第九話
(1)
「私、生まれてこの方、こんなにパンナコッタ食べたの、初めですよ。」
聞き様によっては、もしかしたら満足そうにも聞こえる呻きの後に、稔が誰にともなく呟いた。
顔を伏せたままテーブル上で視線を彷徨わせる稔に気の毒そうな眼を向けたあと、克は手に持った水滴の浮き上がったグラスに口を付けつつ、再び直線距離で10メートルほど先にある、白いペンキの塗られた木造りのドアを眺める。数々のアトラクションが林立するこの空間においてそれは甚だ不釣り合いで、だからこそどこか人を食ったような不思議な魅力を醸し出していた。佑子の声が、そんな克を白昼夢の境から引き戻す。
「あ、ごめんね。もしかして、余計に気分悪くしちゃったかな…。ごめん、少しでもさっぱりしたものをと思ったから…。あの、猪山さん。もし他に食べたいものがあるんだったら、遠慮なくそれを食べて。大丈夫、この残った分は全部私が食べるから。」
佑子の真摯な目が稔を突く。稔は慌てたように、スプーンを握る手の動きを再開した。
「あー、えっと、そんなこと…あー、だから、大丈夫です。私も出来ればさっぱりしたものを食べたいと思ってたんです。え、いやさっきのは、単なる感想というか…いえ、だから他意なんてないんですよ。うん、美味しいですねこれ…いくらでも入りそう。」
(だからって、パンナコッタばかりこんなに持ってくることはないよな。やっぱ、狙ってやってんのかね。この笑顔…篠原って、俺が思ってたより計算高い女だったのかな。)
稔の隣に座る克が、パンナコッタを挟んで笑い掛ける佑子を半眼で眺めた。グラスを置いた瞬間、首を絞められたあの日の映像が廻る。グラスはほんの少しだけ、テーブルの上を滑った。
(なんで今…だってあれは…。いや、いい加減気付けってことなのかもな…。って、誰の警告だ、神様か。)
愚にも付かない思索に、克が苦笑する。
「何ですか。」
笑い声が聞こえたのか、稔がジロリと克を睨んだ。遂に体がパンナコッタを拒否し始めたのか。頬がハムスターのように膨らんでいる。佑子の隣では、達雄がもくもくと口を動かしていた。
(しかし石川も、考えてみればすごいよな。自分の方から告ったにしろ、朝は他の男…ま、俺なんだけど…のところにおさんどんしに行くのを容認したうえ。デートではパンナコッタ攻勢にも文句一つ言うことなく耐えて見せるとは…結構大物なのかもな、こいつ。)
「ちょっと、何とかいいなさいよ。」
今度はちゃんとパンナコッタを飲み込んだ稔の、やけに通る声が敬語も忘れて再び遺憾の意を表明した。克は覆いかぶさる様に睨みを利かせる稔に、圧迫される様にのけ反った。どうやらこの怒りには、食事に際して加勢を怠った、仮称彼氏に対する抗議も多分に含まれているようだ。
「ん、んー、えっと、だな…。あ、おい。」
迫りくる稔を押しとどめる様に前に出した手を振っていた克が、急に真剣な顔で自分口元に人差し指を突き付けた。
「えっ。」
稔はハッとしたように手で口元を押さえると、慌てたようにバックから何かを探し出した。
「稔、お探しのものはあっちにもあるぞ。」
克は立ち上がると、稔の肩を軽くたたいた後、例の白いペンキを塗られたドアを指差した。稔は克の指に引っ張られるかのように首をドアの方に向けたあとで、また克に抗議の眼を向けた。
「え、どこ。って、ないじゃないですか、そんなの。まったく、邪魔しないで下さいよ。」
稔は心底迷惑そうに言い放つと、またバックをあさり始めた。それを笑い顔で見ていた克が、佑子と達雄に立ったまま目を向ける。
「どうかな、食後だし、次はあのアトラクションなんか。」
「ふーん、ミラーハウスか。いいわね。どう、石川君。」
何が嬉しいのか、佑子は上機嫌で達雄に勧める。達雄に当然否やはなく、スプーンを口に咥えたままで軽く頷いて見せた。
「んじゃ、決まりだな。…何してんだ、稔。ミラーハウスで大写しになる前に化粧直しか。彼氏としてそういう気配りは嬉しいけど、そういうことは食事の後にしろよな。」
