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第五話

(1)

 外芝高校アウトドア部の野外活動に、克が駆り出されてから、早三日。その日の朝も、佑子は六時きっかりに携帯の着信を克に寄越してきた。

 キャンプでの一件があってから、克は佑子により心安い反応を示す様に成っていた。それは、自分の中の不安を駆り立てられながらも、克が佑子の含む所を知ったからなのかもしれない。あるいは…。

 佑子は今日も手際よく朝食を並べると、テーブルの前で胡坐をかいて待つ克に笑顔を向けた。どこかから、聞こえるミミズクの声に誘われるように、今日も二人の静かで和やかな食卓は進む。

 七時。食事が終わった頃、佑子が早々と鞄にエプロンを詰め込み始めた。

 「ん、篠原。もう行くのか、まだずいぶん早い様な気がするけど。何か、用事でもあんのか。」

 克が自分の携帯電話の液晶画面を見ながら、佑子に何気なく尋ねる。液晶画面の下部を流れる予報では、今日は午後の降水確率が高いようだ。

 そんな克に、佑子は立ち上がると、薄く頬を染めながら照れたように話して聞かせた。

 「えっと、実は、…か、彼氏が出来たんだ。それで、一緒に登校しようって、誘われていて…なんか、恥ずかしいな。」

 「へっ。」

 克は心底茫然とした表情で、額の辺りを撫でながらはにかんでいる佑子を見た。佑子は威儀を正す様に小さく咳払いをした後で、小走りに玄関に向かった。

 「それじゃ、私先に行くね。」

「お、おう…あ、今日は午後から雨らしいから。傘持ってないなら、どれでも一本持って行っていいからな。」

「ありがとう。でも、折り畳み傘持ってるから。お先に。」

 そういうと佑子はドアの外へ、飛び出して行った。

 克はその姿を見送った後、携帯電話を閉じて、眉間を人差し指で二度小突いた。

 「うーん…。彼氏か…さすが篠原、朝から想像力の限界を易々と超えてくれる。」

 克は疲れたように、背中でベッドの側部に寄り掛かると、深いため息を吐き出した。

(2)

 土曜日の、二年一組の教室。外芝高校の土曜日の授業は午前中の、今克の受けているもので終了する。

 その授業も十一時四十分を過ぎて、後残り三十分を切っていた。生徒たちもそのことは重々承知しているわけで、こうして他の曜日の午前中と比べると、明らかにやる気の乏しい態度を示していた。

 克もそんな生徒の中で、板書をノートに写しながら、きっちりと別のことの思索に耽っていた。

 (彼氏ねぇ。)

 克はチラリと佑子の方を窺う。佑子は克よりかなり前にある席に座り、比較的真面目に見える所作で、授業を消化していた。克はまた、ノートにペンを走らせる。 

 (確かに、何かこう、面白くないって気はするけど…。それ以上の気持ちはどうかっていうと…ピンとこないなぁ。篠原にどうこうして欲しいとか、俺が如何にかしたいとも思わんし…。ますます解らん…俺、篠原のこと好きじゃないのか…。)

 克は首を横に向けて窓から校庭を見下ろす。この時間に校庭を授業で使用しているクラスがないのか、無人の空間に曇り空が重く垂れこめていた。

(3)

 今日の全ての授業日程を終えた克は、一人食堂に向かう。

 土曜日の午後は部活に費やすのが、一般的な生徒のあり方だ。克もそんな生徒の一人だが、他の部の生徒と違って、読書部の部室は図書室である。当然、そこには飲食物持ち込む禁止。 そのため克は、土曜日はいつもこうして居場所を求めて彷徨いながら、結局はこの食堂に落ち着く。

