14✤Primrose
プリムはやっと、震える指先を倒れたルーサーの胸に当てた。彼の横向きの体を押してなんとか仰向けにすると、その広い胸に耳を寄せる。まだ、あたたかい。このぬくもりはいつまで続くのだろう。
そうしたプリムの不安を打ち消すように、トクントクンと脈打つルーサーの心音が聞こえた時、プリムは不覚にも涙を滲ませていた。
「い、生きてる。よかったぁ」
思わず力の抜けた声を漏らす。そんなプリムの耳にはスヤスヤとルーサーの寝息が続けて聞こえて来た。
――寝ている。しかし、この唐突過ぎる寝方は不自然だ。
魔法を使った気配は感じなかったけれど、プリムも手元の文献に記されていないことは知らないのだ。プリムの知らない何かがルーサーを瞬時に眠らせたのである。
その時、茂みの一角が揺れた。カサカサ、と音を立てながら聞き慣れない甲高い声がする。
「生きてるよ。ヒト聞きが悪いなぁ。神聖な森、それも夏至の夜にヒトなんて殺さないし」
そのぼやきにプリムはハッとした。そうだ、ここは悪戯者の妖精がいる森なのだ。プリムはそのことを知っていながら意識しきれていなかった。侵入者である自分たちにそうしたちょっかいがあっても不思議はなかった。
ルーサーがこうなった以上、プリムは一人で妖精と対峙しなくてはならない。プリムはキッと茂みを睨みつけ、そこから現れるであろう妖精を待った。ドキドキと緊張の瞬間だった。
妖精は、見目は可愛らしいかも知れない。けれど、こんなに大柄なルーサーの動きを封じたのである。油断はできない。
ガサガサガサ。茂みがふたつに割れた。思ったよりも妖精は大きいのか。
違和感を覚えた瞬間にそこから姿を現したのは、確かに妖精であった。
けれど、プリムの予想――蝶やトンボのように麗しい翅を持つ小人のような存在とは少しばかり違った。
あれは確か、『フォーン』というヤツだ。鹿の脚と耳を持つ半人の妖精。ただ――。
本に描かれていたフォーンは、すらりとしなやかに美しい青年のフォーンであった。なのに、プリムの目の前に現れたのは、どう見ても子供である。脚が、短い。
三歳児くらいの大きさだろうか。おなかも丸いし、脚が短いので、妖精と表現するにはいささか滑稽な存在である。可愛いと言えなくはないけれど、それを言うにはちょっとした無理は必要かも知れない。
目が離れた顔もどこか愛嬌があって、むしろ人間臭かった。そのちびっ子フォーンは茶色の癖毛に埋もれた鹿の耳をぴるぴると震わせてみせる。
「清らかな乙女ならまだしも、血の匂いのする物騒な男なんて、僕が見つけた以上、この先には入らせないよ」
血の臭い――。
魔物を斬ったせいだ。それが妖精に警戒されるもとになってしまった。
しかしだ、しかし。
あっさり寝すぎではないだろうか。プリムはルーサーに命の危険がないと知ると、少し腹立たしさも込み上げて来た。その図体であんなマヌケ面の妖精の術にかかるとか、情けない。プリムを護ると言ったのは誰だったか。
プリムは深々とため息をついた。
「でしたら、わたくしは連れて行って下さるのかしら? 妖精王にお会いしたいの」
「へ? 王様に? なんでまた?」
「ロードクォーツを強化して頂きたくて。それから、魔王に対抗する方法を何か教えて頂けるとありがたいですわ」
正直に告げると、フォーンは嫌そうな顔をした。あまつさえフン、と鼻で笑う。癪な態度だ。
「ズカズカと図々しく入って来たかと思ったら、要求まで図々しいね。王様はそんな世俗のいざこざにはご介入なさらないよ」
「それでも会わせて頂けるかしら。このまま諦めるなんてできませんわ」
フォーンはプリムの必死な声にも身を入れて聞いている風ではなかった。短い脚でてってこてってこ歩いて来たかと思うと、眉間に皺を寄せて眠るルーサーの脳天に平べったくての硬そうな蹄で蹴りを入れた。
「あ、ちょっと!」
その扱いはさすがにひどい。けれど、ルーサーはそんなことでは起きなかった。難しい顔をして眠りこけている。そんな様子にフォーンはクスクスと意地悪く笑った。
「この男は君の何? 恋人じゃないの?」
「ちょっと違いますわ」
恋人という表現は正しくない気がしたので、とりあえずそう答えた。すると、フォーンは更に意地悪く顔を歪める。
「この男、面白いよね。妖精魔法に対する耐性がほぼないや。面白いくらいになんでもすぐに効いちゃう」
「え?」
「魔法を扱うのは、魔族に人間、それから妖精。それぞれの種族が別々の手法で魔法を繰り出す。僕ら妖精の魔法に彼は生れつき耐性がないみたいだ。君はまあまあ強いようだけれど」
妖精魔法に耐性がない、と。それは何を意味するのだろう。
プリムが眠るルーサーの顔に視線を落すと、フォーンは悪魔のようにケケケと笑った。
「もう目覚めないかもね」
「はぁあ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。目覚めない、とは――。
「だって、自力で解除できそうもないし。ほっといたらこのままだよー」
あっさりと言われてしまった。
「こ、このまま――」
プリムはごくりと唾を飲み込んだ。誰かに診てもらうにも、こんな大男ではプリムに連れ帰ることなどできない。
自分が連れて来てしまった以上、この展開はプリムのせいである。なんとかできないものかと自分の知識の引き出しを片っ端から開けるものの、そこから打開策が転がり落ちて来ることはなかった。プリムにとってもこんなケースは初めてなのである。
「ど、どうやったら目を覚ますのかしら?」
目の前のフォーンがルーサーを眠らせたわけである。それならば解除も彼にしかできないと思ったけれど、そうではないらしい。フォーンはくるりんと回って言った。
「さあね。僕にもよくわからないよ」
コイツ、と逆さ吊りにしてやりたい気持ちを抑えてプリムは問う。
「じゃあ、誰ならわかりますの? 王様ならどうかしら?」
「王様にできないことなんてないさ」
誇らしげにフォーンは胸を張った。やはり、どうあっても妖精王に会わなければならないらしい。
せめてもの救いは、今が夏であったことだろうか。この暑さなら、ここで寝ていても風邪は引かないだろう。多少は蚊に刺されるかも知れないけれど。
「やっぱり、王様にお目通りさせて頂きたいですわ。連れて行って下さらない? ええと――」
そこで何故プリムが言葉を止めたのか、ちびっ子フォーンはすぐに察した。頭は悪くないのかも知れない。
「僕はハーバル。君は?」
「プリムローズ・オルグレン。プリムで結構ですわ」
「そう、プリム。でも、王様が会って下さるかどうかはわからないよ。それでも来るのかい?」
「ええ、もちろん」
最初にここを目指した理由はロードクォーツの強化、ただそれだけの目的である。けれど今は更に退けない理由が増えてしまったのだ。行くしかない。
プリムはぐっと拳に力を込めて立ち上がった。ルーサーの顔にふと視線を落すと、やはり難しい顔をしていた。一体どんな夢を見ているのだろう。