「…先輩、人さまで遊ぶのも大概にしとかないと、仕舞には怒りますよ。」
克のあっけらかんとした声に、稔のドスの聞いた言葉が包まれる。稔の手鏡の中では、引き攣った笑顔が、天井を見下ろしていた。
(2)
白いドアの向こうには、背後の喧騒は移り込んでいなかった。
「お先。行こっ、石川。」
心得たものだと言わんばかりの意味ありげな視線を克に残して、佑子は達雄を誘って鏡の縁に吸い込まれていった。
(やれやれ、どういうつもりなんだか。…まぁ、俺も何だが。)
克は蝶つがいの錆びれ具合を予想させる音に耳を傾けながら、視線を空に移した。今の克が憎らしいと感じても、しょうがない様な晴れやかな青。ときおり吹く風が、頭の中を冷やして通り過ぎる。
「そろそろ私たちも、入りましょうか。」
佑子と達雄が消えてから間もなく、稔はそわそわしながら克を促す。よっぽど佑子たちと早く合流したいのだろうか。
食後、満場一致でミラーハウスに招待されることが決まった一行に、当然と言えば当然の問いが提出された。
『それで、本田たちと私たち、どっちから入る。』
(確かに、誰もいないテーマパークで一人遊ぶのは、かなり苦痛だろうな。)
再び頭をかすめた問いかけに、克のもってまわった思考が遠回りして回答を出した。
そう、確かにテーマパークは大勢でわいわい騒いで歩いても、楽しい。しかし、一つ一つのアトラクションを見れば、そうでもないものも当然混じっているわけで…。
(それは、ミラーハウスは、物見遊山じゃあるまいし、人数そろえてがやがややって面白場所じゃない…だよな。俺もそう思う。ましてや、今回は恋人同伴なんだから、もし誰も言わなければ、ミラーハウスの雰囲気を効果的に活かすためにも、多分俺も同じことを言いだしたろう。だから良いんだ…結果的には。しかし…)
言い出したのは、他ならぬ篠原佑子だった。
克がミラーハウスの中に踏み入ったのを確認してから、稔がそっとドアを閉める。すると、潮が引く様に、そして嘘のように喧騒がなりを潜めた。
そこは人が十人入れるか入れないかといった程度の広さの空間で、正面にやや細めの通路が開けていた。係員の姿や、アトラクションの案内が書かれた看板のようなものは見当たらず、天井の格子模様だけがどこか現実離れして感じられた。
「あの…先輩。行きましょう。」
遠くを見るような目つきで佇む克を、稔が確かめる様に促す。
「あ、ああ、そうだな。」
稔の言葉に引かれて、ようやく現実に帰って来た克の頭が、風船のように左右に揺れた。克は稔に聞こえないように、一人苦笑を噛みしめる。
(傍目に解るほど動揺してるのか、俺。好きか、嫌いか…もちろん嫌いじゃない。だから…とは、口が裂けても言えないけど、心中穏やかでは居られない部分はあるよな。…なんせ、いろいろあった。俺は…)
とぼとぼと頼りなさげに、後ろに続く克に、稔がチラチラと視線を送る。そのある一瞬を、克の目線が重なった。
「…なぁ、猪山。」
「は、はい、何ですか。」
不意の克の真剣な表情、真剣な声。稔は勢い姿勢を正しつつ、上ずった声で応えた。しばし、足を休める二人。稔の背後の鏡の奥に、朱に染まった稔の顔が移り込んでいる。
「実際のところ、お前にはあの二人、どんな風に見えてるんだ。」
「へっ。」
「篠原と、石川だよ。まともな彼氏彼女さんなのかな、ってことだ。」
「あっ、ああ、そのことですか。」
稔は暗がりを探る様に背中越しに手を伸ばすと、鏡面に映る克の強張った相貌を押しとどめるように、その肩の辺りに手を突いた。蛍光灯の明かりにも、ベタベタと通路を埋め尽くす指紋が、はっきりと見てとれた。
「それは、ラヴラヴっていう風には、その、ちょっと見えないですけど…。でも、篠原先輩だって、まだ、えっと…足りないところがあるのは解っていて、…解っていたから、私たちを付いてこさせたわけで、だから…。」