 克が食堂の配膳用のトレーに、きつねうどんを乗せて、空いた席を探してきょろきょろと視線を動かしていた時に、突然声を掛けられる。

 「本田、こっち、こっち。」

 呼ばれた克がその方に眼をやると、そこには四人掛けのテーブルに対面するように、佑子と香が腰かけていた。

 「ほら、ここ、開いてるよ。」

 克が近づくと、呼びかけた香が自分の座っているのと隣の席を椅子を、バンバン叩いて示した。

 「あんがと。しかし、お二人さんを食堂で見かけるとは意外だな。」

 克は周りの生徒の視線に居心地の悪さを感じながら、努めて平静を装う。そんな状況に気付いているのか居ないのか、香の笑顔はいつになく豪快なものだった。

 「ね。今日は佑子に待ち人があって、そいつにここで待つように言われてんのよ。ところで、本田には相手が何者なのか見当が付く。」

 (橋本らしいが…やっぱり、そう来たか。)

 目の前に置かれたうどんを啜りながら、克は出来る限り空っとぼけた風に答える。

 「猪山だろ。」

 香は赤くなっている佑子をニヤニヤと横目で見てから、克に告げた。

 「あれー、委員長の本田なら知っていると思ってたんだけどなぁ。正解は佑子の彼氏の、石川君でした。」

 「何、石川ぁ。」

 香の言葉を聞いて、克が大音量を辺りに響かせた。一同の注視を受けて、佑子の顔がりんごの様に真っ赤になった。

 「ちょっと、本田。勘弁してよ。」

「悪い。でも、篠原。お前、石川と付き合ってんのか、二年三組の。」

 「そうだけど…それが。」

 克の言葉に、佑子は少し気を悪くしたように口調を荒げた。そんな様子を、香が生暖かい目で眺めていた。

 「いや、だからどうってことも無いんだけど…。そうか…。じゃあ、これから、石川と遊びにでも行くのか。」

 「う、うん。実は、そうなんだ。それで、待ってる間、香に一緒に居てもらって…。」

 克に答える佑子は照れに照れている。そんな、姿が克の眼にはどう映ったのだろう。

 克は丼をトレーの上に置くと、箸を持ったままで柔らかい笑顔を作る。

 「そっか、外芝高校の一男子生徒としては悔しくもあるが。まぁ、上手くやれよ。」

「応援感謝するよ、本田。」

 和やかさの入り混じる、昼時の風景。香はそんな様を、意外そうな眼で見ていた。

 「あの…、お待たせしました。」

 「お、彼氏殿のご到着だ。ほら佑子、周りの連中が殺気立つ前に行っちゃいなさい。」

 香が佑子の恋人、石川の到来を告げる。石川と呼ばれた男子生徒は、中肉中背のこれといって特徴のない感じのする風貌をしていた。

 「うん。じゃあね、二人とも。あ、そうだ。本田さぁ、前の…。」

「もう、何もたもたしてんの。本田の相手は私がやっとくから、佑子は早く行きな。」

「えっ。…そうだね。行こうか、石川。」

 そういうと、佑子は暗い顔の石川を伴って、食堂を後にして行った。その間にも、佑子が何度か振り返って二人の様子を見ていたのが、克にも解った。そんな距離感に妙な寛ぎを覚えていた克に、香が含み笑いで話しかけてくる。

 「本田は、これでいいの。」

「石川が篠原の彼氏として気に入らないなら、別の奴をけし掛けてくれよな。俺は、安全第一だから。」

 言い終えると克は、丼のそこに溜まっていた汁を飲む。香はテーブルに頬杖をついて、その様子を眺めていた。

 「石川が彼氏だって聞いた時は、それは私も驚いたよ。てっきり、本田がその座に収まると思ってから。それに、寄りにも寄って石川を、って気持ちもあったし。でも、私は別に佑子が決めたことに、文句を言うつもりはないの。あの娘、馬鹿じゃないから、手助けが必要なときはちゃんと連絡してくるだろうから。それより、よ。」

