32✤Luther
巡回や鍛錬も一段落ついて、ルーサーは日が暮れた後でようやくプリムのもとを訪れる。オルグレン卿が娘に顔を見せてやってほしいと言ってくれたので、気兼ねなく屋敷へ向かうことができた。
ただ――。
プリムは中庭で一人ぽつりとベンチに座っていた。髪をまとめていない姿を見たのは初めてで、それが何かとても新鮮だった。しかし、何かに思い悩んでいるような深刻な様子で、その姿はあまりに頼りなかった。
心配事があるのなら打ち明けてほしい。そう思っても、プリムは何も言ってくれない気がした。少しずつ歩み寄っている気はすれど、プリムの心にはまだ壁が確かに存在する。それを踏み越えられるのはいつのことなのか。手を伸ばしてもいいものなのか、ルーサーは計りかねるのだ。
遠くから眺めていたルーサーに気づくでもなく、プリムはベンチから立ち上がった。そうして、後ろのベンチをチラチラと振り返りながら少しだけ前に歩む。そこでまぶたを閉じて祈るように手を組んでいた。かと思うと、突然後ろに倒れ込んだのである。
まさかと思う彼女の行動に、ルーサーも踏み込むのが遅れた。少しの距離があり、プリムがベンチで思いきりよく後頭部をぶつけた後に駆け寄ることしかできなかった。
「プリム!」
急いで倒れた体を抱き起こす。小さく震えているのは痛みからだろうが、意識はしっかりとあるようで安心した。小柄なプリムはすっぽりとルーサーの腕の中に納まる。
「あ、や、大丈夫ですわ」
そんなことを言うけれど、涙目である。やはり痛いのだろう。
それにしても――。
「……自発的に後ろへ倒れたように見えたのですが、気のせいでしょうか?」
「気のせいですわ」
平然とそんなことを言う。
しかし、どう見てもわざとだった。とはいえ、なんのためにだか、それがさっぱりわからない。
プリムの柔らかな髪に指を通し、後頭部にそっと触れると、さっそくコブができていた。プリムは顔をしかめた。やはり、痛いのだ。
「あの、何か心配事があるのでしたら俺に話して下さいませんか」
「え?」
プリムには何かとても大きな心配事があって、それでいつも奇行とも思われるような行動に出ているような、そんな気がしたのだ。気のせいではないと思うのだが、プリムはルーサーの言葉に目を丸くした。かと思うと、とても悲しげな顔をした。
プリムがそういう表情を見せたことが今までにあっただろうか。ルーサーはぎくりとしたけれど、プリムは首をゆるく振っていた。
「今はまだ……」
「俺では頼りになりませんか」
思わずそう口に出した。まるで、関わってくれるなと言われたような気がしたのだ。それがどうにも切ない。
すると、プリムは驚いた様子だったけれど、うなずいた。そこで素直にうなずくかとルーサーは愕然とした。
「あなただけではありませんわ。わたくしは自分以外頼りにできないのです。いいのです、なんとかしてみせます」
どうしてそう頑ななのかとルーサーはもどかしくて仕方がなかった。こんなにも華奢な体で何をしようというのか。苛立ちにも似た感情が湧いて、ルーサーはプリムの柔らかな体を抱き締めた。驚いたプリムが小さく悲鳴を上げたけれど、それさえも腕の中に閉じ込めた。
「俺はプリムの力になりたいのです」
「そ……」
オルグレン卿ほどの父親さえも頼りにしないプリムだ。ルーサーなど頼れたものではないのだろう。けれど、そんな風に考えたら切なくなるばかりだ。プリムに寄り添うためには恐れていてはいけないと、思いきって踏み込んだ。
プリムからの返答はなかった。ないと思ったら、腕の中でかなり苦しそうにもがいていた。息が詰まったのだとルーサーがようやく気づいて腕をゆるめると、プリムは荒く呼吸を貪っていた。さすがに申し訳なくなる。加減というものを上手くできていない。このシチュエーションだというのに、甘い空気になどならなかった。
軽く咳き込みながらプリムは涙を浮かべて、そうしてからつぶやいた。
「お気持ちだけ頂いておきますわ」
「っ……」
もどかしさが込み上げるけれど、プリムはゆっくりとかぶりを振った。それが拒絶なのかと、ルーサーはどうにも苦しくなった。けれど、プリムはそっとルーサーの右手を小さな両手で包み込む。表情は目を奪われるほどに柔らかく、優しく微笑んでいた。
「ルーサーの気持ちがわたくしを奮い立たせてくれましたから。わたくしも諦めずにがんばります。……そうですわね、落ち着いたらいつかはお話しますわ。その時にはきっと笑い話にできますもの。そうした時が無事に来るように祈っていて下さいませ」
何かをしたいと思うけれど、ルーサーにはどうしたらいいのかわからない。だからせめて、とルーサーもプリムの手を握った。
「いつでも頼って下さい」
それを言うと、プリムは困ったように、けれど少しだけ嬉しそうに笑った。
「ええ。ありがとうございます」
少しずつ、本当に牛の歩みほどだとしてもプリムとの距離は縮んでいるのだと思いたい。
ただ、ルーサーなりにプリムの伴侶となることに浮かれてばかりもいられないとそろそろ気づき出した。
プリムはオルグレン卿の娘なのだから、オルグレン卿の娘婿となるルーサーにおもねる人間が増え出したのである。今までは口を利いたこともないような連中や、上官もだ。上からも下からも声をかけられる。
仲良くしておけば何かの際に融通してもらえると思うらしい。そう思われても困るのだけれど。
ルーサーにとってオルグレン卿は義父となろうと厳しい上官のままであるはずなのだ。むしろ下手な行動に出て、お前などに娘を任せてはおけんと見限られたくはない。
「おい、ルーサー」
廊下でルーサーを呼び止めたのはキアランだった。キアランは今も昔も変わりない。ルーサーは密かにそれが嬉しかった。
ルーサーの肩にのし、とキアランの腕が乗る。
「社交界にはちゃんと出席しないと駄目だぞ」
「うん?」
「情報はどんな時でも大事だからな。オルグレン卿をよく思う人もいれば、よく思わない人もいる。自分なりに勢力図は少なくとも頭に描いておかないといけない。お前が苦手とするところだとは思うけどな」
オルグレン卿は王の覚えがめでたい。けれど、それをやっかむ人間も確かにいるだろう。そうした人間関係を把握しろとキアランは言うのだ。そのために社交の場が必要であると。
そんなことよりも今はどうやったらプリムのために何かができるのか、それを考えていたいけれど、そういうわけにもいかないらしい。
「わかった、なるべく行くようにする」
プリムも出席してくれるといいのだが――。




