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39✤Luther

 イングリスを産んで、そこから伏せることが増えた母。その母がそのまま起き上がることなく息を引き取った。人生でルーサーが初めて直面した現実の厳しさだった。

 底抜けの悲しみの中、母を亡くして消沈した父がささやいた。


「女性は時々嘘をつく。体はどうだと訊いたら、随分よくなったと言った。本当は不安があったはずなのに、私の仕事の邪魔になるとか先回りばかりした考えで我慢して弱音を吐かなかった。笑顔でそう、大丈夫だと。母さんは嘘つきだな。なあ、ルーサー、女性が口にした言葉が真実とは限らないんだぞ。顔で笑って心で泣いているかも知れない。自分の愚かさに気づくのは失ってしまった後だ。ルーサー、お前は間違えるなよ」


 いつも以上に小さく縮んで見えた父の背中。響きの弱い声。

 ルーサーは久し振りにそんな夢を見た。



 目覚めたのは宿舎の自室だった。飾り気のない、面白みのひとつもない部屋だ。ベッドのシーツにも敷物にもカーテンにも柄さえない。お前らしいと皆には言われる。

 現実は夢の続きではなかった。目覚めたのはゆったりと過ごした故郷の屋敷ではなく、今の自分は小さな子供でもない。


 身を起こすとベッドの軋む音がした。じわりと首筋にかいた汗をシャツの襟で拭い、小さく息をつく。そこから現実がルーサーに押し寄せるのだ。


 ――昨日、プリムの強がりな瞳は、自分に何を語ったのだろう。

 きつい言葉の裏に何が隠れていたのか。何ひとつ、ルーサーはわかってやれていない。


 エリィはルーサーが不甲斐ないと静かに憤っていた。

 多分、エリィが言うように、ルーサーの何かがいけなかったのだろう。気の利かない自分だから、いつの間にか自分でも知らぬうちにプリムを悲しませてしまったのかも知れない。

 今日こそはちゃんと会って話をしたい。仕事を終えたら真っ先に向かおう。何かがいけなかったのなら謝るから。



 早朝だけれど、目が冴えた。そのまましばらくベッドの上でぼうっと無為に過ごす。それからゆっくりと身支度を済ませ、ルーサーは出勤した。


 鍛錬のため、刃のない剣で丸太の的に打ち込みを続ける。皆が代わる代わるそれを行うのだ。下手に打つと手に鈍い衝撃が走る。いつもなら雑念を捨てて取り組むけれど、今はどうしてもプリムの瞳が脳裏から離れない。あの鋭く睨んだ双眸が今は泣き顔のようにしか思えなくなった。


 心配事もなかなか話してはくれない、そんな彼女だ。その心をどうして知った風なつもりでいたのだろう。

 ルーサーはプリムの謎の一端にも触れることができていなかったのに。



 カン、とひと際甲高い音が響いて刃のないはずの剣が丸太にめり込むようにして埋もれた。靴底で丸太を押えながらそれを外していると、視線に気づいた。オルグレン卿が鍛錬場の隅、宿舎の壁を背に立っていたのだ。皆もそれに気づいてざわついた。


 時々、部下の様子を見に訪れることはある。そうした時、誰もが身が縮むような緊張を覚えるのだ。教官ですら生きた心地がしないと言う。

 オルグレン卿はそれほどまでに険しい顔で皆を眺める。眉間の皺を深く刻み、威圧感を体現するような佇まいでそこにいる。けれど今日は何かが違った。オルグレン卿はその定位置から動いたのだ。皆がざわめいて数歩下がった。オルグレン卿はまっすぐにルーサーに向かって歩んで来たのだ。


 これは、もしかするととルーサーは身を硬くした。

 プリムがルーサーと婚約を破棄したいと言っていると。どうするつもりかと問われるのではないだろうか。

 そんなことを思ったルーサーは、エリィに言われたように不甲斐なく、愚かであったのだ。


 オルグレン卿は言葉よりも先に、自分よりも高い位置にあるルーサーの胸倉を無言でつかんだ。腕一本でも、体格のよいルーサーさえよろめくような力だった。ぐ、と首が締まる。それが苦しいと思うよりも、この時はまだ驚きが勝っていた。

 オルグレン卿は地獄の底から響くような低い声で告げた。


「娘との婚約の話はなかったものとする」

「っ……」


 とっさに何も言えないでいたルーサーを、オルグレン卿は片腕でねじ伏せるようにして、胸倉をつかんだままの拳を繰り出した。技で勝てるはずもなく、ルーサーはその場に叩きつけられ、丸太に頭と背中をぶつける形で止まった。その痛みと衝撃に頭が朦朧としつつも、そこからオルグレン卿を見上げた。揺れる視界の中、オルグレン卿は怒りに満ちた声で吐き捨てる。


「私の見込み違いだった。お前のような男に娘はやらん」


 オルグレン卿の剣幕に、周囲の誰もが縫い止められたように固まっていた。ルーサーに対する、オルグレン卿の怒りも失望の色も、ルーサーにははっきりと受け取ることができたけれど、それでもここで引いてしまったらプリムには二度と会えないのかと、その想いがルーサーを突き動かした。


「あの、どうか理由を――っ」


 とっさに立ち上がったルーサーは目の前が眩んだ。さっき、頭をぶつけたせいだろう。前のめりに倒れかかったルーサーを、キアランともう一人が支えてくれた。

 それでも、オルグレン卿は冷めた目を向けただけだった。


「話すことなどない」


 踏み出そうとしたルーサーにキアランが耳元で押し殺した声をかける。


「落ち着け。今は駄目だ!」


 数人がかりで押さえつけられ、そうしている間にオルグレン卿が去ってしまうとルーサーはその場に膝をついた。絶望で目の前が眩む。キアランが慰めるようにルーサーの肩に手を乗せた。


「だから気をつけろと言ったのにな。……お前はしばらく待て。俺からオルグレン卿に話を通してみるから」


 キアランは当事者のルーサーよりもずっと訳知り顔でそう諭す。ルーサーは愕然として友人の顔を穴が開くほどに眺めた。キアランは、深々と嘆息する。


「お前は馬鹿だ。融通の利かない馬鹿。それは間違いない。でも、いいヤツだ。だからきっと大丈夫だ」


 慰めているのか、貶しているのか。

 それでもルーサーにはキアランの言葉がありがたかった。ぐったりと項垂れたルーサーは、今になって惨めな気分にもなる。それは不甲斐ない自分のせいだと言われたなら何も言えないけれど、自分の心にもプリムにも恥じ入るような行いはなかったと思うのに。


 一体どこで歯車は噛み合わなくなってしまったのだろう。


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