第七話
(1)
日曜日。とあるテーマパークの入口に克、佑子、稔が到着する。石川達雄はすでに入口近くのベンチに座り込み、陰気な顔を地面に向けていた。たじろぐ克と、少し口元をヒクつかせている稔を残して、佑子が達雄の傍に駆け寄る。
「篠原先輩…どうして、石川先輩何かと…。さすがの私にも、納得いかないところが…。」
少し困った様に達雄を促す佑子の様子を見ながら、稔が本心を述べる。克はそんな判然としない顔をした佑子の隣で、欠伸を噛み殺しながら、それでも律儀に応えてみせる。
「とりあえず、『何か』ってのは、失礼じゃないのか、猪山。仮にもお前の憧れの篠原先輩の、彼氏だろ。それに俺は石川のこと嫌いじゃないけどな、何より喧しくないし…静かだし。…何だよ。」
心底興味なさそうに私服を着崩す克に、稔が咎めるような視線を送る。
「いえ、何でも。それより、篠原先輩たちが呼んでいますよ。私たちも、行きましょう。」
怪訝そうな視線を送り返す克に、稔は済ましたようにして先に立つ。克は溜息とも欠伸ともつかない何かを手で押さえると、その後に続いた。
「いやー、石川。せっかく篠原と遊ぼうってのに、俺たちまで割り込んで悪かったな。稔が…あ、紹介した方がいいか…そうか。で、こいつがどうしても、お前たちとここを回りたいって言うもんだから。これ以上、お前たちの邪魔になる様なことだけは避ける積りだから。勘弁な。」
「…いえ、いいんです。篠原さんからも、お話は聞いてましたから。今日はよろしくお願いします。」
改札を抜けた後、克が急に稔の肩を抱くと、達雄に話を振る。達雄はいったいどう思っているのかを読み取るのが甚だ困難無表情と、いつもの陰気な様子で、丁寧過ぎる言葉を返した。
そんな光景を、佑子と稔は唖然として見ていた。
「ちょっと、先輩。何で、私が言い出したことに成ってるんですか。そもそも、さっきまで眠そうにしてたくせに、手際良すぎじゃないですか。」
テーマパークのメインストリートを歩きながら、稔が小声で克に抗議する。喧噪の中で、その声は聞き取りづらい。
メインストリートに入ってから、克は稔を抑える様にして先行する佑子と達雄に距離を空けていた。その為か、不安そうにこちらの様子を窺う佑子の瞳と、今日もよく克の目線は重なる。
「そんなに小声で言わなくても、大丈夫だぞ。ここは図書室じゃないんだ。あと、褒めてくれてありがとう。」
「褒めてませんよ。だから、なんで私が言いだしこと成ってるんですか。せめて、事前にそう言うって言ってくれても、いいじゃないですか。」
稔の不満たらたらの顔。克はしきりに首を動かして、珍しそうに周りの建造物を見物していた。
「ん、ああ、すまん、すまん。でも、篠原から誘ったって言ってしまうと、あいつの思惑からはずれるし…お、あれ、何だ…でかいなー。解った解った、睨むなって。まぁ要はだな、俺から誘われたって言うのと、お前から誘われたって言うのでは、言われる石川にとってどっちが受け入れやすいかってことだよな。まず篠原が、遊園地に行くことを話すことから始まり、その結果、今回みたいに第三者が介入することになった様に見せたい訳だろ、お前たちは。しかも、それを篠原が断れなかったということにもなる訳だ。どうする、どうしても納得いかないなら、俺は今から『どうしても篠原達と、遊園地に行きたかったんだ。』って強調して来てもいいぞ。」
「…すいませんでした。つか、先輩のそんな姿からして、見たくありません。」
「ずいぶんな、お言葉だな。俺の演技力に関しては、猪山は身に染みて解ってると思ってたんだけどなぁ。」