 香は、丼を置いてその上に箸を乗せた克に、深みのある視線を送った。克もその目線を見返す。

 「本田は、佑子が他の奴の告白を受けても、それでも何とも思わないの。何かしようとは思わなかったわけ。」

 香の潤いを湛えた瞳が克を射抜く。克はそんな香に、味の濃い笑顔で返した。

 「さっきも言ったけど、悔しくは思うよ。あれだけの美人を、ってな。でもな…やっぱり…篠原のことは少し遠くから見ているのが一番いい。…なんか、そう思ったんだよね。」

 香が少し呆れた様な、顔をして見せる。克は何故か気だるそうに、だがどこか嬉しそうにしていた。

 (…なるほど、それが俺の本心だったか。見事に言わされたな、橋本には。)

 「そっか。まぁ、私も、本田が佑子に恋人みたいな立ち位置で接してないのは、解ってたけど…でも、ちょっと残念だな。私、佑子には本田みたいな包容力のある奴が、ぴったりだと思ってたから。」

 香はテーブルの上に上半身を伸ばすと、心底残念そうに呟いた。克は笑うと、香に合わせる様に、天井に高く腕を伸ばす。

 「そこまで橋本に見込まれてたとは、光栄の至りだ。だが、包容力なら石川にあるんじゃないか、あいつ物静かだし。」

「違うわよ。あいつが静かなのは、喋らないだけ。本当に、どうして佑子の奴も、あんな顔色も、頭も冴えないで有名な、石川達雄(いしかわたつお)なんかと、付き合おうと思ったかねぇ。私にも、このことだけは、佑子の気持ちがわからん。」

 香はテーブルに顔を埋める様に、疲労感のたっぷり混じった声を漏らす。克はそれを面白そうに眺めた後、トレーを持って立ち上がった。

 「良かったじゃないか。」

「何よ、それ…。」

 心外そうな目つきで克を見上げる、香。克は少し得意気に、言葉を交わした。

 「解んないことが何にもないんじゃ、面白味ないだろ。男の趣味の、一事だけども、そんなに悩ませてもらえるんだ。篠原に感謝しないとな。で、確か、俺の相手をしてくれるそうだけど、どこに連れてってくれるんだ。」

 「本田…あんた、部活あるでしょ。」

「今日は自主的に、休部にした。遠慮なく、連れまわしてくれ。」

「本当に、調子いいんだから…。解った、私も佑子のことばかりに、頭使わされるのは癪だから、暇な本田に付き合ってあげる。そうと決まれば、私見たい映画があるの、それ行くわよ。もちろん本田の奢りで。」

 「えっ、えーっと。俺達、制服着てることだし…その、ドレスコードに引っかからない所にしないか。あと、出費が少な目の…。おい、引っ張るなよ。」

 楽しそうな二人の声が、食堂の扉を越えて木霊する。空は、今にも泣き出しそうだった。

(4)

 克と香は学校を出て、映画館に、買い物にと、精力的に動き回った。最後は、バイトがあるからと言ってお開きにしようとした香に、克が無理矢理ついて行ったファミリーレストランで、香にオーダーを取られながら食事をして終わった。

 「今日は結構、楽しめたよ。ありがとうね、本田。でも、ここの代金は負からないから。」

「解ってるよ。それじゃ、仕事がんばれよ、橋本。」

 二人はレジスペース越しに、軽く手を振りあって別れた。

 傘を強く打つ雨の音。少し肌寒さを感じながら克が、ようやく自分の部屋のベッドの上に座り込んで一息ついたのが、十九時三十分。

 克はテレビを付けると、ポケットから携帯電話を取り出してテーブルに置いた。

 (…そうか、映画館で電源切ってから、そのまま切りっぱなしだったっけか。)

 克は冷たくなっている携帯電話の、電源を入れた。そして、克の身の内を、言い知れぬ不安が通りにける。

 (着信あり、二十九件。なんだ、これ…。)

 その異様な光景に固まっていた克の手の中で、携帯電話が三十件目の着信を受け取った。少し、その震える液晶画面見た後で、克は画面に記された人物の顔を思い浮かべながら、通話ボタンを入れた。