「そんなこと自体、考えることからして、あいつらには余計なお世話だと。」
「そんなことは…。でも…。」
いつになく諭すように追及を続ける克に、稔は心底困った様にしていた。克の疑問に、あるいは自分の内なる疑問に対する答えを探し求めてか、その視線は落ち着きなく辺りを彷徨っている。そして、ときおり見つかることを怖がるように、入口の方を確認する。そう、確かに入口を、佑子と達雄が向かったのとは反対のドアを、気忙しそうに見つめていた。
克と稔の他に、通うもののない鏡の一本道。ピッタリと背中を鏡に合わせるようにもたれ掛かっていた克が、身体を丸める様に少し小さくなっていた稔に、小さな笑いをこぼした。
「お前、いい奴だな。」
「…あの、私。」
「変な聞き方して悪かったな。俺、てっきり、猪山は篠原に嫌われたくない一心で、あいつの頼みを聞いたもんだとばかり思ってたから。…その、俺にも思うところあって…それで、なんだな、猪山のことをけし掛ける様な言い方をして…すまなかった。」
稔は不思議そうに、切なそうに、表情を映しだして、最後には少し照れたような笑顔を見せた。
「先輩間違ってない。だから、いいんです。確かに私、篠原先輩が石川先輩とお付き合いするって聞いて、少しその不安だった。それに、遊園地に一緒に行くことで、…ここで、そんな篠原先輩を見るのが、やっぱりちょっと怖かったですから。でも、それでも、私…篠原先輩のこと、好きなんです。」
稔は仄暖かい何かを抱きかかえるように、抱きよせるように、胸の前で左の手を右の手で包み込んだ。その顔には、くっきりと安堵が映し出されている。
克は背で壁をはじく様にして、また二つの脚を支えに通路に立つ。克は今日初めて、自分の義足を意識して、少し大げさに笑顔を作ってみせた。
「あれ、えっと、違うんですよ。その、好きって言うのはですね、別に変な意味じゃなくて…。これはですね、尊敬とか、憧れであって…。」
突然、顔を真っ赤にした稔が、弾かれたように、何やら弁解をはじめた。急に顔を上げた稔に、頭をぶつけられそうになって克がたじろぐ。
「はい、はい、解ってるって。お前が奥手だってことは。でも、やっぱ伝えるなら、本人にした方がいんじゃないか。あ、もちろん、彼氏のいないところでした方がいいだろうけど。」
「だっ、ちが…。」
「好きなんだろ。」
「えっ…。あの…。」
四方に配られた鏡を無視する様に、稔は良く通る声で克に対して必死の弁解を試みる。が、その言葉は語気の強さとは裏腹に、意味らしい意味を表してはいない。
克はそこが通路であることも忘れたように、湯でダコの様に赤くなる稔に、白い歯が除くほど口元を歪めて、楽しそうな面構えを向けた。
「そ、それは、もちろん好きですけど…。そうだ、本田先輩の方こそどうなんですか。」
「あ、俺。」
稔が何かを悟らせまいとして、熱くなった頭をフル回転して話を逸らす。その口調は、よっぽど顔面に集まった血の量が多かったのか、のぼせあがった様に覚束ない。
「私、ちゃんと覚えてますから。先輩、言ってましたよね、ついさっき。『思うところがある。』って。これ…その、本田先輩も篠原先輩のことが、実は好きってことじゃないんですか。」
湯上り直後の様な、眼の周りの筋肉の緩み着た顔つきで、楽しそうに少し首を傾げた稔が覗き込むように克に尋ねた。探る様に、後ろ手に指先を隠して。
そんな稔に、克は口元に手をやると、むっつりして視線を逸らした。
「ど、どうなんですか。」
克の急な態度の硬化に、稔が不安そうにどもりながら言葉を繋ぐ。しかし、追及の手が緩められることはない。
決してよく磨き抜かれたとは言い難い…このミラーハウスの一枚一枚の鏡が今、稔の期待と、蛍光灯の明かりを受けて鈍くも乱反射を続ける。覆いかぶさる様なオレンジがかった光。そして克は悟ったかのように、解っていたはずの事を、さっぱりしたような顔つきで口にした。