赤茶けたプレートとアイボリーのプレートで綺麗に舗装された道を、言葉を交わしながら進む克と、稔。不平の有りそうな顔を見せながらも、稔は端々に笑顔を織り込んで見せる。これも、テーマパークという全体の雰囲気のなせる技なのだろうか。克は高く澄み渡った青空を見上げる。雲一つない空に、時折点々と風船が揺ら揺らと登って行く。そんな底抜けの明るさだけに、足元を塞ぐような建造物の影達がどこか重々しい。
(こういう気だるさが、お祭り気分の醍醐味でもあるんだがな…。)
そんないつになく感傷的な克を現実に引き戻したのは、寂しそうな稔の声だった。
「あっ…。」
稔の見る先には、手を繋ぐ佑子と達雄の姿がある。そんな情景に、克と稔は近づいて行った。
「ね、まずはあれに乗ってみない。」
克とその隣で少し小さくなっている稔に、佑子が垂直落下型のアトラクションを指差す。意識すると、その方向から引っ切り無しに楽しそうな絶叫が響いてくるのが解る。
「初っ端から、なかなかハードなのを攻めるんだな。…いいよな、稔。」
「もちろん。今日は、篠原先輩にどこまでも付いて行きますから。」
明るく笑う、稔。その乾いた声が、今日という晴れの日にはどこか空々しい。克は歩き出した稔の隣で、優しげな吐息を漏らす。
(たく、こういうことに成るって解ってんだから、引き受けなきゃいいのによ。ま、それは俺にも言えることだが。しかし…直に見せられると、猪山じゃないけど…結構、焼けるもんだな。)
克は自分の目の前で繋がった手を、眩しそうに半眼で眺めた。それから、気を変える様に、克はどこか陰りのある場違いとしか言いようのない顔をぶら下げた稔に、声を掛けた。
「なんだ、お前もああいうことしたい訳。」
「えっ、ああいうって、手を繋ぐんですか。」
「いや、したいかって聞いてるんだけど。でも、嫌なら腕を組むのでもいいぞ。」
「いいって。だって、それは…。」
「何を憚ることがある。…ほら、俺たちも、もう少し仲良くしとかなきゃ不自然だろ。よし、どんとこい。」
「えー、でも…。」
稔が、満更でもなかったのか、照れたように困った様に周りの様子を伺っている。克はそんな稔に、腕を軽く突き出したような状態で、笑い掛ける。
「何、遠慮してんだよ。ここは夢の殿堂、テーマパークだろ。せっかく来たんだ、俺たちも普段の往来じゃ気後れする様なことでも何でもして、楽しもうぜ。ほら、俺はもうこうして恥かいてるんだ、お前が乗っかってくれなきゃ収まりがつかないだろ。ほらほら、はーやーくー。」
克は柔らかく口元を歪めながら、面白そうに肘で稔を小突いた。稔も遂に、軽く咳払いすると、おずおずと克の腕に手を絡め始めた。
「し、仕方無いですね。本田先輩がそこまでいうのなら…。そ、それに、今回の件では私からお願いしたことでもありますし…。」
「ごめん、二人とも。ちょっと用があるから、しばらくこの辺で待っててくれないかな。」
あと一言二言のいい訳で、克と稔の腕組みが様になろうというところで、突然佑子が声を掛ける。稔は固まって、しばらく佑子の顔を穴が開くほど見つめてから、飛び退く様に克の腕から離れた。
克も、佑子が、稔から離れてなお、突き出されたままの腕を凝視しているのに気付くと、黙って両腕をストレッチでもする様に空に伸ばした。
「それじゃあ、すぐ戻るから…。」
佑子は克の顔に一瞥をくれると、どこかへ走り去って行った。達雄は一人で、黙って近くのアトラクションの人の列を眺めていた。と、突然、辺りに目線を遊ばしていた克の携帯電話が振動する。
露骨に呆れた顔で、折りたたみ式の携帯電話を開く、克。そこには、まったく彼の予想の通り、篠原佑子の白い文字が躍っていた。
克はこちらに何気なく眼を向けている稔から距離をとりつつ、携帯の通話ボタンを押した。
「御用件は、何でしょうか。」
「『何でしょうか。』じゃない。」
電話越しに佑子の怒りの声が、克の耳に突き刺さる。携帯電話を少し耳から遠ざけつつ、克は心底稔から距離を置いていた自分を褒めたくなった。