 「なんだ、篠原。なんか…。」

「今、どこなの。」

 叱りつける様に、克の言葉を遮る佑子の声。克が唇の冷たさに答えられずに居ると、佑子がさらに険しくなった口調で、詰問する。

 「どこ、本田、どこ。どこなの、ねぇ、本田、どこに居るの。」

「…俺の部屋だけど…。お前、どうしたんだ。」

 克の言葉が言い終わる前に、ブツリと切れる佑子との回線。克は乾ききった唇を舐めると、携帯電話をテーブルの上にそっと置いた。しばしの、何も考えることが出来ない様な沈黙。そして突然、チャイムが鳴る。

 克はそれと同時にベッドから、立ち上がった。だが、その状態から全く動くことがない。克の耳に、自分の心臓の音がうるさく響いていた。

 もう一度、チャイムが鳴る。そして…何の反応もないことに業を煮やした、ドアの前の訪問者は、ついにドアを叩きはじめた。絶え間なく叩かれる金属製の扉が、克にはとても心もとないものに感じられる。

 克は音の先に重たい足を引きずって近づくと、チェーンを外し、内鍵を開けた。その瞬間、部屋の中へと入り込んできた訪問者が、克に体当たりする。義足の足は踏ん張りが利かず、そのまま後ろに倒れ込む、克。

 「ぐっ。」

 背中を打って、克は苦悶の声を上げる。しかし侵入者はそんなことお構いなしに、克の制服の襟首を掴むと、涙声で言葉を放つ。その体は、ずぶ濡れだった。

 「どうして。どうして、携帯に出てくれなかったのよ。ねぇ、本田、どこにいたの。本田は、あの後、どこで何してたの。まさか…香と…。早く、早く教えて。」

 「止めろ、篠原。どうしたんだ、お前。こんなに濡れて…。」

 克は自分の制服の襟を、引きちぎれるのではないかという程に強く握る佑子に、不安そうな眼を向けた。佑子はそんな克を…床に打ちつけた。

 「くっ。篠原、お前、何すんだよ。」

「早く、早く、教えて。本田、教えて。…教えなさいよ。早く、早く。」

 佑子の眼は最早、克の答え以外は彼自身ですら、映していなかった。克は佑子の長い髪から滴り落ちる水滴に顔を打たれながら、遂に観念して答えた。

 「あ、あの後は、橋本と映画に行って…。」

「…映画…。あ、ああ、あ、ああああああああああああ。」

 克の言葉を聞いて突然佑子が叫び出す。そして、克の上に乗ったままで、床を殴り付け始めた。克は自分を襲っている状況に、戦慄しながらも、勇気を絞り出して、血のにじみ出している佑子の腕を止めた。

 「おい、止めろ、篠原。手が…ぐっ。」

 腕を掴まれて、佑子がものすごい形相で克を睨みつける。そして、いきなり克の首を、佑子が締めあげ始めた。佑子の華奢な腕のどこにそんな力があるのかと思えるほどの、圧痛に克の意識が遠のいていく。そんな中で、佑子の手を伝って、彼女の口から漏れ出てくる言葉が、克の耳に届いた。

 「…私は…私が…私も…私の…モノ。」

 見開かれる克の眼。克はあまりの悪寒に、遂に佑子を跳ね飛ばした。克の首を襲う、引き裂かれるような痛み。

 佑子はドアにぶつかると、そのまま人形の様に動かなくなった。

 克は痛む首に手を当てた。その手にはべっとりと赤い血がこびり付く。克は荒い息を付きながら、怖々と静かに成った佑子の方を見た。泣き濡れた眼は赤くはれ上がり、弱々しく、何時もの佑子の様子を知るすべはない。と、そんな佑子の姿を見ていた克の眼に、彼女の長い髪が、その小さな肩から滑り落ちる様子が飛び込んできた。

 克は佑子の傍で跪くと、大きくため息を吐いてから、その体を抱き上げた。

 居間に向かう二人に、垂れ落ちる滴が、ポツリポツリと呟きながら後に続いた。

(5)

 外ではまだ激しく雨が降り続けている。克は佑子を寝かせたベッドにもたれ掛る様に、本を読んでいた。静かすぎるその状況から、内容が克の頭に入っているかまでは、計ることは出来そうにない。

