37✤Primrose
プリムなりに噂ばかりを信じてルーサーの言い分を聞かないのもいけないとは思う。ただ、どうしても面と向かって婚約破棄を言い渡される勇気がない。最初はそればかりを願っていたのに、いざとなったら恐ろしくて仕方なかった。
それでも、と自分を奮い立たせて今夜のアーヴィング卿の邸宅で催される夜会にも足を向ける決意をした。メルディナをよく知っているわけではない。一度ちゃんと話してみようと思ったのだ。
社交場が嫌いなプリムが連日続けて出向くと言い出したのには両親共に不思議そうではあったけれど、まあ年頃になってその必要性を感じたのかと嫌な顔はされなかった。両親は義理で足を向けなければいけない相手が主催でもないと、招待されていても今夜は行くつもりがないらしい。プリムだけが出席するのだ。
精一杯、背伸びをした装いでプリムは出かけて行った。
華やかな音楽に少しも胸は踊らない。扇で顔の半分を隠しながらメルディナを探した。すると、数人の男女に囲まれて楽しげな声を上げている彼女がいた。白い小花があしらわれた淡いグリーンのドレスは彼女の魅力を十分に引き立てている。
そっとプリムが歩み寄ると、その場の誰もが緊張した面持ちで振り返った。メルディナもまた、そうであった。けれど、他との違いはすぐに笑顔を浮かべたことである。
「まあ、プリムローズ様。ごきげんよう」
麗しい、本当に楚々とした笑みである。女性でも見惚れてしまいそうだ。
「ええ、ごきげんよう。こうしてお話しするのは初めてですわね。よろしかったらわたくしとあちらで少しお話しして下さるかしら?」
プリムがそう言うと、周囲がざわついた。うるさい、とばかりにプリムは扇をパチンと音を立てて閉じた。その途端、外野はいっせいに静まり返る。
「え、ええ……」
と、メルディナは弱々しくうなずいた。口元で握り締めたこぶしは不安の表れだろうか。儚げという表現がよく似合う。こういう女性がルーサーのそばにいると、多分とても様になる。小さくて童顔のプリムよりもきっとよく似合う。認めたくはないけれど、多分――。
プリムが背を向けて歩き出すと、メルディナがついて来る気配があった。誰もが二人のことが気になって仕方がない様子だったけれど、あからさまについて来られるほど度胸のある者はいないようだ。
バルコニーの隅に、ホールの明かりが柔らかく届く。そこでプリムが振り向くと、メルディナはびくりと体を強張らせて立ち止まった。
プリムはそんな彼女をじっと見つめた。その心を探るようにして。
「まず、何からお話しましょうか。それとも、あなたからお話しして下さるかしら?」
刺々しい物言いになるのは、やはりルーサーのせいだ。今日はプリムが出席するとは伝えていない。主催者のアーヴィング卿とは隊も違うのだ。付き合いもなさそうなので、来ていない可能性の方が高い。
メルディナは、うるうると瞳を潤ませ、そうして大粒の涙を零した。それは演劇の一幕のようでさえあって、明かりに煌く涙は宝石のように彼女を美しく彩った。メルディナの涙にプリムは内心動揺したけれど、それを顔に出さないように努めた。
そうしていると、細々とした声が漏れる。
「わたくしがすべて悪いのですわ」
どくり、と心臓が跳ねた。うるさいほどに鳴りやまない。
メルディナの動きも声も、どこか遠くて緩慢に思えた。
「わたくしがあの方に恋してしまったばかりに……。あの方は何も悪くありませんわ。悪いのはすべてわたくしです。本当にごめんなさい……」
泣きながらも、繰り返すその声はゾクリとするほどに甘く、プリムの心はささくれ立った。自分にはこんな風に愛しげに語ったりはできないな、と。
この涙で艶めく瞳の先にルーサーが立つのかと思うと、プリムはどうしようもない虚無感を抱えた。
少し前まで、ルーサーはプリムをとても大切にしてくれていると思えたけれど、ルーサーは誰にでもああなのだ。プリムでなくとも優しく、女性なら尊重してくれるのだ。そこをプリムはわかっていなかった。メルディナもきっとわかっていない。それでも、彼女ならルーサーを繋ぎ止めておけるだろうか。
男性の心なんてプリムには所詮わからないのだ。もしかすると、魔王もさっさと心変わりしているのかも知れない。十年後なんて本当に来るつもりはなかったりしないだろうか。
けれど、魔王が来なくても、プリムのそばにルーサーがいる未来はないのか。
