22✤Primrose
ルーサーが毎日のように会いに来た。けれど、プリムは部屋から出ることもしなかった。実際、具合は悪かった。気が塞いで誰にも会いたくなかったのだ。
そんなプリムを、帰宅した父が憤怒の形相で叱責した。
「お前には勿体ないような誠実な男を選んだというのに、お前と来たらそれでも不満だと言うのか、この馬鹿娘が!! とっとと起きろ!! 次にルーサーの顔も見ずに追い返したら家から放り出すぞ!!」
「わ、わたくし、その、具合が――」
「黙れこの馬鹿娘!!」
ヒッとプリムはベッドから飛び起きてしょんぼりと項垂れた。魔王の次に厄介なのは、間違いなくこの父だ。
この婚約は破棄するのだから、ルーサーと仲良くしてもお互いにとっていいことなどひとつもない。むしろあの魔王にルーサーが目をつけられたらどうしてくれる。
とはいえ、父に逆らえたことがないプリムであった。次にルーサーが来た時は挨拶くらいはするかとため息をついた。
――のだが、プリムがそう決めた途端にルーサーは来なくなったのだった。はて、と首をかしげていると、ルーサーは北の方まで魔物の討伐に出ているからしばらく戻らないと父に言われた。
ふぅん、と思った。
あの夏至の日、大剣を振るうルーサーを目の当たりにした。実際に強い人だから、魔王さえ出て来なければ心配も要らないのだろう。
さて、次にルーサーが来るまでにしばらく猶予があるようだ。それならばプリムは魔王を撃退する方法を探した方がいい。こちらの問題は差し迫っているのだから。
古文書を地下の書庫に潜って読み漁る日々を過ごした。古語が読み解けるようになるまで八年もかかったのだ。そこから読み始めても、なかなか重要な記述には巡り会えていない。
古書のかび臭さが心地よく、朝日が目に染みる辺り、年頃の令嬢としてどうなのかと思わなくもないけれど、細かいことは言いっこなしだ。
しかし、どの古文書にも魔王の存在は記されていても、それらは少しもあのうさぎ男とは似つかない。
「なんで?」
角もないし、巨人でもないし、翼もない。記されていることすべてがまるで架空の出来事のようだ。
誰も魔王になんて会ったこともなく、想像で記したということなのかも知れない。それでは少しもあてにならないではないか。
プリムは机いっぱいに広げた古書の上にこてんと顔をつけた。こんなことではすぐに十六歳になって魔王が迎えにやって来てしまう。どうしようどうしよう、と気持ちばかりが焦る。
そうしていると、薄暗い書庫に小さな足音が響いた。エリィだとすぐにわかる。ただ、いつもお行儀のよいエリィにしては慌しい。プリムが顔を上げると、書庫の扉が開いて、エリィはすぐさま書庫の中に駆け込んで来た。
「プリムねえさま!」
「うん?」
エリィはプリムの手をつかんで強く引いた。その顔は強張っている。プリムはようやく、何かが起こったのだと気づいた。
「ど、どうしたの?」
「とりあえず来てよ!」
切羽詰った口調でそれだけを言うと、エリィはプリムを急かして広間まで連れて行った。そこには仕事中であるはずの父と母がソファーに向かい合って座っている。
父はプリムの顔を見るなり、険しい顔で眉根を寄せた。母はそんな二人をハラハラと見守っている。
「プリム」
「は、はい?」
怒られることはしていない。今のところ。
――いや、夏至の夜のことがもしかしてバレたのか。ルーサーが喋ったのだとしたらどうしよう。
プリムはビクビクと父の言葉を待った。エリィが隣で、プリムの手を両手で包むようにして握り締める。
父は深々と嘆息し、そうして告げた。
「ルーサーが魔物の討伐中、崖から転落したそうだ」
え、と自分のものとも思えないような声が漏れた。
転落。
崖から――。
それは、とんでもないことなのではないだろうか。
崖なんて高いところから落ちたら――。
ガク、と自分でも無意識のうちに膝が震えた。ペチコートでふんわりと膨らんだスカートの下での出来事は、誰にも気づかれなかった。
あの大きくて力強い人が死んでしまったと。
それはやはり、プリムに関わったせいで魔王に呪われたのだろうか。顔も見ずに邪険に追い払って、そうしてこの結末だ。その事実はプリムの心を引き裂くには十分だった。
ヒュ、と息を飲んで言葉を無くした娘に、父はいつになく優しい声を出した。
「命は助かったそうだ。ただ、負傷して実家の方に運ばれたというから、お前はすぐに支度をして向かいなさい」
生きている。
それがわかっただけで、プリムはどうしようもなくほっとした。やっと体に熱が戻った気がした。
しかし、崖から落ちたのだ。かなりの重傷であろう。プリムは治癒の魔法も扱える。いないよりはきっとマシなはずだ。
「わ、わかりました。すぐに――」
プリムは父に頭を下げるのも忘れて退出した。そうして、部屋であれやこれやとトランクにぎゅうぎゅうに詰め込む。かさばるドレスは入れず、とりあえずワンピースを多めに入れた。何日滞在するのかわからないのだから、その方がいいだろう。皺になりそうなくらいにぎゅうぎゅうと押し込んで支度をすると、プリムの部屋を小さな荷物を持ったエリィが訪れた。
「僕も行くよ」
エリィなりにプリムを案じてくれているのだろう。その気持ちが嬉しかった。
「ありがとう、エリィ」
頼りになる弟である。エリィはにっこりと微笑んでうなずいた。
そうして、父と母に送り出され、プリムとエリィはルーサーの実家のあるコモドール領まで馬車を走らせた。父は馬車にもしっかりと防壁を施してくれたし、御者以外にも護衛もちゃんとつけてくれた。
アクィナ公道を北へ。そうしてルーサーが転落したという峠を越えずに東へ逸れるとほどなくしてコモドール領に入る。小さな領地ではある。見るからに青い農地が広がる道を眺めながらプリムはそれでも気が気ではなかった。急いで馬車を飛ばし、それで夕方になってようやく到着することができる距離だ。持たせてくれたサンドウィッチはエリィにあげた。それどころではないせいか、食べたいと思えなかった。
エリィはリスのように頬っぺたを膨らませながらサンドウィッチを頬張ると、それを飲み込んでから言った。
「プリムねえさまはルーサーにいさまのことが本当はすごく好きなんだね」
果たしてそうだろうかとプリムは考えた。けれど、それは少し違う気がした。
間違いなく心配はしている。優しい人だと知っているから、死んでほしくはない。
この場合、ルーサーでなくとも同じ目に逢えば同じほどの心配はする。
「好きというのは少し違うかも知れないわ。でも――」
「でも?」
「嫌いではないの」
そう、それが今のプリムがはっきりと言える気持ちであった。
エリィはクスリと、プリムよりもよほど大人びた笑みを見せた。