 衣ずれの音。克は、上体を起こしてこちらを見る佑子の方に、ゆっくりと眼を向けた。

 「大丈夫か。」

 克のその言葉の後に、また沈黙と雨の音が続く。佑子は手当てされている自分の右手を、無表情に見つめていた。克が本をテーブルに置くと、立ち上がる。

 「篠原には悪いけど。体、濡れてたから、勝手に拭かせてもらった。制服はそこにあるから…。」

 克の指さす方には、クローゼットのノブに、佑子の生乾きの制服の上下が干されていた。佑子は自分が男もののジャージを着ているのをぼんやりした眼で確認した。

 「ありがとう。…それから、その首、ごめん。」

 「もう、いいよ。それより、なんか飲むだろ。ココアがいいか、それともコーヒーがいいか。」

 克はクローゼットの中を探りながら、佑子に尋ねる。佑子は薄く笑みを返す。すると克が何かに気付いた様に、手を止めて佑子の方を見た。

 「そうだ、忘れてたけど。もう、結構いい時間なんだよ。篠原、お前早めに親に連絡しないと…あ、でも、どう説明したもんか、この状況を…。」

 克は頭を抱えて見せた。第二ボタンまで開け放たれた、ワイシャツの襟元から覗く包帯が痛々しい。佑子はそんな克に涼やかな声で答えた。

 「そのことなら、多分心配いらない。えっと…携帯は…鞄ごと家に置いて来たから。絶対とは、言い切れないけど。今日は両親とも返らないはずだから…。うちの両親、共働きで。しかも、二人とも家を開けがちだから…あ、戸締りはちゃんとして来たから、安心して。」

 「何だかんだで、しっかりしてるよな、篠原は。ほれ。」

 克はクローゼットから出したドライヤーを佑子に渡し、そのコンセントを入れた。

 「とりあえず、髪乾かしとけよ。せっかく、それだけ綺麗にしてるんだ。その間に、俺は…コーヒーでいいよな。」

 「…ねぇ、飲み物はまだいいから。ドライヤー、本田が掛けてくれないかな。ほら、私この通り、利き手が使えないし…。」

 佑子は小さく口元をほころばせながらも、克の方を見ずに俯いていた。克はガスコンロの栓に宛がっていた手を引くと、何も言わずに、佑子の腿の上に乗っていたドライヤーを取り上げた。

 モーターの回転する音が、辺りの静寂を破る。克は枕元にあったブラシを手に取ると、佑子の髪を黙ってなぞり始めた。そのリズムに合わせて揺れる、佑子の小さな頭。

 「…ねぇ、本田。…どうしても、教えて欲しいの。…私と食堂で別れた後、か、香と…どうしてたの。その…いつまで、どこに居たの。何で、携帯に出てくれなかったの…。教えて。大丈夫、もう暴れたりしないから。」

