第六話
(1)
佑子への恐怖心をはっきり認識した克は、自分にある佑子への名状し難い思いを持て余しつつも、彼女と出来るだけ自然に距離をとっていける様に行動する決意をした。
それは、雨の土曜日から数日経った日の、学校でのこと。
放課後の図書室。ひとりもくもくと日焼けした紙片に気を配っていた克の許に、佑子と稔が連れ立ってやって来た。視界の隅に二つの揺れるスカートの端を捉えて、克が目線をゆっくりと持ち上げて、その持ち主の顔を窺う。
「どうした、お二人さん…お揃いで。何か用。」
克が俯き気味のまま、目線だけで相手を見る。その視線もすぐ落とされたのだが…。
そのあまりに素っ気無い反応に業を煮やしたのか、稔が声を上げる。
「そうです。そのことには、私も、本田先輩も大いに関係があったりします。だから…ちょっと、先輩。もう少し、真面目な態度で聞いてもらえませんか。」
稔はまだページを捲るのを止めない克に、丁寧な口調に抑揚をたっぷり含ませて抗議する。彼女は気付いているのだろうか…目立っている。目立っているため、佑子が照れてもいた。
「あぁそう…ま、それだけ大層な前置きが有るんだったら、本題も長めなんだろ。とにかく座ったら。あと、猪山。もう少し、ボリューム下げてくれ。ここは、ハイキングじゃなくて、本を読みに来る場所だからな。」
「…失礼しました、本田先輩。」
克が指で示した、克と対面する席に二人は座る。稔の眼の瞳孔は獲物を狙う様に開かれ、こめかみの辺りで眉は細かに痙攣している。それに笑顔が獰猛そうだ…佑子とだけではなく、稔は克とも野外活動を経て、結構仲良くなっているようだ。その隣では、拗ねたように口元を窄める佑子が、克に責めるような眼を向けていた。
「で、何の用。」
克は指で弾く様に新たな項を右に送りながら、また同じ質問を繰り返した。
(2)
「つまり、篠原が石川と来週の日曜日に、遊園地に行く。そしてお前はダブルデートの名目でそれに同行する様に、篠原に頼まれている。しかし猪山には遊園地に連れていくような彼氏がいない。で、事情を話せば聞きわけそうな俺に、猪山の相手の白羽の矢が立ったと…。そういうことか。」
克がいつかの様に稔の言葉をようやくする。稔の説明は要領を得ないものに成りやすいのかも知れない。
「その通り何ですけど…私は別に本田先輩でなくても、良かったんですよ。ただ、篠原先輩が、そうすれればいいんじゃないかって…。」
克の翻訳が癇に障ったのか、文句を言って稔が顔を背けた。克は呆れた様な目線を稔に、向ける。
「それが人にものを頼む態度かね。それとも、また恐喝まがいに俺を使おうと…。」
「あー、あー。ちょっと、本田先輩。」
稔がテーブルを乗り越えて克の口を塞いだ。そして白けた様な眼を自分に向ける克に、小声で話し掛ける。
「お願いしますよ。ようやく、篠原先輩と親しくなったところなんですから。それに今回は純粋に、先輩に手伝ってもらいたくって。だからこそ、こうして頭を下げに来たんじゃないんですか。」
「こうしているかぎりは、その台詞にどれほどの効果も期待出来ないこと、お前、解ってるか…。」
慌てたように克の耳元に囁き掛ける、稔。克はもごもごと口を動かしながら、稔の肩越しに佑子の様子を観察する。間違いなく不機嫌そうに、詰まらないと言わんばかりの顔をしている、佑子。しかし、修羅場を越えた克の目から見て、それほど険悪なものでないことも解る。
(なるほど、猪山は橋本に比べれば危険性が少ないと判断して、駆り出して来たわけか。…と、すると初めから俺を使う気ではいた訳か…やれやれ。…そういえば、猪山には、篠原には俺から猪山の思惑について話したこと、言ってなかったんだっけ。ま、余計に恩を感じられても、こいつの場合、面倒なだけって気もするし…黙っておくのが、無難だな。)
克は口を塞がれたままで、思考を巡らせた後、まだ何か囁いている稔の腕を取った。
「ふー、鼻まで塞がないでくれよ。あー、でだな、わざわざ俺を彼氏候補に推してくれた篠原には悪いんだけど、来週の日曜日は予定が入っているから、無理だ。他、当たってくれ。」
稔の怒りの形相に、佑子の怪訝そうな表情。テーブルに乗っかったままの稔が、克の掴みかかる。
「何なんですか、先輩は。そもそも、それだけ言うのに散々人を小馬鹿にしておいて。結局断る積りだったなら。もうちょっと、こっちの都合も考えて下さいよ。」
丁寧語ではあるが、年長者を敬う気持ちなどまったく感じられない、稔の声音。克は溜息を漏らす。
「だから、声のボリューム落とせっての。それに、いきなり現れて頼みごとしたお前に、都合を考えろとは言われたくないんだけどな。」
「くっ、ああ言えばこういう。だいたいですね…。」
「ストップ、猪山さん。」
そこで、楽しそうに稔をからかう克を見かねたのか、佑子が待ったを掛けた。二人の視線が佑子の顔に注がれる。佑子は立ち上がると、今度は克に声を掛けた。
