10✤Luther
オルグレン卿に言われた通り、ルーサーはプリムローズのもとへ向かうことにした。仕事が終わってから、遅い時間であっても構わないとのことだった。多少気が引けるものの、もしオルグレン卿がプリムローズにルーサーが来ると伝えてあった場合、行かない方が問題かも知れない。そう思ってオルグレン邸へ足を向けたのだ。
騎士の詰め所から馬車で向かえばそう遠くはない。城からすぐの一等地にオルグレン邸はあるのだ。
カラカラと車輪の音を聞きながらルーサーは彼女のことを考えた。今日は魔物の討伐に王都の外へ出た。疲れていないわけではないけれど、これもまた義務のうちだろうと思う。
会いに行ったところで嬉しそうな顔をする彼女は想像がつかないけれど。
今日は夏至で時間の割に空が明るい。なんとなく車窓の外を見遣った。もうオルグレン邸の敷地の中だ。
ふと、目の端に動くものがあった。それは人だ。小柄な人間が潜むようにしてこの馬車とは反対方向へ進んでいる。最初は小間使いかと思ったけれど、それにしては動きが怪しい。オルグレン卿不在の今だからこそ、おかしな者を見過ごすわけにもいかなかった。間者でないとは言いきれないのだ。
しかし。
それはルーサーが思い描いていた者とはまるで違う人物だった。
馬車を止めて出てみれば、目の前に現れたのは小さく、か弱い少女だった。
黒い髪を後頭部で丸め、リボンで飾っているけれど、それでも彼女の背はルーサーから見ればとても低かった。気弱そうな眉に、黒目がちで大きな瞳。小作りな鼻と口。ワンピース姿の彼女は、十代半ばくらいだろうか。背が低いのでもっと子供にも思えたけれど、胸のふくらみや身体つきが子供というほどではない。と、そんなところまで観察している自分にルーサーは言いようのないやましさも感じた。
可愛らしい、可憐な少女である。柔らかな雰囲気を漂わせ、庇護欲をそそるような――。
その黒目がちな瞳に見つめられた時、どういうわけだか妙に胸が騒いだ。どこかで出会ったことがあるような、そんな気がしたのだ。
彼女に対してそう感じたことがプリムローズに対して不実であるような気がして、ルーサーは動揺を振り払う。平静を装うルーサーを彼女は意外にもキッと睨みつけた。けれど、迫力はない。怒っているつもりなのだろうけれど、そんな顔も大層可愛らしかった。思わずドキリとしてしまう。
「我が家に何か御用ですか? 何もこんな時分に来られずともよろしいのでは?」
この声。
どこかで聞いた、などというレベルではない。
この高飛車な口調、それから我が家というひと言。
まさかと思うほどの違いがある。けれど、プリムローズには弟がいるだけで妹はいない。
訝しみながら歩み寄り、またじっと彼女に見入った。思えば、ルーサーが知るプリムローズは隙のない作られた美と言うべき姿であった。あの仮面の下がこうで、見た目にこそ嘘があるとは気づけなかった。
「何か?」
ルーサーが婚約者の顔もわからないなどと彼女は気づかないのだろう。しかし、こんなに違えば気づくわけがない。思わず心の声が口をついて出た。
「……我が家、と。それからその物言いにその声、いつもと装いは違いますが、プリムローズ様なのですね?」
プリムローズはその問いにひどくびっくりした様子だった。
「あ……」
自分の顔をぺたぺたと摩り出す。どうやら化粧をしていないのを忘れていたらしい。そんな仕草も愛らしかった。ルーサーは自然と顔が綻ぶのを感じた。
「いえ、あなたはそのままで十分です」
キアランなら、十分魅力的だとか素敵だとか気の利いたことを言えるのだろうな、とぼんやりと思った。けれど、ルーサーにはこれが精一杯である。
プリムローズはというと、喜ぶでもなく困ったような顔をした。それが素なのかも知れない。
「この顔では迫力がありません」
「は?」
「背も低すぎるし、何をやっても様になりません。だから考えた末に化粧を覚えたのです」
迫力、と。
それは令嬢に必要なものなのだろうかとルーサーは首を捻りたくなった。
プリムローズはじっとルーサーを見上げる。
「あの、わたくしこれから行かねばならないところがありますの。せっかくですが失礼致しますわ」
平然とそんなことを言うけれど、夜分である。令嬢が一人歩きする時間ではない。
「今、何時だと思っているのですか? 魔物に襲われますよ」
すると、彼女は淡々とした口調で返す。
「わたくし、魔物に襲われることはございません」
「何を……」
何を根拠にそんなことを言うのだろうか。魔除けの護符でも持っているとしても、そんなものは絶対ではない。しかし、彼女はそう信じているようだ。
「仮に魔物に襲われずとも暴漢に襲われます。大人しく屋敷へお戻り下さい」
するとプリムローズは初めてうろたえた。
「ぼ、暴漢?」
少しショックを受けている様子だったけれど、それもすぐに立ち直った。
「わたくし、多少の魔法は扱えますの。なんとか致しますわ」
か弱そうに見えるだけで、中身はプリムローズである。なかなかに勝気であった。しかし、なんとかすると言う時点で見通しは甘い。少し苛立ち混じりにルーサーはプリムローズの右手首をつかんだ。あまりの細さにぞくりとするけれど、顔には出さないように努める。
「そうですか、では私を暴漢と思って振り払ってみて下さい」
「そ――っ」
痣になったりしないようにそれほど力は込めていない。けれど、プリムローズの細い片手ではルーサーの指ひとつ外すことはできないのだ。一所懸命もがいている様子が可愛いと言ったら怒られそうだけれど、愛でてしまうくらいは許されるだろうか。むー、と唸りながらぐいぐいと引っ張るけれど、それで本気なのかと思ってしまうほどに弱い。顔を赤くして息せききっていることから、これでも必死なのだろう。
ルーサーは苦笑してしまった。
「わかりましたか? では大人しく屋敷の方へ――」
そう言いかけると、プリムローズはつぶらな瞳に涙をいっぱいに溜めていた。
「嫌!」
その涙にルーサーがたじろいだのは言うまでもない。
「あ、その……」
これはか弱い女性を自分が泣かせたことになるのだろうか。ルーサーがぐるぐるしていると、プリムローズはゆとりのない声で言った。
「今日しかないのです。お願いですから、今日だけは見逃して下さい」
この必死さはなんなのだろう。ルーサーはぼんやりと思った。
「誰かと約束をされているのですか?」
思えば、ルーサーとの婚約に乗り気でなかった彼女。
もしかすると想う男が他にいて、オルグレン卿のいない日を狙って会いに行こうとしているのかも知れない。そう考えると色々と納得が行った。けれど、プリムローズはかぶりを振った。
「いいえ。そうではありません。けれどわたくしには行かねばならない場所があるのです」
「こんな時間にですか?」
「はい。こんな時間だからこそです。夏至の夜でなければ意味がありませんから」
夏至の夜にどんな意味があるというのだろう。
彼女の願いを叶えてあげたいような気持ちになるけれど、だからといって見送れるはずもない。
「……どうしてもと仰るのなら俺も同行致します」
すると、プリムローズは観念した様子だった。どうすべきか考えた結果、返事をした。
「わかりました。けれど誰にも言わないと約束して下さい」
正直、彼女がそう答えたことが意外だった。それだけ切羽詰っているということでもある。
「はい。他言は致しません」
ルーサーがそう答えると、彼女はほっとした風だった。
けれど、その次の瞬間にルーサーは耳を疑った。
「では、わたくしを森まで連れて行って下さい――」