 克は、一言一言を確かめる様に口にする佑子の髪に、ただ黙ってブラシを通していた。佑子がヒクつく様に、自分を嘲る様に小さく笑う。

 「…そうだよね。私、本田を傷つけた…。何仕出かすか解らない女に…それでも、本田は…。私、本当に、自分勝手だよね…こんなに、本田に怖がれてもまだ…私…。」

 佑子は顔を歪ませたまま、辛そうに声無く笑い続けた。克はドライヤーを止めると、佑子に背を向ける様にして、ベッドに腰かけた。

 「…あの後、篠原と石川が出て行ってから、俺は橋本と一緒に映画を見に行った。携帯電話に出なかったのは、映画館で電源落して、そのままにしてたからなんだ…。」

 佑子は相変わらず俯いたままで、動かない。克はその反応を確かめることもせず、話を継ぐ。

 「それから、近くの百貨店に二人で入って。適当に買い物して、周った。」

「本田はその時に、何か買ったの。」

「ああ、この本を買った。」

 克は振り返らずに、テーブルに置いてあった書籍を、背中越しに佑子に見せた。佑子が首だけ曲げてそちらに視線を送るのが、克には解った。

 「…それから…。本田は、いつ帰って来たの。…その、結局、本田は香とどれくらいの間、一緒にいたのかな…。」

 佑子は何かに耐える様に、言葉を継ぎ続ける。喉に引っかかった何かを吐き出すような、吐息の混じった佑子の声を、克は肩を窄めて聞いていた。

 「その後は、橋本の奴がバイトがあるって言って。…知ってるか、あいつがファミレスでバイトしてるって。…そう、そこだ。それで、俺もそこに付いて行って、食事をしてから帰った。この部屋に着いたのは…確か、七時半位だったから…多分、橋本とは六時間くらい一緒に居たんだと思う。」

 「…六時間…。…うっ、ううっ、うぅ。ひくっ…。」

克の背中にすすり泣く佑子の声が響く。克は何も言えずに、脱力した腕の感触に身を委ねていた。佑子は流れる涙を、手で拭っていた。

 「うっくっ…ごめんね、ごめんね。…私も本当は解ってるんだ…こんなの、お門違いで、本田にはいい迷惑なだけだって。…だいたい、ずるいよね。私にはちゃんと彼氏がいるのに…。でも、駄目なの。どうしても、嫌だったの。石川と歩いてる時に…お茶してる時も…喋ってる時も思った。もしかしたら、本田も香とこんな風に過ごしてるんじゃないかって…。そしたら、なんだか堪らなくなって…どうしても…もし、そうだったら、香が許せないって…。私と石川のこと応援してくれたのも、もしかしたらって…。…嫌。嫌、嫌なの。現実だって、そうだって、本田の口から言われても、信じたくない…。ぐぐっ…許したくないの…。」

 眉間に皺を寄せ、歯を食いしばりながら、佑子は布団の端を強く握りしめている。その双眸の奥底には、赤黒い光が揺らめいていた。克は気付き始めていた。自分がいったい佑子をどう思っているのかに。なぜ、好意を抱きながら、それでもなお彼女を受け入れなかったかを…。克にはもう、佑子を諭してやるしかなかった。

 「篠原。お前、石川のこと、好きか。」

「えっ。そ、それは…まだ、それほど好きじゃないけど…。」

 急な克の問いかけに、佑子が克の背から目を逸らす。

 「じゃあ、どうして付き合ったりしてんだよ、お前ら。」

「それは…石川が、私のことが好きだって…私と付き合いたいって、自分のことを今すぐ好きに成らなくてもいいからって、言ってくれて…。その、なんか、その気持ちが羨ましいと思ったから。」

 「羨ましい。」

「うん。石川の、ただ誰かを好きだって、それだけで思える気持ち。それが、とっても羨ましくて…もしかしたら、付き合ってみたら私にも、そういう気持ちが芽生えるかなって。」

 佑子が克の顔を伺いながら、訴える。その頬は少し誇らしげに、染められていた。

 「そうか。なら、篠原はこのまま石川と付き合うべきかもな。憧れとか、羨望も、好意の始まりには、違いないだろうしな。」

 「そ、そうだね…。」

 克の言葉を聞いたあと、佑子は視線を一度だけ左右に動かすと、色の無くなった白い頬で小さく呟いた。克がそんな佑子を、さらに突き放す。

 「なぁ、篠原。お前にこれからも、石川と付き合う気があるんなら。お前にも、最低限とるべき態度があるんじゃないかな。」

 「解ってるよ。だから、今日は一緒に遊びにも行った。それに、これからも一緒に登下校することにも、なってる。…それでいいんでしょ。」

 佑子は克の説教に、憤ったような口調で返した。そんな反応に、克は冷静に対処する。

 「いや、俺は彼氏に内緒で、俺の部屋に来てることも問題あると思う。確かに、篠原が内心でどう思ってるかは、それはお前の自由だ。だけどな、付き合うってお前自身が承諾した以上、行動に気を付けるのは、当然だと思う。…だからお前は、もう俺の部屋には来るな。」

