28✤Primrose
草の上にプリムはちょこんと座った。ルーサーはそんなプリムから少しだけ間隔を空けて膝をついた。
ルーサーの話とやらはなんなのか、プリムがドキドキ――というよりはキリキリしながら先を待つと、ルーサーが重々しく口を開いた。
「提案があるのです。頼みと言った方がいいかも知れません」
「え?」
頼みがあると。ルーサーからプリムへ。
その目をじっと訝しげに見つめると、ルーサーは不意に目を閉じた。目をそらすのではなく、まぶたがゆっくりと下りる。
それと同じくして、清浄だった場の空気が変わったのをプリムは肌で感じた。張り詰めた清らかさ――睡蓮の花々が光を放つようにしてその場を更に神聖なものへと変えて行く、そんな感覚だった。
プリムが異変を感じてとっさに立ち上がろうとした時もルーサーはまるで無反応だった。膝を立てたまままぶたを閉じて、じっと座り込んでいる。
「ル、ルーサー様?」
呼んでみたけれど、返事がなかった。その代わりとでもいうのか、別の声がプリムにかかる。
「お前たちは相変わらずのようだな」
音楽のように美しい声。その声に何故か聞き覚えがあった。ハッとして声のした方を見遣ると、睡蓮の花の上にふわりと浮かんで微笑している美貌の青年がいた。
「いっ!?」
銀髪の麗しい妖精王である。
夏至の夜に森までわざわざ会いに行ったというのに、呼んでいない今になって何故だか片田舎に出没するとは夢にも思わなかった。
「な、なんでこんなところに!」
プリムが愕然としていても妖精王はなかなかにマイペースだった。
「こんなところと言うが、私は自然豊かで清浄な空気の場所へなら出没する。お前たちが硬い会話をしているから見ていてもどかしくなったのだ」
ノゾキだ。
余計なお世話である。プリムはムッとして言った。
「ルーサー様に何かされましたね? ぼうっとしているじゃありませんか。早く解いて下さいませ」
ルーサーは妖精魔法に一切の免疫がないらしい。面白いくらいになんでもよくかかるそうだ。以前はすっかり寝こけてしまって起こすのに苦労した。数日前のことだが、思い出したくもない過去である。
妖精王はクスリと笑った。何か嫌な笑みだとプリムは思った。
「この男、随分な堅物だが、これでも若い男だ。女に触れたい願望はあるだろう」
「……何を仰りたいのでしょうか?」
ルーサーは確かに堅物だ。けれど、だからなんだと言うのか。女に触れたいとは、本来なら婚約などに縛られずに火遊びがしたいはずだと。
ルーサーにもそうした一面があるのだろうか。プリムが訝しげな面持ちでいると、妖精王は手の平に柔らかな光を集め、それをふぅと吹いてルーサーにかけた。キラキラと光の粒が舞い落ちる。プリムが小首をかしげていると、妖精王は楽しげに言うのだった。
「この粉は付着した者の欲望を暴き出す。どれほどの理性も吹き飛んで、ただ願望のままに行動するだろう。さて、この男はお前に何を望むのだろうな? 望みが達せられるまで粉の効力は消えぬぞ」
「な、な、な……っ」
楽しげにとんでもないことを言われた。ゾク、と背筋が寒くなる。魔王といい妖精王といい、王様なんて嫌いだとプリムは思った。
目の前のルーサーがぼんやりと虚ろな瞳でプリムを見た。明らかにいつもと様子が違う。
プリムはヒッと悲鳴を上げて立ち上がった。けれど、駆け出そうとした瞬間に足をひねってその場に転げた。無駄に痛い。借りた帽子も飛んでしまった。
再び立ち上がろうとしたすぐそばにルーサーの大きな手がドン、と叩きつけられる。その乱暴さに、プリムは思わず目を閉じてしまった。そうすると、ルーサーが覆い被さるようにして、プリムの耳元にゾクリとするような低音でささやいた。
「プリム」
「は、はい……?」
至近距離でプリムが狼狽しても、ルーサーは夢の中にいるかのような目をしていた。そうしてまたささやく。
「プリム」
「はい」
緊張と不安と――頭がおかしくなりそうだ。
