20✤Primrose
収穫はほぼナシ。ナシというよりも、むしろ失ったものがあるくらいだ。
プリムはコソコソと屋敷に戻ると、中庭を歩きながら嘆息した。そして、自らの唇に指を押し当て、そうして今更ながらに顔がほてるのを感じた。
ルーサーはなんにも覚えていない。それが癪なような、せめてもの救いのような気がした。
プリムを軽々と抱え上げたり、大剣を振るったり、あっさりと眠らされたりしたこと以外は男らしさもあって、正直に言うとときめいたりもしていなくはない。
素直にそれを認めるわけにはいかないけれど。
なんともふわふわとした気持ちのまま、プリムは猫並みに足音を立てずに部屋まで戻れた。これでひと安心だ、少し眠ろうと思った。ただ――。
窓辺に、いたのである。
窓が僅かばかりに開いていて、ぼんやりと明るさを増した空に不釣り合いな生き物がいた。揺れるカーテンの窓辺に、黄緑色の毛に三つの赤い目、長い尻尾――魔王の使いである。
その使い魔はプリムの姿をその三つの不気味な目で捉えるなり、尻尾で大事そうにつかんでいた手紙をぽとりと室内に落とした。手紙にはいつもと同じ封蝋がしてある。その印はプリムには禍々しくしか感じられない。
魔王からの手紙だ。
コーネリアの誕生日でもなんでもない、この時に。
まるですべてを見ていたとでも言いたげなこのタイミングで。
そこには一体何が書かれているのか――。
考えただけで恐ろしくて、プリムはそのままパタリと気を失ったのであった。
意識を手放していた時間はそれほど長くはなかったのかも知れない。プリムは自分が寝ぼけたのだと信じたかった。けれど、起き上がった目の前にはしっかりと手紙が存在したのである。どす黒いオーラを放っている風に思えたのは、それを受け取りたくないプリムの目がそう感じさせるのか。
プリムは急いで起き上がると、部屋にいくつも用意してある小箱を取って来た。本棚の横に積んである飾り気のない真鍮の箱である。そのフタを開けると、魔除けを施した手袋をはめた手で手紙を拾って中に入れ、そのままフタをして大急ぎで封印を施した。こうして、プリムの部屋には開かない小箱が増えて行く。
額に滲む脂汗を拭い、プリムはふぅ、と息をついた。
けれど、細かいことを考えれば考えるほど気が滅入って、恐ろしくなって、プリムはそこから寝込んだのである。
ただただベッドの中で震えていた。
魔王がルーサーを消し去ろうと決心したとしたら、それはプリムのせいだ。プリムの中途半端な態度がルーサーの命を脅かすのだ。
他の男性たちのように、父の恩恵を受けるためにプリムの気を引こうとか、計算高く擦り寄る相手ではない。ただ無骨で、それでも優しくて、きっと知れば知るほどによいところがたくさんあるのだと思う。
だからこそ、早く離れなくては――。
プリムがベッドの中で不安と戦っていると、何度か母やエリィが心配そうに様子を見に来てくれた。それだけで少し励まされたような気分になる。
けれど、エリィが最後に去ってしばらくしてから、エリィは再び戻って来たのだ。トントン、と扉の低い位置を優しく叩く音にプリムは被っていたシーツから顔を出した。そうして扉に目を向けると、エリィは子供らしい舌っ足らずな可愛い口調で無邪気に言うのだった。
「プリムねえさま、ルーサーにいさまが会いに来てくれたよ!」
はしゃぐその声は、ルーサーに会えばプリムが元気を出すと信じている風だった。ただ、現実はその逆である。
プリムはサーっと青ざめた。これ以上ルーサーと関わりたくない。関わってはいけない。
「わたくし、気分が優れませんの! お引取り願いますわ!」
頭からシーツを被りつつも、病人にしては力いっぱい叫んでいた。そうしていると、扉の前でルーサーが苦笑している様子が目に見えるようだった。
「ええ、今日は帰ります。どうぞお大事になさって下さい」
淡々とそう言う声。けれど、ルーサーはこんなにも邪険に扱われても怒ったりはしないのだろう。いっそ怒ってくれた方が話が早いのに。
罪悪感がギリギリと胸を締めつける。優しい人を傷つけるのはいつも苦しい。
扉の前でそんな二人のやり取りを聞いてしまったエリィが不安げな声を出した。
「プリムねえさま、どうしたの? せっかくルーサーにいさまが会いに来てくれたのに……」
エリィに悲しい思いなんてさせたくなかった。成り行きとはいえ、プリムは浅はかな言動を後悔するけれど、ルーサーに謝ることはできない。
なんでこんな思いをしなくてはいけないのか、プリムはその理不尽さに身悶えする。
ただ、扉の向こうでルーサーがエリィに語るのであった。
「いいんだ、また会いに来るから。エリィ、姉様は疲れているからゆっくり休ませてあげないとな」
淡々と、けれどそれはとても優しい。
建前と、本音と、そんな違いは子供ほどによくわかる。
「うん! わかった!」
エリィの嬉しそうな声が、ルーサーの言葉に少しの嘘もないことを物語る。離れて行く足音を、プリムは胸が掻き毟られる思いで聞いていた。
そうして、ルーサーを見送って戻ったのか、エリィが再びプリムのもとへやって来た。今度はノックをして、返事を待たずに部屋に入って来る。
「プリムねえさま、ルーサーにいさまは帰ったよ。よかったの?」
シーツの隙間から見たエリィは眉をひん曲げていた。プリムの言動に納得が行かないのだろう。そっと起き出してプリムがベッドの上に座り込むと、エリィはそのベッドの縁に両手をついた。
「ルーサーにいさま、すごく優しい人だったよ。どうしてあんなひどいこと言うの?」
弟にまで叱られ、プリムは思わず涙を零した。ハラハラとネグリジェの胸元を濡らす姉に、エリィは慌てて両手を大きく動かした。
「ごめんなさい、プリムねえさま……」
しょんぼりとしたエリィに、プリムは乱れた髪を整えもせずに首を振る。
「エリィのせいじゃないの。悪いのは全部、魔王……」
「魔王……」
「魔王がわたくしに近づく男性を消してしまうと言ったから、わたくしは特別な方を作ってはいけないの」
魔王の話を信じてくれているのはエリィだけだ。だからエリィには本音が吐けた。
エリィは困ったように考え込む。
「そっか。それは魔王が悪いね。うぅん、どうしよう。でも、ルーサーにいさまは悪くないんだよね?」
「ええ」
「じゃあ、まずは魔王をなんとかしなくちゃね。プリムねえさまには幸せになってほしいんだ。大丈夫、僕もついてるから。ね?」
と、優しく可愛らしく微笑む弟を、プリムはきつく抱き締めて必死の思いで涙を止めた。
「でも、ルーサー様に迷惑をかけたくはないから、ここへ来ても取りつがないでね」
しゃくり上げながらそれだけを言うと、エリィはプリムの背中を摩りながら舌っ足らずに答えた。
「大丈夫だよ、ルーサーにいさまは強いんだから。プリムねえさまのことも護ってくれるよ」
本当にそうだといいのに。
けれど、あの大きな体が突然目の前で横たわるのを、プリムは二度と見たくはない。