「ちょっと、聞いてんの。よくもぬけぬけと、私が居るのを知ってて、猪山さんと、腕…組もうとして。確かに、本田言ったよね。この前、図書室の書庫で…覚えてる。」
「覚えてるよ。『お前の気持ちは解ってる』ってやつだろ。でも、それと猪山と腕を組むのは…ほら、確か、駄目なのは頭を撫でるってことで…。第一、猪山を俺の彼女役に選んだのは、篠原なんだろ。俺はただ、石川に出来るだけ不自然に感じさせないように、役を努めようとだな…。」
電話越しながら、克は目線のやり場に困りながら、慌てたように佑子に言い訳する。佑子はそれを聞いているのかいないのか、とりあえず言葉を返してはこない。克も佑子に指摘され、自分でもいい訳を並べているうちに、恥ずかしくなったのか顔が赤らめられていく。
(言われてみると、なんで俺、あんな…恐るべし、テーマパークイリュージョン。)
そんな風に克が冷や汗ものに、出所不明の理屈で佑子を論破しようと必死に成っていると、電話機の向こうから、冷汗流しきった克の身も凍る様な声が流れてきた。
「必死に成って、言い訳しちゃって…そんなに猪山さんのこと…もしかして、本田。猪山さんのこと…。」
「そんな訳ない。つか、お前と一緒に居て、猪山の方にまで眼を向ける余裕なんてあるわけないだろ。なっ。」
「その、上手く言おう、上手く言おうっていう言い方…ますます、怪しんだけど。」
電話機を耳に押し当てたままで、克が屈伸しながら小さく息を吐く。どうやら、危険領域は脱したらしい。何だかんだで、この男も苦労人だ。
「篠原でも怪しむくらいなら、石川には確実に彼氏彼女に見えてるな。安心したよ。それより、篠原。そうは言っても、そろそろ二人が怪しむだろうから、いい加減戻ってこいよ。その、俺も以後気を付けますから。」
「…解った。なんか、こっちから頼んでおいて、また我まま言って、ごめん。それと…その、腕とか組まないで欲しいのも、お願いしたいんだけど…えっと、出来れば、猪山さんとあんまり仲良くしないで。やっぱり、直に見せられると、辛いから。」
「仲良くするなって…って、おい。…切りやがった。」
克は切れた携帯電話をポケットにしまいながら、溜息を吐く。
(辛いって…篠原のやつ、俺に何させているか、解ってないんじゃないだろうな。つか、俺のやり切れなさは、誰に訴えればいい訳。)
克はそれでもやや明るめに装って、稔の元に戻る。稔は石川と少し距離をとりながら、所在無げに佇んでいた。
「よ、お待たせ。…で、篠原はまだ戻ってきて無いのか。ま、俺としては、助かったんだが。」
稔が言葉もなく、寄り掛かった壁を背中で押す様にして、滑らかに克の傍に近づく。その時、言いたいことを言った佑子が、溌剌とした顔でようやく御帰還を果たした。
(2)
戻って来てから、克には電話越しに話していたのと同一人物とは思えない様な快活さで、佑子が先に立って、三人を垂直落下型の遊具の列まで引っ張って行く。克はその様子を半ば呆れた様な、それでも安心したような眼で見守っていた。
「どうしたんだ、稔。具合悪いのか…まさか、お前…怖いのか。」
克はさっきから静かに佑子の後について回っていた稔に、克がからかいの混じった声で尋ねる。稔は、自分の顔を覗き込むように聞いてくる克の言葉に、少し目元の赤くなった顔を驚きで一杯にした。どうやら、自分では上手に隠せている積りだったらしい。
あまりに敏感な稔の反応に、克も神妙そうな顔つきになって確認する。
「大丈夫か。もし駄目そうなら、止めとけ。なんなら、俺をダシにしてもいいんだぞ。俺だって、別にあんなのに乗りたいとは思わないからな。」
克の優しい言葉。稔は克に気付かれたことで緊張感の度合いが下がったのか、細かく震えていた。しかし、
