第八話
(1)
佑子が自分と入れ違いに、克と同じカップに腰かけた稔を、眼の端の軋む音が聞こえそうな程の険悪な眼で睨んだ。そのコマ送りのような画像のたった一人の目撃者の克は、佑子が達雄のカップに座ったのを横目で見ながら、つくづく思う。
(篠原も、篠原だが。俺もさっきからどうにかしてるな…やっぱ、俺も…そりゃ、簡単に割り切れるわけないよなぁ。)
克はカップの縁に肘を突くと、情けなさそうな顔で、貝殻の様に過剰に光を反射している天井を仰いだ。
克の不安材料が増えたのは、ついさっき、いざ四人がカップに乗り込もうとした時のことだった。克の座った入口から一番近いカップに、佑子が何の躊躇もなく腰をおろして見せたのだ。さすがに、稔も当のカップの前で困った様に足を止めた。佑子はその様子を見ると、
「どうしたの。早く乗りなよ、猪山さん。」
と克にすり寄ってスペースを作りながら、稔を誘った。
「え、でも…。」
稔は、自分の後ろで立ちすくんでいる達雄に、目線を走らせながら、カップに手で押さえる様にしていた。そこで克が、口を挟んでしまう。
「篠原、やっぱこういうのは二人で乗るものじゃないか。」
「えっ、そうかなぁ。じゃあ、猪山さんは、石川と…。」
「いや、そうじゃないだろ。お前さ、何のために遊園地くんだりまで出向いてきたわけ。俺の言いたいこと解るだろ。」
「…でも。」
視線を足元に向けたままで、頑なにその場を動こうとしない、佑子。克は今度は、達雄に尋ねる。
「石川も、そんなとこに居ないでさぁ。お前だって、篠原と二人でカップに納まりたいだろ。」
克に言葉の矛先を向けられた達雄が、困ったように視線を彷徨わせる。そんな拙すぎる、仮称新米カップルに対して、克は深いため息を一つ吐き出した。
「たく…。稔、おまえも立ってないで座れよ。…いいから。」
稔は強まった克の語気に少しうろたえながらも、佑子の出て行けるだけのスペースを確保しつつ、克の正面に陣取った。克がもう一度、佑子を促す。
「ほら。もう、このカップは俺と稔で満杯だ。回るんだぜ、このアトラクション。こぼれたら大変だろ。それに比べて、あのカップの寂しそうなこと。ほら、こここそ彼女の出番だろ。な、俺の彼女の稔くんも、あの惨状はほっとけないと思うよな。」
「え、そんな。えーとですね。…はい、私もそう思います。だから、篠原先輩も私たちに気を使わないで、石川先輩の所に行ってあげてください。本田先輩のことは、私が全面的に任されますから。」
「頼もしいな。そういうことだから、篠原は遠慮なく彼氏の専念してくれ。ほら、行った、行った。」
佑子は信じられないとでも言いたげな顔つきで克を見つめたあと、半ば強引にカップの外に押しやる克にされるがままに、よろよろと進み出た。達雄はいつの間にか、近くのカップに収まって、小さくなっている。
(へぇー、あいつも、まんざら行動力ないわけじゃないないんだな。)
感心しながら佑子が居なくなった途端に、克は寛ぐような笑みを稔に向ける。
そんな稔に、カップから降り立った佑子が一睨みをくれたのは、稔が克に照れたような、どこか困ったような表情を返した直後のことだった。
佑子が無言で達雄の正面に腰かけると、カップ一斉踊り始めた。克の視界の端には、唇をへの字に結んで、全身で拗ねきった心情を表現する佑子と、ちらちらとその様子をうかがうことしか出来ない達雄の、煮え切ったカップの様子が飛び込んでくる。
(俺、何をあんなにむきになって、篠原のこと追い出したんだろう…。別に四人で乗っても、何も問題ないよな…。)
克はゆっくりと移り変わる眼前の景色に身をゆだねながら、グッと背をカップの縁に擦り付けた。
「あの、その、大丈夫ですか。」
気乗りしない様な克の様子に、稔が何かをはばかる様に声を掛ける。克は眼の下に涼しげなものを感じながら、稔を見つめる。
「猪山、知ってるか。このカップ、そのハンドルをカップの回転とは逆に、つまり時計回りに回すと…どうなるのか…。」