 「それって、朝も起こしにくるなってこと…。」

 佑子の声は、低く冷たい。克は少し間を置いて、応えた。

 「ああ。こっちから、頼んだことだけど、彼氏もちにこれ以上甘える訳にはいかないからな。」

「もう、本田も意外と勝手なんだね。…本当だよ、そっちから頼んでおいて。…あ、もしかして、これって私に石川と別れて欲しいっていう意思表示。うーん、どうようかな。本田がどうしてもっていうなら、考えてあげてもいいよ。」

 佑子の茶化すような口調。しかしその声は、やはり低い。長い髪が、黒くその表情を塗り込めた。

 「解れる、勘弁してくれよ。俺は、そんなことの理由に使われるのは、ご免だ。それに、そんなことされても、責任とってやれないからな…俺だって、好きな奴はいる。」

 抑揚なく繰り返される、克の軽口。佑子の髪が跳ね上がる様に、動きを見せる。

 「…本田に、好きな娘がいる…。それって、もしかして、香。」

「かもな。」

 克は曖昧な言葉だが、はっきりとした声で紡いだ。それは、どんな言葉より佑子には雄弁なものだっただろう。佑子はのっそりと立ち上がると、玄関に続く廊下に歩き出した。

 「お、おい。どうしたんだ、篠原。まだ、無理しない方がいい。寝てろ。」

 克はヒタヒタと進む佑子の肩を掴んで、ベッドに戻るように言う。佑子はそれを邪険に払いのけると、暗い笑いを湛えた顔で応えた。

 「私、ここに居ちゃいけないんでしょ。だから、出てくだけ。」

「何、言ってんだ。俺が言いた事、お前にも解ってるはずだろ。いいから、大人しくしてろ。」

 佑子は克の真剣な表情を、諦めの眼で笑った。克の背を寒気が伝う。

 「心配、私のことが。別にいいんだよ、私も本田に責任とってもらおうなんて思わないから。あ、それとも良心が痛むってやつ。アハハッ、まさかね。だって、本田好きなのは香で、私のことはそうじゃないんだもんね。」

「どうしたんだ、篠原。お前、さっきから…。橋本はお前の友達なんだろ。それを…。」

「うるさい。なんでまた、香の話が出てくんのよ。さっきから、香の話ばかりしてるのは、本田の方じゃない。…そっか、そう言うこと…。」

 佑子は克の色の失われた克の顔に、血の出るような微笑を向けた。

 「そうか、本田が心配してるのは、私のことじゃない。…ククッ、私勘違いしちゃって…恥ずかしい。でしょ…そうなんでしょ。本田は私がこれから香の事をどうにかしに行くんじゃないかって…そう思ってるんでしょ。フフッ…大丈夫だよ、私確かに香の顔を見て、何もしない自信無い…でも、もうそんなことには成らないはずだから…。」

「…お前、まさか…。そんなこと聞かされて、外に出せる訳ないだろ。いいから、ベッドに戻れ。」

 克が今一度佑子の肩に触れた、その勢いに揺れた佑子の髪の間から、儚げな笑顔が覗く。

 「本田には、責任は無いんだよ。それなのにどうして、私のことを止めるの…私、どんな理由で本田に従えばいいの…本田は、私のこと…何とも思ってないのに…私、どうやって生きていけばいいの。」

 克は佑子を押す様にして、ベッドに腰かけさせた。思ったより素直に動いた佑子だったが、その愁いの瞳は変わらない。克は屈みこんで、初めて佑子の瞳を覗き込んだ。

 「何とも思ってないわけないだろ。言ってんだろうが、美人だって。朝起こしに来てくれて、助かってたって。…自分のこと、傷つけるような真似はしないでくれって…。」

 「そんなこと言われても…そんなのじゃ、私解らないよ…。」

 「これも、言ったことだよな。俺だって、解らないって…。いや、そうだな…解ってることは言うべきだよな。篠原も、言ったんだ…。俺、篠原には居なくならないで欲しいと思ってる。それに、誰かを好きになろうとしてるんなら、それだって俺が邪魔する様なことにはなって欲しくない。だから、俺はお前に朝にはもう来るなって言ったんだ…。それから、橋本のことだけど…。」