「好きだな。篠原のことは好きだ。…あっ、俺もお前と同じで、変な意味じゃないけどな。」
しばしの間噛み合う、二人の視線。克の薄い微笑みの向こうに、稔は何かを探り出すことが出来たのだろうか。不意に、呆れたように、安心したように稔がやや大げさな溜息を漏らした。
「なんだよ。」
帰ってくるのは、茶化すような克の声。その声に稔が、珍しく余裕のある態度で応答した。
「いえ、残念だなって。」
「んっ。」
「私、篠原先輩が彼氏作る様なことがあるとしたら…いや、ふと思っただけなんですけどね。えっと、だから、篠原先輩の彼氏になる人がいるとしたら。それは本田先輩なんだろうなって思ってましたから。篠原先輩、本田先輩には自然に頼る様にしてたし…私にはそう見えたな。」
そこまで言い終えて、稔が両手を伸ばし、身体を左右に振る様にしてストレッチを始める。
「でっ。」
「『でっ』って、何ですか。」
克の至極当然とも言える要求に、稔は疑問で返す。ストレッチの片手間に。その声には、身体の動きと一緒にけだるさを追い出すような、爽快さがある。
「解らんか。…そうか。だから、『思ってましたから。』の内容が、『残念』であることに繋がっているように、俺には、到底思えないんだけどって、こと。まだ、解りません。」
「ああ、そういうことですか。」
鏡のあちらこちらで動き回る、稔のいかにも「何を解りきったことを聞いているんだ。」とでも言わんばかりの、小さく蔑む様な笑顔。いつも冷静に見える克の薄笑いにも、やはり癇に障ったのか、心なしか険が加わる。そんな様子を知ってか知らずか、稔は少し勿体ぶる様に話し始めた。
「だーかーらー。もし、篠原先輩の彼氏が本田先輩だったら。一発殴らせてもらえたのに、残念だな。…ってことです。解りました。」
「お前の心が狭くて、強暴に出来てるってことは、よーっく、な。」
「ひどい、私だって篠原先輩の周りの男子が、優等生を絵に描いたような人ばかりだったら、こんなことは考えたくもないことんなんですけどね。」
「それじゃあ、そんなことを俺にいうのは筋違いだな。なんせ俺様は、我が学園の男子生徒の夢と希望のために尽力している、超優等生だからな。…なんだね、その侮る様な眼は。教師にだって信頼があるんだぞ、俺の仕事は…ごく一部の教師限定だけどな。」
「そうそう、学校の裏を取り仕切る、こわーいお兄さんなんですよね。そう考えると、そんな人とこうして密談してる私って、結構大したものかも。」
「そうだな。しかも俺、二、三度は確実に脅迫されてるし。いやー、大したもんだよ君は。自身を持ちたまえよ。」
何かを確認するように、楽しそうに捲くし立てあう二人の会話。お互いに満足したのか、その会話だったものは、笑顔で幕を閉じた。
「それで、どうしたいんですか、先輩は。」
心の整理がついた稔が、克に遂に先を促す。その表情にくったくは、なかった。
「あれ、初めの質問は、俺がしたんじゃなかったっけか。」
「だって、それは私に何かをやらせたかったから…あんな回りくどい聞き方をしたんじゃないんですか。」
悪だくみをする友人の胸中を見透かした子供のように、稔が得意気な様子を匂わす様に、尋ねた。対して克は、少し困った様に後ろ髪を無造作に掻く。
「んー、まぁ…ね。そうだな、俺としてはとりあえず、これ以上邪魔になるような真似はしたくないかな。それでなくても、いろいろと行動も制限されてる訳だし。」
「『行動』、『制限』なんのことですか。」
「あー、えっと。なんでもない、あくまで俺自身のことだから。おっと、それより、聞こう聞こうと思ってたんだけどな、今回、遊園地に初めに相手を誘ったのって、篠原か、石川か。どっちだ。」
痛いところを突かれた克の、あきらかな挙動不審気味の振舞い。その必死さが功をそうしたか、稔は不審そうな、どこか拗ねた様な顔を作って見せたが、一応応えてはくれたようだ。