「いえ、知りませんけど。えっと、ちょっと、やってみてくださいよ。」
稔が少し口元を歪ませながら、克に催促する。克は済ました顔で、稔にハンドルを掴む様に手で軽く勧める。稔は胡散臭そうな顔をした後で、ハンドルに両手で掴みかかると、躊躇いなく動かした。
他のカップの中から少し、抜きんでる様にテンポを上げる二人の杯。稔が遠心力に押し戻される様にシートに圧し掛かる。
「あ、速くなってますね。こういう仕掛け何ですか。へぇ、速い、速い。よし。」
生暖かい目で見つめる克の前で、稔がかぶり付く様に加速を加え始める。速度が増すごとに、克面白そうな眼が大きくなる。そして…。
「…気持ち悪い。」
稔が倒れ込む様に、元の位置に落ち込む。克がくぐもったような笑い声を漏らした。
「この前の、マイクロバスでの移動のときから思ってたんだけど。お前、酔い易いんだな。あ、注意するのを忘れてたけどな。ハンドルを回すの止めても、しばらくは速度はそのままだから…すまん、先に言うべきだったな。」
「謀りましたね…。く、なんて卑劣な。」
「謝ってるだろ。だから、吐かないでね。」
苦しげな稔に、克が非常な宣告を軽く伝える。
佑子たちのカップが近くにあって、幸いだったかも知れない。高速で回る克と稔には、近距離にいる彼女と、彼女の瞳が捉えずらかったはずだから。少なくとも克は気付かなかった…佑子の黒い瞳の奥に。
ようやくカップは止まり、四人はまた交差する。地の人混みに比べて、空は広い。
(2)
今、園内を歩く克の隣には、達雄が居る。
克は不審そうな眼で、前を行く仲のよさそうな佑子を、そして稔を見た。
コーヒーカップを降りるとすぐに、佑子が稔の傍に寄って来て…そして、何故だろうか…抱きつく様にして腕を組んだ。
ペンキでも引っ被ったのかと思う程赤面する稔と、少し気味悪そうに顔を引き攣らせる克を尻目に、佑子の笑顔を穏やかで、魅力的だった。
(いきなりだからな…しかも、あの後に…。さて、篠原のやつ何を考えているのやら。)
佑子の奇行に対して、余裕をとりもどした克は、それでも二人から目を離すことはない。彼女には、前科もある…。そして、当然達雄から文句が出ることもない。
嬉しそうに佑子と会話を交わす稔に、佑子が爆弾を投げたのは、稔が近くの海賊船のアトラクションを怖々と見上げたのと同時だった。
「ねぇ、猪山さん。今度はあれに乗ろう。ね、私と一緒に。」
「あ、あれですか。」
佑子が指示した先では、人を満載した連なりが、超が付く様な高速で駆け抜けている。どこをなのかと問われれば、四人の遥か頭上を。そして、何度も回転している。もちろん、横ではなく縦に。
そう、佑子は屈託のない笑顔で稔を、遊園地の花形、ジェットコースターに誘っているのだ。佑子にしっかりと腕を繋がれたまま、血の気の失せた顔面を空に向けながら固まる稔。
克が仕方なさそうに、頭を掻き掻き助け舟を水面に放つ。
「あー、お二人さん。ジェットコースターに攻め入るのは、悪くないけど。どうかな、少し早いけど、込み合う前にどこかで昼食にするのは。な。」
まだ、動きを取り戻さない稔に代わって、佑子がにこやかな顔を見せる。
「そうだね、昼食を早めにとるのは賛成。でも、とりあえずこれに乗ってからにしよう。せっかく列も空いてることだし。いいよね、猪山さん。」
間髪入れずに決定を稔に委ねる、佑子。稔はどこに残っていたのか、なけなしの笑顔でその誘いに応じた。
「もちろんですよ。それじゃ、並びましょうか。」
ぎこちない足取りで進み出る稔に、佑子は満足そうな笑みを浮かべる。
「おい、大丈夫かよ。…俺のこと、ダシにしてもいいって言ったよな。なんなら、俺から口にしてもいいんだぞ。」
克は稔の隣に付くと、その耳元で心配そうに囁く。稔は相変わらず固い印象の顔つきで、それでも笑って見せた。
「いいんです。私、最初っからこういうことになることは、十分覚悟してきましたから。…それに、篠原先輩から誘ってもらえるなんて…私、嬉しくって。だから、先輩。その気持ちは、有り難う…でも、邪魔しないで下さい。」
