2✤Primrose
ラヴィニア先生はその後すぐに目を覚ましたけれど、魔王チェザーリなる存在がここにいたことはまったく知らないらしい。ただ、切り倒された木だけを見てびっくりしていた。その衝撃で自分も気を失っていたのだと結論づけた。いやはや、ものすごい突風だと。
「ち、違いますよ、先生。ここにうさぎさんみたいなおめめをしたまおーが来たんですって」
そうプリムが一生懸命説明しても、先生はおろおろとするばかりだった。
「ああ、プリム様もご無事で何よりです。けれど、少し頭を打ってしまわれたのかも知れませんね。私がお庭に連れ出したばかりに申し訳ありません。すぐにお医者様に診て頂きましょう!」
「ふえっ?」
頭を打って夢と現実の区別がつかなくなったと。
「先生、夢じゃなくて、本当に――っ」
すると、先生はプリムが授業でおかしな回答をした時と同じように、優しい口調だけれどはっきりと強めに言ったのだった。
「このお屋敷はオルグレン様の力に護られていて、邪悪な存在は近づくこともできないのですよ」
「あ……」
そう言われてみればそうなのだけれど、あっさり入って来た。これは要するに、あのうさぎ男は父よりも強い力を持っていて、この屋敷を護る防壁などものともしないということか。ということは、十年後もこのままでは、あのうさぎ男を排除することはできない。
しかし、子供のプリムに両親以上に頼れる存在はなかった。
そうして、すぐさま先生の報告によりプリムはベッドに寝かされ、お医者さんを呼ばれた。父と同じくらいの年齢の優しそうなお医者さんは、なんともありませんね、とニコニコと答えて去って行った。
それでも心配そうにベッドの縁でプリムの手を握る母。お淑やかで控えめな母。金髪の美しい母。
「おかあさまぁ」
ふにゃ、と泣きそうになりながらプリムは口早に今日の出来事を語った。
そうして母は、はいはい、それは困りましたね、と軽く受け流した。そしておでこに手の平を当て、熱はないですわねぇとお医者さんの診断を疑うようなマネをした。
そうしていると、プリムの部屋の扉がバンと音を立てて勢いよく開いた。そこには騎士の白い制服に身を包んだ凛々しい父がいた。
「あ、おとうさま!」
強もての父はスタスタと大股で歩くと、にこりともせずにベッドの上のプリムを覗き込む。
「プリムが事故に遭ったと報せが来たのだが、無事だな?」
仕事一筋の父がプリムの一大事に駆けつけてくれた。そのことが、プリムにはひどく嬉しかった。
そう、逞しくて強い父ならば、あんなうさぎ男にみすみす娘をくれてやるはずがない。なんとかしてくれるはずだ。
プリムは必死で母に話したことと同じ内容を父に語った。すると、父の顔が見る見るうちに変貌した。
握った拳がぷるぷると揺れている。
かと思ったら、厳格な父はでっかいカミナリを落としたのだ。
「この馬鹿娘が!!」
「ヒッ!!」
「何が魔王だ! 常日頃からくだらん本ばかり読んでばかりいるからそういうとぼけたことを口走るのだ! お前にはよい婿を探してこの家を守り立てて行ってもらわねばならぬというのに、そんなことでは相手探しに苦労するぞ!!」
信じてもらえないばかりか小言を言われた。プリムのショックは父には伝わらない。
燃え尽きたプリムと煮えたぎる父との間に入った母が、なんとなく父を宥めてくれていたような気がする。
父がプリプリと怒りながら職場に戻って行った後で、母は、お父様は心配されたからこそ怒ったのですよ、と言った。
プリムは何も悪いことをした覚えはない。これがリフジンというやつか、と学んだだけだった。
父も母も信じてはくれなかった。そのことを恨むわけではないけれど、頼れないという事実だけがはっきりとした。そういえばいつも、自分の身の回りのことは自分でできるようになりなさいとか言われている。
十年後。自分の身は自分で護れということだ。
世の中はキビシイ――。
でも、十年あれば何かができると今は信じることにした。
そう、どうしてもあのうさぎ男のお嫁さんは回避したい。完全にプリムの好みではない。
もっと逞しい凛々しいキリッとしたタイプがいいのだ。それは譲れない。
そうして、その一年後。
プリムが七歳になった時、弟が産まれた。跡取り息子、嫡男である。
母親似の柔らかな金髪に飴色の瞳。将来有望な男の子はエリファレットと名づけられた。
まるで天使のように愛くるしく成長するエリィをプリムは大層可愛がった。けれど、追々気づくことになる。これでプリムは婿を取る必要がなくなり嫁に出される立場になったのだと。
だからといって、みすみす魔王にくれてやることはないはずだが。父は日々、魔王の軍勢である魔物と戦っている。娘をくれたら国土を荒らさずに大人しく過ごすと約束されたらあっさり――なんてことはないと信じよう。厳しい父だけれど、愛がないわけではない。
ちなみに、この一年でプリムが得た収穫は、お伽噺に出て来る魔王は大抵勇者に倒されるということである。
伝説の剣で弱点の角を折られ――角? うさぎ男に角はなかった!
しかも、『勇者』とは。手がかりはないかと辞書を引いたところ、『勇気ある、強い人』という非常に漠然とした情報だけが載っていた。収穫はもしかするとゼロに等しいのかも知れない。
プリムはこのままではいけない、と焦り、屋敷の書庫からありとあらゆる本を読み漁ることにした。勉強熱心だと最初は喜ばれた。けれど、じきにその読み漁り方が病的であると言われた。
プリムは魔王チェザーリを倒すしか彼から逃れる術はない、とその手段を必死で探しているのだ。剣術では不可能と見て、プリムは魔法でなんとかするしかないと思うのだ。
本ばかり読んで過ごすプリムには同じ年頃の友人はできなかった。親しいのは家族と使用人だけである。ラヴィニア先生も早々に嫁に行ってしまった。
プリムには遊んでいる暇はない。魔法の腕を独学で磨いて魔王を倒さねばならない。
ただ。
本当に親しい友人を作れなかったのは、チェザーリのあの赤い瞳が、『大切な人ができたら消し去ってくれる』と語ったせいかも知れない。
あの一度の接触だけなら、もしかすると本当に頭を打って幻覚を見たのかなとも思えた。けれど、あのうさぎ男は年に一度、手下の魔物を使ってプリムに贈り物をして来るようになったのだ。魔物は小動物的で無害そうな生き物を選んでいるらしく、話すことはできなかった。黄緑色の毛は長く、三つ目だし、尻尾は長すぎるし、可愛くない。そんな生き物がチューチュー言ったところでプリムには理解不可能である。
ただ、プレゼントに添えられている手紙に、『後○年、楽しみに待っている』といった内容が記されている。しかも、その手紙の宛名は『コーネリア』であり、届けられる日も出会ったあの日で、それはプリムの誕生日ではなかった。もしかすると、そのコーネリアの誕生日だったのではないだろうか。
すべてにおいてプリムのことなど丸無視である。腹の立つうさぎ男だ。
プリムは紫色のリボンのかかった禍々しい気を放つプレゼントをオモチャ箱に押し込み、覚え立ての封印を施して二度と開けなかった。
そうしたことが毎年繰り返され、プリムは宣告の日に近づく毎日を焦って過ごすのだった。
それから更に八年の歳月が流れて行く――。