「…石川先輩だって聞いてますけど。…また。いったいどうしたんですか。」
「いや、今度のはさっきのとは違うんだけどね。…解ってはいたけど、自分があからさまにお邪魔虫しに来てることの確認がとれたから…なんつーか、わが身が情けないというか…。」
頭を抱えて、いかにも嫌そうな顔でその場に座り込む、克。稔は鼻を鳴らすと、心底呆れたように腰に手をやってその姿を見下ろした。
「何を今さら。たく、好きだっていったくせに、思いが足りないからそうなるんです。はいはい、詰まらないこと気にしてないで、さっさっといつもの無神経で、手際の言い先輩に戻って下さい。」
「んーっ、そうだな。そのとおりだ。さすがは猪山。ま、俺を恐喝してまで、篠原に近づこうとした奴に、羞恥心もへったくれもないよな。あっはっはっは…はーっ。」
手を叩いて克を急き立てる稔に対して、克も笑い声とため息で対する。そしてまた向かい合う、痛めの笑顔。二人の仲は、けっして悪いものではないだろう。…だが話は進まない。
ようやく二人もそのこと察したのか、どちらともなく照れたように視線をそらし、咳払いで間合いが生まれる。そして、蛇行続きの道が目的地へと再度修正された。
「ん、んっ。で、石川先輩から誘ったたから、どうなんですか。」
当然克に否やはなく、問題なく合わせる。
「ああ、とにかく石川のやる気のほどを知っときたくてな。ま、少なくともこれで石川にその気があるのが解った訳だから、自ずと俺たちの身の振り方も決まってくるよな。」
「あの、一人で納得されても…。説明してもらえません。しかも、どうして石川先輩なんですか。」
問題解決に向けて楽しそうに頭を回す克に今度は、稔が座り込むと肘に頬杖付いて話を聞くための態勢を整える。そんな従順な生徒の登場に興が乗ったのか、克は得意そうな顔を一層広くして講義を始めた。
「うん、えーっと、まずは猪山の勘違いから解いておかないといけないな。っと、あー、一応先に釘を刺しとくけど、これはあくまで俺がそう考えてるってだけで、それ以上でも以下でもないから。そこのとこ、よろしくな。よろしいか。」
克の問いに、稔は頬に右の掌を張り付かせたままで簡単に頷く。
それにしても、二人以外に見る者のないこの鏡の部屋の、現実には狭い一本道のはずのこの足もとのなんと深いことか。克は視界の端に連なる合わせ鏡の向こうの稔に、改めて前置きするかのように小さく唾を飲み込み、そして話し始めた。
「猪山。お前、さっき、篠原が石川と仲を深めたいと、そう思っているから俺たちに同行するように頼んだ、みたいなこと言ってたよな。ま、篠原に何か言い訳でもされたから、お前がそう考えるに至ったんだろうが…。俺は、それは篠原の考えとは違うと思うぞ。」
克の言葉の端々で、稔は相槌を打つように首を縦に振ってみたり、視線を動かしてみたりと、黙ってはいたがなかなか興味深くそれを聞いているようだ。克は稔のそんな様子に満足したのか、休むことなく話を続けた。
「たぶん、逆だ。猪山の考えているのとは。つまり、俺たちがいることで、石川と効果的に気安い関係を作ろうとしているんじゃなくて…単純に、二人きりでの遊園地っていう状況を想像できなかった。自分の想像が及ばない様な状態になるのを避けようとしたために、俺たちのことを使ったんだろ。とは言っても、別に石川の事を嫌ってるわけでもないだろな。だったら篠原の性格からいって、とっくに別れているだろうからな。だから、ようするに、俺たちは篠原にとっては、石川との間に挟まれた緩衝剤みたいなもの何だろうな。ん、ほら、あれのことだ。わりによく見かける、ビニール製のプチプチの…。」
克は上機嫌に話を進める。しかしこの理屈っぽさが、聞くものにまで伝染するはずもなく、稔はポッカンと口を開けて、克の方を見上げている。そんな残念ながら色気の乏しい姿に、克が己の弁舌の飛躍ぶりやや照れ気味に、稔に参加を求めた。