「何、言ってんですか。私を利用して、あれに乗らないでおこうなんて考えても、無駄ですからね。先輩には何としても、あれに乗ってもらいます。…もちろん、私も。だって…私が篠原先輩のせっかくのデート、台無しにするなんて、出来ませんから。」
ハードルの高さの割に悲壮な覚悟をしている、稔。克は小さく笑って見せると、その背中を軽く二度だけ叩いた。
そうして列は進み、いよいよ克たちがアトラクションを体感する番が廻って来た。
この遊具は、巨大なポールの様な本体を、一つの面に四つのシートが連なった座席が一組設置されている、正方形の枠の部分がゆっくり登って行き、急速に落下するという仕組みになっている。克たちは折よく全員が同じ座席に着くことが出来た。左端から、稔、克、佑子、達雄の順で座っている。
と、遂に座席がゆっくりと持ち上がっていく。席と安全装置の隙間から投げ出された足が、地面に引かれる様に、頼りなく、そして重く感じる。
「おお、すごいな。」
克は次第に開けていく視界に、感嘆の声を漏らした。バラバラと下の方を歩き回る人たちの蠢きが、無機質に、そしてとても身近なものに感じられる。そんな時、アトラクションを満喫する克の右手を握るものがあった。稔だ。
握られて、克が右側に視線を送ると、稔が固く眼を閉じて震えていた。克の中指に小さな手の力が強く伝わる。
克はそんな様子を見て取ると、軽く笑みをこぼして、優しくその手を握り返してやる。…突然、克の眼の前が黒くなる…。同時に、頂上にたどり着き、しばし制止する遊具。
克は顔に掛るその感触を拒む様に、首を捻って左を向く。すると克は…端正な美貌を硬直させて、克と稔の間を見る、佑子の顔を間近に捉えた。
止まる呼吸、そして動かなくなる視界…ただ、はためく佑子の髪。克の顔は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、蒼白となる。
次の瞬間、急に克の顔を離れる佑子のみだれ髪。二人は重ならない視線を合わせたまま、あまりにも静かに落下していった。
「お、おい…大丈夫か、稔。」
遊具を降りて、アトラクションの設備の出口まで来た時、四人。何故か一様に、暗い顔をしている。
克はまだ首筋に冷たいものを感じながらも、ふらふらと焦点の定まらない稔に声を掛けた。
「はぁい、もちろんです。」
稔が出所不明の声を返す。克はその傍に寄り添いながら、ちらりと後方を歩く佑子たちを見る。
達雄は入口のときと同じような、お世辞にも良いとは言えない様な顔色で、とぼとぼと誰ともなく後に付いて歩いている。佑子は俯きがちに乱れたか黒髪を気にしていたが、克の目線に気付くと、キッと睨みを利かせた瞳を彼に向ける。それを見た克が、慌てて頭を前に戻した。
そして佑子が、何も言わずにどこかに走り出す。佑子は克の、
「ん。おい、篠原、どこ行くんだよ。」
という早くも疲れの混じる声を無視して、一目散に前方のアトラクションの影へと消えてしまった。
「あ、あれ、篠原先輩、どうしちゃったんだろう。」
これには茫然自失していた稔も、俄かに己を取り戻して疑問を口にする。達雄も不安そうな顔を佑子の走り去った方へと向けている。克はポケットから携帯電話を取り出して、待ち構える。程無くして、携帯電話が揺れ始めた。
克はその携帯電話を誇示する様に耳に当てると、溜息を吐きだしてから、もの問いたげにしている二人から離れて話し始める。
「お前なぁ、いい加減、猪山も、石川も変に思い始めてるぞ。」
「…本田、私がそんなどうでもいいことのために電話しているんじゃないって、解ってるよね。…もしかして、私のことからかってんの。」
「俺も、同じ質問をお前に返したい気分だ。」
