19✤Luther
森から帰る馬車の中、プリムローズはこっくりこっくりとうたた寝していた。眠いのも仕方がない、真夜中なのだから。ルーサーはというと、すっきりしている。森ではほとんど寝ていたわけなのだから当然だ。
座席からプリムローズが転がり落ちないように気をつけつつ、向かいの座席で眺めていた。
そうしていると、ほわりと優しい気持ちになる。寝顔のあどけなさがそうさせるのだろうか。
馬車がオルグレン邸へ辿り着いたのはほぼ明け方である。あまり近づくと馬車の音で家の者を起こしてしまうかも知れない。ルーサーは少し手前で馬車の速度を落としてプリムローズに呼びかけた。
「もうすぐ着きますよ」
けれど、うう、とかうーとか唸ってプリムローズは眉間に皺を寄せるばかりであった。
「……う、さぎ、お――」
むにゃむにゃ言っている。どうやらうなされているようだ。うさぎのせいでうなされているらしい。
ルーサーはそっとプリムローズの肩に手を伸ばした。薄く細い肩を揺する。
「起きて下さい」
すると、ハッとした彼女はルーサーの手を振り払いながら言った。
「わたくし、眠ってなどおりませんわ」
どの口がそんなことを言うのか。とは思うものの、可愛らしい顔で強がっても微笑ましいだけである。
しかし、プリムローズは真剣に言うのだった。
「それから、最初に申しましたけれど、今日のことは他言無用ですわよ。わたくしも忘れますから、あなた様も忘れて下さいませ」
そう言われて寂しさを覚えたのはルーサーだけだ。失態を忘れてくれるのなら喜ばしいはずが、少し寂しい。ルーサーが返事をしないでいると、プリムローズは嘆息した。
「それがお互いのためですわ。……で、そろそろ降ろして頂けますか? 後は歩いて戻ります」
最後まで送ると言いたいところだけれど、朝帰りの娘を男が送ったのでは余計にややこしいことになるだろう。婚約者とはいえ、まだ正確には他人なのだ。
馬車を止め、降りるプリムローズに手を貸して、ルーサーは何かを言わなくてはと思うのだった。
「あの」
プリムローズは振り返る。その煌く瞳にルーサーはやっとの思いで言うのだった。
「また明日にでも改めて伺います」
すると、プリムローズはうぅんと少しだけ考えて、そしてゆるくかぶりを振った。
「間に合っておりますわ。それではごきげんよう」
つれない。
なんともつれない反応である。だというのに、ルーサーは明日もここへ来ると心に決めたのである。どうしても、また会いたいと思うから。
小さな体でこそこそと、まるでコソ泥のように自分の屋敷へ戻る令嬢を見守りつつ、ルーサーはイヴァンに指示を出して馬車を進ませた。明日――ではなく、すでに今日――も仕事がある。少しは戻って休まねばならない。それでも、昨晩のことはルーサーにとっては思わぬ収穫であった。
誰に頼まれずとも、彼女のことをいつまでも眺めていたいと、そんな風に自分の心が動いたのだから。
――そして、ルーサーは浅く仮眠を取り、出勤した。何故だか頭にコブがあった。倒れた時に打ったのだろうか。
朝から同僚の騎士たちと鍛錬をするものの、キアランは妙に楽しげだった。キアランは肘をルーサーの肩に押し当て、ぐ、と力を込めてルーサーの体勢を崩すと、その耳元でささやく。
「なんだ、随分遅くに帰って来たじゃないか。オルグレン卿に知られたら首が飛ぶぞ?」
「何がだ?」
とぼけたわけでもなくルーサーが問うと、キアランは呆れたようだった。
「何がって、昨晩お前、どこにいたんだ? 別の女のところじゃないのか?」
「別の、女?」
どうしてそうなるんだと、ルーサーはキアランの肘を乱暴に振り払った。キアランはルーサーのその剣幕に少し驚いた風だった。この時のルーサーは苛立ちがいつもより色濃くあった。
「なんで俺が別の女性のところに朝までいるんだ?」
「そりゃあ、婚約者があんなにつれなかったら魔も差すだろうって」
「確かにつれないけれど、それでも俺は――」
と、そこでルーサーは何を言おうとしていたのかと、やっと冷静になった。思わず口元を押えると、キアランは訝しげに眉根を寄せた。
「ルーサー、お前……」
そこで言葉を切ると、キアランは意味深にふぅんとつぶやいた。ふぅんってなんだと問いたい。
けれど、キアランは訳知り顔でニヤニヤと笑っていた。なんとも癪な笑顔だった。
やっと見回り業務を終え、ルーサーが大急ぎでオルグレン邸へ向かったのは日が落ちてすぐのことだった。出迎えてくれたオルグレン夫人は、夫からルーサーが訪ねて来ることを聞かされていたのだろう。驚いた風ではなかったけれど、夫人はホールですぐに美しい顔を困惑させていた。
「ルーサー様、申し訳ないのですけれど、プリムは今朝から体調を崩して寝込んでしまっているのです」
「え?」
今朝から。それは昨晩の疲れが出たのではないだろうか。
深窓の令嬢にはなかなかに刺激が強かったはずだ。
「それは……心配ですね」
しかし、いくら婚約者とはいえ、寝込んでいる女性の寝室に赴くわけにもいかない。心配ではあるけれど、今日は大人しく帰るしかないのだろう。
「普段は元気すぎるくらいの娘ですし、珍しいことですわ」
ふぅ、と夫人はため息を漏らした。その時、湾曲した階段を元気よく下りて来る子供がいた。
夫人と同じ色の明るい金髪にプリムローズと同じ飴色の大きな瞳。ああ、とルーサーはすぐに思い至った。彼女の弟のエリファレットだ。
フリルのたくさんついたシャツにリボンタイ、子供らしく剥き出しの脚は細く、まるで少女のように優美な少年だった。ルーサーには五人もの実弟がいるけれど、その誰ともタイプが違う。トトト、と母親の隣にやって来ると、そこからルーサーを見上げてにっこりと天使のように微笑んだ。
「もしかして、ルーサーにいさまですか? 僕はエリファレットです。お会いしたかったです」
なんとも愛想よくそう言ってくれた。この愛想のよさをプリムローズに分けてあげてほしい。
にこにこと朗らかで、こうしているとオルグレン卿にも似ておらず、完全に母親似である。けれど、あのオルグレン卿を父に持つ少年なのだ。これからが大変だろうとルーサーはエリファレットの将来をなんとなしに憂えた。
膝を折って視線を合わせる。
「お初にお目にかかります、エリファレット様」
すると、エリファレットは困ったように笑った。
「さま、とか変です。弟になるんですから、エリィって呼んでください。僕もにいさまって呼ばせてもらいますから」
そう言ってもらえたのは素直に嬉しかった。
「わかりました、エリィ」
「ケーゴもやめてください」
少し頬を膨らます様は、どこかプリムローズに似ていた。それでルーサーは思わず笑っていた。
二人が打ち解ける様子に、夫人もどこか嬉しそうである。
「わかったよ。じゃあ、敬語なしはお互い様にしよう。どうやらエリィの姉様には会えないみたいだから、今日はこれで帰るけれど、また来るよ」
すると、不意にエリファレットがルーサーの手を小さな両手で引いた。
「でも、ルーサーにいさまの声を聞いたらプリムねえさまもちょっと元気になるかも知れないから、部屋の前まで来てよ」
「いや、しかし……」
喜ばないのは目に見えている。悲しいかな、それがわかるルーサーだった。
けれど抵抗せずにエリィに連れて行かれたのは、プリムローズのことが心配だったからではあるのだ。