ルーサーはというと、
「プリム」
と、また名を呼ぶ。
「なんでしょうか?」
プリムはそろりとルーサーから距離を取るようにして僅かに後に下がる。するとまた、ルーサーはプリムを呼んだ。
「プリム」
「ですから、なんですか?」
段々と苛立って来た。ルーサーは何が言いたいのだろう。
すると、そんな二人のやり取りを睡蓮の花の上で眺めていた妖精王が腹を抱えて笑い出した。神秘性で売るつもりなら、そういう笑い方をするのはどうかと思う。
「何を笑っていらっしゃるんですか!」
プリムがキッと妖精王を睨むと、それと同時にルーサーはねじの切れたオモチャのようにくたりと力を失ってプリムの膝の上に首を下ろした。プリムにはまったくわけがわからなかった。
困惑するプリムに、妖精王は目尻の涙を拭きながら言った。
「だから、この男の望みはお前をそう呼びたいと、そういうことだろう。いい加減に気づいてやれ」
「へ?」
そういえば、ルーサーはいつもプリムのことをなんと呼んでいただろうか。少なくともプリムと呼び捨てになどしていなかった。
ルーサーの話とはこのことだったのか。プリムと呼んでもいいかと。
願い事のささやかさに、プリムの方が思わず赤面してしまった。こんなにもイカツイ外見なのに、ロマンチストだ。
膝の上の重たいぬくもりが心地よく、じわりと痺れるように感じられる。スヤスヤと眠る息遣いが伝わるけれど、不思議とそれを嫌だとは思わなかった。
妖精王はいつの間にか笑うのをやめ、あぐらをかいてルーサーを見つめるプリムを眺めていた。その視線に気づいてプリムは表情を引き締める。
「こういう悪戯はおやめになって下さいませ。魔王に知られたら大変ですわ」
すると、妖精王はああ、と声を漏らした。
「案外もうその男は目をつけられているのではないか?」
「え!?」
プリムがあまりにも怯えた目をしたせいか、妖精王は苦笑した。そうしていると、森の泉で出会った時よりもどこか人間臭くも見えるから不思議だ。
「冗談だ。――まあ、お前が前世のことを思い出せば案外簡単に片がつくかも知れないぞ」
と、妖精王は軽く言うのだった。ドクリ、とプリムの心臓が跳ね上がる。
「前世を思い出せば……」
古文書等々調べても魔王を倒せるような手がかりはなかった。プリムは方向性を誤っていたのか。
前世を思い出す、それをしようとはして来なかった。そんなことをしてあのうさぎ男に愛情が芽生えたりする自分は嫌だったから。
けれど、妖精王は前世を思い出せばいいと言う。そうだ、魔王の妻だったというならば、前世の記憶の中に魔王の弱点があってもおかしくはなかったのだ。
「あ、あの、前世の記憶というのはどうやったら蘇るのでしょうか」
プリムが藁にもすがる思いで妖精王に訊ねると、妖精王は首をかしげながらささやいた。
「さあな。頭でもぶつけたら思い出すのではないか?」
適当にもほどがある。じゃあ、といって実践してみる気にもならない。
「そのうち思い出すかも知れないぞ。まあ、魔王のことはさておき、その男のことも考えてやれ。なかなか面白い男のようだから」
クスクス、と笑っていたかと思うと、妖精王は光に溶けるようにして消えた。白昼夢かとプリムが自分を疑いたくなったほどの鮮やかさだ。けれど、プリムの膝に頭を預けて眠るルーサーがいるので、今の出来事は現実であったのだと思えた。
プリムはなんとなく、その頬をつついてみた。それくらいでは起きなかったけれど、う、と小さく呻く声がした。プリム、と自分を呼んだ低い声がまだ耳元に残っている。それを思い出してプリムは軽く赤面した。
いい加減膝からルーサーを降ろさないとうさぎ男に見られたら大変だと思いながらも、なんとなく邪険には扱えなかった。暑い日差しの中、汗を掻きつつも、触れ合っている時間がもう少しくらい続いてもいいかと――。
ただ、今自分がどんな表情でいるのか、プリムは自分でもよくわからなかった。