「本田、ちょっといい。…あ、猪山さんはここに居てくれる。」
「えっ…はい、解りました。」
佑子に呼ばれて、歪めた顔を改めながら立ち上がった克につられて、稔もテーブルを降りる。そんな稔の仕草から、意図を察知した佑子がその機先を制した。
克はいつになくしおらしげな稔に、柔らかい苦笑を送ると、その頭に手を…しかし、その行為はすんでのところで阻まれた。
「…何してんの、本田。早く、来て。」
佑子の声を聞いた刹那、克の身の内に悪寒が落ち込んでくる。手を引っ込めて、克が見る先には、佑子が幽鬼の様な厚みの無い笑いでこちらを見つめていた。
克の視線が自分に向いたのを確認して、書庫へと入っていく、佑子。克は腹に冷たい物を抱えたままで、稔を残して佑子の後を追う。何故か、心臓の鼓動は不思議なほど静かだった。
(3)
克が後ろ手に書庫のドアを閉めるのを、佑子は腕組みしながら睨め付けた。これから咎めようという気概が、佑子からありありと感じられ、克は居心地悪そうに頭を掻きながらその傍に近寄った。
「どういうこと…。」
「どういうって…何がだ。」
佑子の鋭い視線を受けながら、克の手が首の辺りにまで下がる。
「来週の日曜日、予定が入っているって本当なの。」
「まぁね。」
首に宛がわれていた手で、頭ごと無理に逸らす様に、克が佑子の追及の視線から目を逸らす。そんな様子に、佑子は薄く笑いながら、詰問を続けた。
「まさか、誰かと遊ぶ約束でもしてるの。」
「いや、一人で…その、大学に義足のモニター結果を届ける約束になっていて…。それに、直接、俺に口頭でのアンケートもあるだろうからして、その日は一日自由に成らないかなって。」
「ふーん。本当でしょうね。本当は、本田も誰かと遊びに行くんじゃないの。…私じゃない女の子と。」
佑子の声が低さをます。克はその変化を敏感に感じ取って、慌てたように急いで否定した。
「いや、まさか、そんなこと有るはずない。何も篠原に隠す必要がある様なことは無いから。」
「…本田が私以外の女の子と遊ぶののどこに、私に隠す必要があるのか…ちょっと釈然としないけど…いいわ。それなら、月曜日になったら、日曜日の間、一日どこで何をしていたか細かく紙に書いて私に提出して。あとは…そうだ、それから当日にも一時間おきに私に電話ちょうだい。隠し事ないんだもん、いいよね。」
佑子が意地悪そうな笑顔を、克の苦り切った顔の前に突き付ける。克はたじろぐ様に、後ろに下がりながら、必死に言葉を探す。
「いいよねって、お前。そんな…。第一、一時間おきに電話なんて、されるお前の方が迷惑だろ。」
「そんなこと無いよ。そうなったらって、今から楽しみだし…この案いいわね。良ければ、毎日そうしない。」
「良い訳ないだろ。それに、遊園地だろ、乗り物に乗ってる時に俺が掛けたら、どうするつもりなんだ。いや、それ以前に、石川に勘繰られるだろ。」
「その辺は上手くやるよ。それにもし、電話に出られない様なことがあったとしても、私が折り返し掛けるから。それで、私からの着信を本田が受け取れなかったら、今度はまた本田から掛けてよ。うーん。何かいいな、こういうのも。」
佑子の本気を感じ取ったのか、克は次の言葉が継げなくなった。確かに、下手なことを言っても、傷口を広げる結果にしかならないだろう。そして、克が力なく妥協を請う。
「あのですねぇ。こういうのは、普通は恋人同士手でやるものではないかと…いや、そんな眼で見られるまでもなく、俺もちゃんと篠原の気持ちは…。だ、だから、その、そめて少しでも俺の都合も考慮して欲しいかなって。それに、行動記録だの、電話連絡だのしてたら…俺の貴重な日曜日が…。何とかなりませんか、篠原さん。」
克が細長いテーブルに手を付きながら、言葉に気を付きながら、佑子に慈悲を請う。佑子はそんな情けない様子の克に、満面の笑みを向けた。
「だったら、本田も私たちと遊園地来ればいいじゃない。そしたら、電話連絡は…朝は一緒に行くだろうから、夜だけでいいし。それに、行動記録なんて付けなくいいから。」
「…電話は、すんのね。どの道…。」
肘から折れる様にテーブルに倒れ込む、克の寂しそうな声。佑子は克の頭を楽しそうに撫で始めた。
「どうしたんですか。」
それが書庫から出てきた克に、稔が最初に掛けた言葉だった。
「いや、何も。…ところで、猪山。俺、お前の言った来週の日曜日って、次の、そのまた次の日曜日だって勘違いしてた…そういう訳だから、彼女役よろしくな。」
克は引き攣った様な、笑顔でそれだけ言うと、鞄を引っ掴んで、図書室の出入り口に向かって歩いて行った。その背中が、どこか悲しい。
「えっ、あ、はい。こちらこそ…って、先輩。」
不思議そうに克の後ろ姿と、笑顔の佑子を見比べる、稔。佑子は椅子に腰かけて、嬉しそうな微笑みを浮かべて、夕日に染まる背表紙の列を眺めていた。




