箱にすべて詰め、家族に置手紙をした。
探さないで下さい、と。
腰のリボンに杖を引っかけ、それからプリムは部屋を出た。自分の生まれ育った屋敷だから、抜け道なんていくらでもある。プリムは使用人たちにも挨拶をしながら堂々と歩いた。そうしていたら皆変には思わない。中庭に下り、そこから庭師たちの使う出入り口を使った。彼らは通いだから夕方にもなると帰っていない。夜だと明かりがないから通りにくい道だけれど、夕方なら楽に通れる。
屋敷の外でという但し書きがあったのは、屋敷には父が施した防壁があり、会いに来るくらいはできてもプリムを連れて通れないということだろうか。
屋敷の外壁から離れ、プリムは薄暗い路地裏を行く。一度だけ我が家を振り返り、そうして諦めた。
「……チェザーリ」
かすれた小さな声でそう呼んだ。こんな声ではどこにも届きはしないと思うのに、大きな声が出なかったのは、やはりプリムが彼を恐れるからだ。
六歳のあの日から一度も顔を合わせていない。恐ろしさだけが雪のように積もってプリムの心を埋め尽くしたのだ。それでも、その魔王がルーサーを消そうとするのなら、会うしかない。
あんな声で呼んだくらいで魔王に届くはずがない。プリムにはなんの変化も訪れなかった。
もっと大きな声を出せということだろうか。
プリムは恐る恐るペンダントトップに触れた。赤い石を軽く持ち上げると、その石は僅かに自身が光を放っていた。
「あれ?」
さっきはこんな光り方をしていなかった。ゾッとしてプリムが肩を抱くと、その時、プリムの目の前の細い路地に赤い光が浮かんだ。プリムがその光を凝視すると、光は見る見るうちに人型になった。その人型の光が消えた時、中から現れたのは――。
フサ、と豊かな髪束がプリムの目の前で揺れた。闇夜のようなマント。薄暗い路地裏だというのに、その双眸は赤く煌いてプリムを捕らえた。美しく整った顔立ちに微笑を浮かべている。
「あ、あ――」
口元を押えて、プリムは震える足で後ろに一歩下がった。すると、彼は急に人懐っこく微笑んだ。
「コーネリア、まさか君が本当に私を呼んでくれるなんて! 君の気が変わらないうちにと公務を放り出して駆けつけたよ」
部下に迎えに行かせるのではなく、魔王自らがやって来たと。仕事を放り出して。
プリムにはまだ、いきなり魔王と対峙する覚悟がなかった。迎えの手下と会い、手順を踏むうちに覚悟をしようと思っていた。だから現れた魔王を前に、プリムはガタガタと震えて言葉が何も紡げずにいた。
そんなプリムに、魔王はズイ、と歩み出た。
「コーネリア、その、約束は十年だったけれど、君が私を呼んでくれたということは、このまま君を連れ去ってもいいということだろうか」
それはそれは嬉しそうに、魔王は弾む声でそんなことを言った。けれど、プリムは返事をしなかった。
ルーサーに手を出すなと言えば、魔王はルーサーを逆に消そうとするかも知れない。何も言わず、ただ魔王のそばにいればルーサーは安全に過ごせる。
プリムは自分でも思っていた以上に、あの赤い瞳が恐ろしかった。足がすくんで声も出ない。無意識のうちに涙が目に溜まって行く。けれど、やっとの思いで首を縦に振った。
魔王が目の前でほっと息をついたのがわかった。そういうところは人間臭いと感じた。
「コーネリア」
コーネリアじゃない。プリムはプリムだ。
そんな風に呼んでほしくはない。
そうは思うのに、魔王の赤い一途な瞳はプリムを通してコーネリアだけを見つめている。
歩み寄った魔王の腕がプリムに触れた。腰を寄せるようにして小柄なプリムを抱き込む。ビクッと体を強張らせたプリムの顎に冷えた指を添え、上を向かせた。怯えたプリムの目が魔王の赤いそれと合う。
プリムは悲鳴を上げずにいるのがやっとだった。
「やっと願いが叶った。待った甲斐があったというものだ。もう離さないよ」
それはヘビに睨まれたカエルほどに絶体絶命の窮地である。
けれど、もう逃げ道はない。どんなに嫌でも、自分で選んだ未来のはずなのだ。
カクン、と膝に力が入らなくなって、そうして、そこからの記憶がない。
恐ろしさのあまり意識を手放してしまったのだと気づいたのはもうしばらく後のこと。
気を失ったプリムを魔王は当然のように連れ去ったのだ。