そう思ったら、泣きたいのはこちらの方だった。メルディナが泣くのは筋が違うのではないだろうか。
苛立ちが徐々に湧いて来る。プリムは涙を流すメルディナをただ眺めていた。
すると、今一番会いたくないルーサーが階段を上って来るのが見えた。仕事が長引いて遅れて来たのだろう。社交場なんて好きではないと言っていたのに、主催者との繋がりもないのに、やはり彼女に会いに来たのだろうか。
「プリム?」
まず、ルーサーは階段の途中でプリムに目を留めた。そうしてから、泣いているメルディナにゆっくりと顔を向けた。
これはプリムが苛めているという構図なのだろうか。間違ってもいないかも知れないけれど。
ルーサーがプリム以外の女性にも同じように優しいのだと気づけず、自分が特別だと思ってしまった。
今はその浮かれていた自分が惨めで、どうしようもなく恥ずかしい。
驚いた顔をしたルーサーをキッと睨みつけると、プリムはもう一度メルディナに顔を向けた。
「あなたはご自分が悪かったと仰いますけれど、本心では少しもそんなことお思いではないのでしょう? 口先だけの謝罪など結構ですわ」
自分の棘が自分の心にまで突き刺さる。言っていて、段々と惨めになってしまうだけなのに。
メルディナがわっと顔を手で覆って泣き崩れる。
「プリム、何があったのでしょうか? メルディナ様が何をしたと?」
いつになく厳しい顔でルーサーが残った段を駆け上がって来る。けれどプリムは二人が並んでいるところなど見たくはない。ルーサーを無視して今度はプリムが階段を駆け下りた。
「プリム!」
強めの口調で名を呼んで、ルーサーは手を伸ばした。プリムはその手を思いきり振り払った。そうして、戸惑うルーサーの顔を無言のままに睨むとそのまま階段を下りた。ルーサーは追って来なかった。一度でも瞬いたら涙が零れそうで、プリムは馬車に揺られている間もずっと上を向いていた。
邸宅に戻った途端、プリムは浴室へ直行した。もどかしいながらに複雑な仕組みのドレスを脱ぎ捨て、化粧を擦るように乱暴に落とし、そうして猫足の浴槽へ勢いよく浸かると、どうしようもなく涙が溢れてしかたがなかった。膝を抱えて嗚咽を噛み殺しながら、手足がふやけるまでそこにいた。
気持ちが少しだけ落ち着くと、プリムはネグリジェに着替えて自室に戻るのではなく父の書斎へ亡霊のような足取りで向かった。コツコツ、とノックをすると、まだ眠っていなかった父の声が返った。
「なんだ?」
「プリムです。お話があります」
「……入れ」
だらしない格好でうろつくなとか叱られるかと思ったら、プリムの顔が泣き腫らしてひどいことになっていたせいか、何も言われなかった。むしろ、父は椅子の上で身じろぎした。
「化粧品が合っていないのではないか? 目が腫れているぞ。嫁入り前の娘なのだから気をつけなさい」
父にしては珍しく、変な心配をされた。就寝前と言うこともあって、父も藍色のガウン姿だ。いつもよりは少しだけ雰囲気が柔らかく見える。プリムはしょぼつく目を父に向けてつぶやいた。
「お父様、お願いがあります」
そのひと言に嫌な予感しかしなかったのだろう。父は苦虫を噛み潰したような顔をしてプリムの言葉の先を奪った。
「婚約破棄は許さん。それ以外で言え」
プリムの願いはそれだけだ。
ルーサーのことを本当に好きだと気づいてしまったから、彼の心がプリムにないのにそばにいるのはひどく苦しい。それくらいならいっそ距離を置いてしまいたい。ルーサーから言われるのが苦しいから、プリムの方から破棄してしまいたい。最後までプリムは身勝手だけれど。
そんなこと、この父にはわかってもらえないだろうか。
プリムはぽろぽろと涙を零した。言葉が詰まって上手く言えない。プリムの泣き顔など珍しくもないはずの父なのに、今だけは様子がおかしいと思ってくれたのか、頭ごなしに叱ることはなかった。
涙を押し込めながら、プリムは一生懸命に声を出して訴えた。
「お願いします。……ルーサー様には他に想う方ができたのです。それがわかっていてそばにいるのはつらくて……」
ひく、としゃくり上げるプリムに、父は何も言わなかった。涙が滲むから、父がどんな顔で話を聞いていたのかもよくわからない。
だからどうしたと、それでも嫁げと言うのだろう。こうした苦しさは男の人にはわかってもらえないのか。プリムは更に悲しくなって書斎を飛び出した。それでも父は何も言ってくれなかった。
プリムは部屋に戻ってひたすら泣いた。