「お、おい。どうしたんだよ…てか、そんな顔されても、正直困るんだけど。」
「あー、いえ、すいません。その、少し驚いてしまって。何か、良く解ってらっしゃるんだなって思って。」
「んっ、これくらい普通じゃないか。その、何だな、そんなに人間関係の考察としては大したこともないんじゃかなっと…。」
「いや、そうじゃなくて…篠原先輩のこと良く知ってるんだなって思って。」
稔にそう指摘された瞬間、克の眼を見開く様にして固まった。その克の内側を、軽い戦慄が走った口元を、稔がどの程度まで推察していたかを、ただただ感心したその表情から窺い知ることは簡単ではない。そして突然のこの感情は、克にとっても理解しきれないものだっただけに、彼にとって自分の今の表情をなんと例えるかを決めるのは、いっそう困難なものだったろう。
(俺は何で…そうだ、さっきの篠原の妙な態度も…。あいつ確かに楽しそうにしてたんだぞ。俺は何故そのことを考えてなかったんだ。くそ、他人に言われて初めて気付くとは…。俺は篠原と距離を置くとか、あいつのためにとか理由を付けて、自分の立場を考えてなかった…いや、考えないようにしていたのか。…マジ、なさけねぇ…。)
本日二度目の、胸に詰まる様なフラッシュバック。克は何とも渋い顔を移した自分の足もとの鏡を眺めながら、今しがたまで背負っていた荷物が急に消え去ったような、形容し難い虚脱感に身を浸していた。
「ほんっとに、変ですね。ここに来てから…。」
無表情で克の様子を見上げていた稔が、ぽつりと呟く。克は斜に構えたままで、視線だけ稔の方に向けて答える。
「それを言うなら、お前と話し始めてからだろ。…いや、確かにここでなきゃ、俺がこんなにも表情豊かな野郎だったってのは、解らなかったろうけどな。」
克は顔を何度も荒っぽく撫でる様にして気を正すと、今一度己を奮い立たせる。稔は相変わらず、しゃがんで大人しくその姿を観察していた。
「でだ、猪山。さっき、『何がしたいかって』、俺に聞いたよな。確認するけど、それは俺のやることを手伝ってくれるってことか。」
稔はようやく自分の出番が来たかと言わんばかりに、鼻息を一つ吐き出すと、立ち上がってより近い高さで克と視線を合わせた。足が痺れたのか、膝から下を落ち着きなくふらふらとゆすっているのが、この場所では大げさに目を付く。
「やってもいいかな…とは、思ってます。本田先輩が、私と同士だってことは、よく解りましたから。まぁ、内容にもよりますけど…。で、どうするんですか。邪魔したくないって言ってましたよね。とりあえず、このまま二人でいなくなっちゃいます。」
稔のこれまでにない、探る様な、茶化すような態度。それをどう判断したのか、克の反応は、まるで役割分担でも意識したように率直なものだった。
「それは不味いだろ。それをやったら、篠原の性格からいって、俺たちの所在が明らかになるまで、自分たちのことはそっちのけで探して回るだろうからな。」
「それじゃあ、篠原先輩にだけ事前に連絡を入れておくのはどうでしょうか。」
「なんて説明する気だ。そもそも俺たちは、急造のカップルだろうが。そんなことしたら、篠原にいらん想像をさせて、二人の邪魔をしてしまうはめになりかねないだろ。」
「んっ、まぁ、そうかもしれませんね…。」
克に理路整然と論破されて、稔はどこか詰まらなそうに眼を逸らす。同時に稔の足の動きが、床をつま先でけりつける様なものに移行した。
(そもそも、二人でいなくなって、理由まで作ってから、そのことを篠原に連絡したら。下手したら、命にかかわる事態に成りかねないしな。んー、しかしこの思考はやや自惚れ過ぎか…。いや、こと篠原に関しては、よくよく考えておいて考えすぎってことはないだろ。…お、やっぱりな。)
一人共感する者の望むべくもない思考を彷徨わせていた克のポケットで、そんな虚構を裏付ける様に携帯電話が振動する。克は件名を確認することもなく、開いた液晶画面を稔の前に突き付けた。