稔は申し訳なさそうに、だが断固として言いきった。克は小さく息を吐くと、顔を上げた。その視線が佑子の笑顔にぶつかる。楽しそうな…底なしに、あざとい顔。
(ま、篠原が気付いてないわけ無いとは思ってたけど…。ちっ。思ったより根の暗い女だな…いや、ほとんど俺のせいか。…少なくとも、先にやったのは俺…そうとでも言いたそうな顔だな、ありゃ。)
ベルトコンベアのように軽快に進む列。克は静かすぎる達雄に責める様な眼を向けた。
(解ってのかね、こいつには。どちらにしろ、俺は知りたくなかったよ。)
克は優越感にも似た、得体のしれない疲労を抱きかかえるようにして、ジェットコースターに座る。安全装置が閉まり、もう稔の様子をうかがうことは出来ない。隣では、何か気になるのか、達雄が窮屈そうに身じろぎを繰り返している。
動き出したジェットコースター。この間、降りるまでに特に何事も起こらなかった。ただ、克たちが元の位置に返ってきたときに、達雄が気絶していたことを除いては。遠くで、手を叩く様な声が、休みなく繰り返されている。
(3)
薄い影を所々に作り出す今日の空に、調子の外れた様な楽器の音が抜けて行く。
気絶から覚めて足もとの覚束ない達雄と、とにかく使い物になりそうにない稔を近くのテーブルに残して、克と佑子は昼食の調達に立った。
どうやらここは、ビュッフェの形式をとった店のようで、所狭しと並べられたステンレスの深い器からは、ない交ぜになっても衰えない匂いが、開け放たれた扉の向こうへと涼やかな風に乗って運ばれていく。深みのある焦げ茶色のテーブルが、薄暗い店内で良く日差しを映し、ゆっくりと食器を口に運ぶ者たちに寛ぎを与えている。こんなところまで、テーマパークとはつくづく別世界だ。
二つ重ねたトレーを小脇に挟んで、思案顔で食料を見下ろす克は、痒いのかしきりに左足の脛に右足の足首を擦り合わせていた。
(んー、あんな状態だったしな、油ものは避けとくのが無難か。…となると、俺もさっぱりしたもの食べるべきだろうな…彼氏としては…パートタイムでも…。)
ステンレスの深皿に映る己の歪んだ顔に顔を顰める克に、こちらも二つ重ねたトレーを後ろ手に持った佑子が、楽しげに近づいて来た。
「本田たちは何にするか決まった。」
小さくはにかむ様な笑顔。尻尾でも振るかのようにトレーを弄びながら佑子が訪ねてくる。言葉の出だしが上ずっていたのは、なぜだろうか。
「いや、まだだ。これだけあると目移りして、なかなか…。とりあえず、あっさりしたものにしたいとは思ってるんだけどな。」
「ん、そだね。私も本田と同じ気分だな。にしても残念だな、調理場かしてもらえたら、いつもみたく本田に自慢の腕を披露してあげられたのにね。」
「…いや、俺に披露してどうするんだよ。お前のターゲットはあっちだろ。それに今、食うもん選んでやらないといけないのは…お前、聞いてるのか。」
佑子はトレーで口元を大げさに隠すと、背後のテーブルに突っ伏している二人を親指で指す克にニヤついた眼で首を傾げて見せた。
「もう、怒ってんの。いいじゃん、ようやく楽しくなってきたんだから。はいはい、解ってますよ。あちらのお二人のために、私達で気分のさわやかに成る様なお食事を、見つくろっておばさしあげるんでござぁますよね。さって、まずはどんな料理があるかを二人で見なおさないと…。ほら、はぐれない様について来てくれたまえよ。」
佑子はダンスでも踊るかのように、軽やかに克に背を向けると、楽しげに体を揺らしながら芳しき回廊を先へと歩み出した。克は佑子の、いつの間にか尻尾に戻ったトレーを見つめる。
「篠原…猪山のこと、気付いてないはずないとは思ってたけど…解ってやったのか。やっぱ、わざとなんだろ。」
珍しく責めるような語気が佑子の小さな背中に落ちる。その髪は何の答も返さない。薄暗いテーブルの隙間は、日差しの影で出来ていた。