克は錆ついて塗装の剥がれ始めている柵に寄り掛かって、途方にくれたように呟いた。
「とにかく、もう二度と猪山さんには触らないで、いいわね。」
電話越しに突き刺さる、佑子の強い口調。克は開いた左手で耳元の毛を撫でつけながら、面倒くさそうに異議を唱えた。
「それは無理ってものだろ。さっきのだって俺の身動きの取れない状態で、猪山の方から握ってきたんだからな…解った、極力気を付ける様にする。だから…そうだ、お前、急に居なくなった言い訳は、考えているのか。…じゃあ、俺から何か話し掛けるから、篠原は口裏を合わせてくれ。…解ったっての。少なくとも俺から猪山に何かするようなことは、控えるから…ああ、絶対だ。それじゃ、すぐ戻ってこいよ。」
克は話を切り上げた。電話の向こうでは、最後まで佑子の念を押す言葉が継がれていた。
佑子が戻ったのは、幸いにも、稔と達雄の視線が、疑問の言葉に代わる前のことであった。
「ごめん。」
佑子はわざとらしくない程度に、息を切らせて戻ってきた。
(本当に…この根回しが、居なくなる前にも成されてくれてれば。…すくなくとも、俺にはそう思う権利があるはずだ。)
克は心の中で、絶対に口には出来ない虚しい自己主張をした後、何気ない風に佑子に話かける。
「お、早かったな、篠原。さっきの女の子は、大丈夫だったのか。やっぱり、迷子だったのか。」
克が少し微笑みながら、矢継ぎ早に質問する。佑子はその問いの押収に、一瞬笑顔をぎこちなげなものにしたが、打ち合わせ通りに合わせたて見せた。
「あれ、本田は気付いてたんだ。うん、すぐにお母さんが見つかったんだけど、何か話しこんじゃって。いきなり、居なくなって、ごめんね。」
「そうだったんですか。そういう事情があったなら、仕方ありませんよ。でも、さすが篠原先輩。私、そんな子がいたなんて全然気付かなかったな。」
稔はいかにも感心したように、くったくの無い笑顔を佑子に向ける。達雄もしっかりと佑子の方を見ているが、今のその場逃れの文句がどの程度通用しているのかは、その眼から判断するのは無理なようだ。
「それは、稔が気付けなかったのは、しょうがないだろ。なんせお前は…おっと。」
克はこれ以上を稔が詳しいことを佑子に尋ねる前に、話を封じに掛る。その際、引き合いに出した事を喋らせまいと、稔が口を塞ぎに手を伸ばすのを、克は義足の足を上手く操って回避した。佑子はそれを楽しそうに見ている。どうやら、触れさえしなければセーフらしい…今のところは。そして、軽快に稔の攻撃をかわしながら、克が口火を切った。
「で、次は何に乗る。稔、お前何か乗りたいものとかないのか。」
「え、私。私は篠原先輩の乗りたいものなら、何でも。」
稔が克を追う足を止めて、佑子の方を向く。佑子は嘘のような朗らかな笑顔で、稔を見返した。
「猪山さん、せっかく四人で来たんだし、遠慮は無しにしようよ。ほら、まだ決めてないなら、考える。ほら、ほら。」
佑子は稔の後ろに回ると、肩を揺り動かす様にして稔を急き立てる。
(あれが、さっきまでの俺と電話で話していたのと同一人物とは、到底思えないな。…そう思うと、これも結構な鳥肌ものなんだよな。)
佑子とのこれまでにない大接近に、頭から煙でも出しそうな程照れている稔に対して、克は薄ら寒そうに二人の立ち位置を眺めている。そして、やっと稔が、緊張でガチガチになった腕をまっすぐ伸ばして、指差したのは…。
「『コーヒーカップ』か。うん、いいね。行こう。」
佑子は同意すると早速、ショート寸前に成っている稔を押して歩きだした。克はそれに坦々として付いて歩く達雄を不思議そうに見入る。しかし、すぐに気付いたように、誰にともなく照れ隠しのように小さく笑うと、克もそのあとをゆっくりとたどって行った。賑わいは、気が付く度に、必ずそこにある。