「ほらな、ちょっとアトラクションから出るのが遅くなったくらいでこれだからな。急に、二人でいなくなったとして、良い風にさっして、石川と二人で遊園地を満喫してくれると思うか。」
「いや、それより、携帯にでなくていいんですか。篠原先輩、きっと待ってますよ。」
至極当然のことを克に尋ねる、稔。克はしばらく液晶に予想通り表示されていた篠原佑子の名前に見入ったあとで、
「ふむ。」
と小さく何かを納得したような声を漏らすと、おもむろに手の中で蠢くものの息を殺した。
「あっ、ちょっと、何、電源落してるんですか、それじゃあ…。」
「いいから、ここでいちいち話すより、ここから出てから言い訳した方が早いだろ。第一、施設内での携帯電話の使用は非常識だろ。だからお前も、篠原から着信来ても、切れとはいわんが無視しろよ。それが、身のためだ。少なくとも、幻滅しないですむだろ。よし、んじゃ、行くか。」
「へっ、『身のため』、『幻滅』。行くってどこにですか。」
「決まってるだろ、出口にだよ。」
「だって、まだ相談し終わってないじゃないですか。私、何をさせられるのかすら聞いてませんよ。」
「そんなの、歩きながら話せばいいさ。ほら、急ぐぞ。(でないと、篠原が逆走して来かねないからな。)」
稔への返答もそこそこに、克は足早に歩きはじめた。流れる鏡の中で、景色がせり上がったり、沈んだりと、刻々と移り変わる。おそらく、今になって初めて克と稔は、このアトラクションの本来の楽しみ方を体感しているのであろう。ただ、本人たちにその余裕があるのかは、定かではない。テーマパークとはいえ、訪れる者はみな一様ではないのは、また事実ではあるが…。
そして克は携帯電話をポケットに仕舞いながら、改めて思った。
(とにかく、篠原に積極的になってもらおうってのは、やっぱり無理があるな。この様子じゃ
…。そもそも石川に対して好意持ってるのかさえ、怪しいもんだし。…何にせよ、俺のやるべきことは…やれることは…。)
目の前に遂にドアが現れた。それは、入口と同じ白いドア。しかしノブの位置が逆さまだ。そして、おそらく内開きだろう。
克は稔を待ち構える様に、たちどまり、振り返る。稔は克のペースについてくるのに小走りいなっていたようで、軽い息をつく。そして、まだノブに手を掛けていない克に対して、奥歯にものの挟まったような、やりきれない表情で、声を荒げた。
「変。先輩、絶対変ですよ。さっきから…もしかして、篠原先輩たちのこと…私のこと茶化したいだけじゃないんですか。本当、いったどうしちゃったんですか。」
稔は今一つ要領を得ない克の態度に、そしてそう思う自分の考えを、言葉を、試す様に強く疑問を投げかける。この時、克に明確な答えが用意されていたのだろうか。
克はドアノブに手を掛ける。確かめる様に握る手のうちから、確かな金属の音が答える。
「猪山には悪いけど、俺、難しいことは何も考えてないんだ。…ただ、ここまで来て…見過ごすことは、それはないんじゃないかって思うんだ。だから…。今から俺が頼むことが、単なるお節介だと思うなら。そのまま、忘れてくれていいから…。あとさっ、俺としてはそんな気なかったんだけど、猪山にとってからかってる様な態度に映ったんだとしたら、すまなかった。」
最後の最後の、克の殊勝なセリフ。稔は少し拗ねた様に目線を落として、それでも克の傍に身を寄せて、次の行動を待つ。
克は嬉しそうに稔の仕草を確認すると、ノブを回し、ドアを引いた。瞬間、今生まれ出たかの様に、世界中に喧騒が帰ってくる。そこへ二人は、危なげな足取りで進みでる。
久しぶりの日差しに少し目を細めながら、いつも通り柔和な顔つきで弾む様に話しだした、克。いったい稔は、その言葉をどんな風に呼びとったのだろうか。
蝶つがいの軋む音をさせ、今しまったばかりの白いドアに、今日の太陽が映り込んでいた。