38✤Luther
それは穏やかで大人しい、極めて口数の少なかった母がいつになく饒舌だった日のこと。
イングリスが腹の中にいて、ルーサーはその産まれる間近の母の腹を何度も摩っていた。長男のルーサーが一番母の手伝いをできると意気込んでいた時期だ。
母は柔らかな微笑を称えつつ、安楽椅子に身を委ねながら優しくささやいた。
「お父様はね、とても紳士で、女性には特に優しい方なの。あなたもね、そういう男性になりなさい。どんな女性にも恥をかかせたり無闇に傷つけたりすることのない大人の男性にね。女性は大切にすればするほど、あなたを幸せにしてくれるから、あなた自身のためにもそうなさい」
その時は意味もよくわからない子供だった。けれど、ルーサーは素直にわかったと返事をしたことを覚えている。母に褒めてほしかったからだ。
母の言葉は母が死した後もルーサーに根づき、頻繁に思い出すこともなくなった今になって不意に蘇る。無意識のうちにも自分はその言葉に従っていたのだと――。
プリムとメルディナが二人でバルコニーにいた。意外な取り合わせではあるけれど、仲が良さそうな雰囲気は一切なかった。
何があったのかも知れない、とさすがにルーサーも不安になるほどの空気だった。
「プリム?」
そう呼びかけると、プリムはキッと刺すように鋭くルーサーを睨んだ。その眼光に、ルーサーは思考が固まってしまった。そこにあったのは、出会った頃のような距離感だ。思いきり突き放されたような気分になる。親しみは、そこには少しも表れていなかった。
美しく冷たく、高貴な令嬢の仮面を被ったプリムはルーサーにではなく、メルディナに刺々しく言葉を放つ。その姿は、真冬に狂い咲いた薔薇のようだ。
「あなたはご自分が悪かったと仰いますけれど、本心では少しもそんなことお思いではないのでしょう? 口先だけの謝罪など結構ですわ」
とてもごく普通の令嬢が受け止められるようなものではなかった。素顔のプリムとはまるで違う冷徹さがそこにあった。
メルディナがわっと顔を手で覆って泣き崩れたのも無理はない。女性の涙は見たくない。それに加え、彼女を泣かせた相手がプリムであるのがルーサーには苦しかった。
「プリム、何があったのでしょうか? メルディナ様が何をしたと?」
とにかく、まずはわけを知りたい。仲違いも時には仕方のないことではある。ただ、プリムが否のない相手を苛めているとは思えない。プリムの言動はいつも不可解だけれど、それはいつもプリムなりに筋の通ったことであるのだと思うから。
階段を上るルーサーに目もくれず、プリムは階段を駆け下りた。苦手なヒールだというのに、こういう時には転ばない。転んでたまるかという意地の表れのような気もする。
「プリム!」
ルーサーが呼んでも、プリムは立ち止まってくれない。とっさに伸ばした手も、触るなとばかりに振り払われた。そんな彼女の仕草に傷ついてしまうのは、それだけプリムに惹かれているからだ。
けれどここで呆けている場合ではない。ルーサーはそれでもプリムの後を追おうとした。ただ、踏み出したルーサーの肘の辺りを抱き込むようにして、泣いていたメルディナがすがりついて来た。ひく、と肩を震わせている。
ルーサーをこの場に呼んだのはメルディナである。わざわざ手紙をくれた。友人だというアーヴィング卿の子息を通して招待状も来た。重要な用事があるのだと。
「メルディナ様、あの……」
やんわりと声をかけると、メルディナは更にルーサーの腕を締めつけて泣いた。
「ごめんなさい、もう少しだけこのまま……」
か細い腕。ルーサーなら簡単に振りほどくことができる。
けれど、それをすれば彼女を壊してしまうような気がした。女性は脆くて、力加減の上手くないルーサーは傷つけることを恐れて動けなくなる。
不意にまた、母の言葉が蘇る。
女性に恥をかかせたり傷つけてはいけないと。そうした男になれと。
今、メルディナがルーサーの腕にすがりついたのは、それだけ心細さを覚えたからなのだろう。それを振り払えば、恥もかかせるし傷つけもする。
だから、振り払えなかった。
「……すみません。あの、プリムの言動があなたを傷つけたのなら代わって詫びます」
プリムの言動でメルディナが傷ついてるのは事実なのだろう。けれど、それでもプリムを悪くは思ってほしくない。本当は優しいプリムだから、それを知っているルーサーがその責めを負えたらと。婚約者として盾くらいにはなれたらいい。
メルディナはゆるくかぶりを振ると、悲しそうにルーサーに泣き顔を見せた。
「ルーサー様は本当にお優しくていらっしゃるから、わたくしは……」
そうしてまたハラリと涙を零した。
その涙に動揺しつつも、ルーサーは早く手を離してほしいと願ってしまった。
プリムのところへ行きたい。プリムに何があったのか、話をしたいのだ。その時間が少しずつ削られて行くばかりである。
ルーサーは心底疲れた。
ざわざわと人が集まって来て、それでようやくメルディナはルーサーの腕を放してくれた。ほっとしてルーサーはひと言挨拶を残してその場を去った。馬車に飛び乗ると、オルグレン邸へと急がせた。
早く早くと気は急く。
それほど時間がかかったわけでもないのに、ルーサーにはひどく遠く感じられた。
オルグレン邸の入り口に馬車をつけ、階段を駆け上がると、その先の踊り場にエリィが一人ぽつりと佇んでいた。
月を背に、そこにいる。細い手足の伸びた影が階段に長く落ちていた。フ、と風が吹き、エリィの金髪とリボンタイを僅かに揺らす。
ルーサーが下段からエリィを見上げると、暗がりになったエリィの顔はほとんど見えないというのに、何故かエリィはいつものように微笑んでいると思った。
「ルーサーにいさま」
平素と変わらぬ無邪気な声がルーサーを呼んだ。たったそれだけのことにルーサーはひどくほっとした。
「エリィ。プリムは戻っているかい?」
なるべくそっと問う。こんな時間だ。エリィは眠たくはないのだろうか。
やはり無邪気で楽しげな声が降る。
「うん。帰って来てるよ。でもね、今日は駄目だよ」
「え?」
ルーサーは耳を疑った。幼い声は、それでも毅然と薄闇に響く。
「今日はルーサーにいさまには会わせてあげないよ」
「エリィ……」
プリムがルーサーに会いたくないとエリィに告げたのだろうか。きっかけがなんであったのか、それがルーサーにはわからない。それは突然にしか思えなかった。
呆然としてしまったルーサーに、エリィはそれでも言った。
「僕はプリムねえさまの一番の味方だからね」
子供らしく癇癪を起こすこともない、それは淡々としたものであった。けれど、明らかに滲み出るものがある。
「……怒っているのか、エリィ?」
それを問うた瞬間に、エリィはその小さな体に、父親にも引けを取らぬような威圧感をみなぎらせた。ルーサーの気のせいとは呼べないほどの気に圧倒されてしまう。
「当然だよ。ルーサーにいさまが不甲斐ないからいけないんだ」
冷めた物言いに青い炎のような熱がある。幼いながらにその血筋を感じさせた。普段はそれを押し込めて、周囲が望む子供を演じている、そんな風にさえ思えた。
「じゃあね。おやすみ」
背を向けて屋敷に戻るエリィの小さな靴音を、ルーサーは絶望的な心境で聞いていた。
自分が置かれている状況が、ルーサーには上手く読み取れなかった。それがただ恐ろしかった。