 香の名を聞いたとき、佑子の眼が逃げる様に泳いだ。克はそれでもその眼を外さずに、話し続ける。

 「これは、橋本にも謝らなければいけないことだけど…いや、むしろ言ったら言ったでそれも悪いか…いや、そうじゃ無くて。その、あいつも、俺と同じで、篠原が決めたこと後押ししたいって言ってた。だから、ちょっと利用させてもらった。その…そういうことなんだ。俺、もちろんお前に良かれと思ってのことだけど…橋本のこと、好きっだって…お前との会話に理由を付けるために、嘘付いた…ごめん。」

 佑子は驚いた様に眼を見開いて、咎める様な視線を克に送った。

 「それ、本当なの…ま、私が言えた立場じゃないけど…さっきまでのことを考えると…。でも、香のことを使って私を陥れ様としたのはあんまりじゃない。」

 佑子の口から久しぶりの正論が発せられた。顔つきも、視線のそれの割には、穏やかに成っている。そのことに力を得たように、克が平謝りを続ける。

 「ごもっとも。あーでも、それは篠原のことを心配してだねー。ほら、彼氏もちで、朝っぱらから、他の男の部屋に通ってるいのは外聞が悪かろうと…確かに、初めからそう言えばすむだけの事だったからな…すんません。」

「本当よ。第一、私がそんなこと、こそこそ隠してる訳ないじゃない。」

 「何だ。まさか、お前、朝、俺の部屋に来てること、石川に話してるのか。」

 寛ぐようにベッドに寝っ転がった佑子に、克が驚愕を露にする。あまりの驚き様に、驚きが佑子に伝染した。

 「こ、こっちこそ、『何よ。』よ。当たり前でしょ、そんなの。それでも、いいって、石川が言ったから付き合ってんだから。あ、もちろん本田がその相手だってことは、伏せてあるから。どう見直した。」

 「やっぱ、お前くらいの美人になると、そういう傲慢臭いとこもあんのね。…で、見直すって、何をだ。」

 克もまた佑子の頭の隣に腰かける。佑子が楽しそうな目線を向けた。

 「そっか…でも、じゃあ、本田には好きな人が今、居ないのかな。…えっと、私のこととかは、どう思ってるわけ。」

「…篠原の方こそ、どうなんだよ。」

「私。私は…やっぱり、解んないかな。でも、本田と離れたくないって思うよ。それに…ねぇ、本田。鬱陶しい女だって思ってくれてもいい。ずるい奴だとも…。でも、これだけは覚えといて欲しい。本田も私も、これからそれぞれが、それぞれに好きない人を見つけていくんだと思う。私だって、本田が誰かを好きになる気持ちは止められないと思う。…でも、つくづく思ったの…今日。私、どんなことがあっても…本田が好きになった人のこと…本田に私より思われてる人のこと…きっと、許せない。もし、そんなところ見たら、私…その人のこと…。だから…本田に私を殺してくれとは言わないわ。ただ、その時は…もし、私よりその人が大事なら教えて…そして…その時は、私が出て行くのを止めないで下さい。お願い。」

 克は佑子の髪に触れる。初めて触れたその滑らかさに、克の手に小さな痺れが走った。

 「馬鹿。」

「えっ。」

「篠原、自分で言ったろ。それぞれにって…。そうなら、お前を止めるのはお前が好きになった誰かの役目だよ。心配すんな、きっとそいつもお前のことを思ってくれる。第一、お前より先に、俺に相思相愛の相手が出来ようもないだろ。」

「うーん、それを言われると。さすが本田、説得力あるわ。」

「ひどいな。俺のことは、絶対嫌いじゃないとか言っといて。」

 克が安心しきった顔の佑子に、笑い掛ける。

 「あ、そうだ。また、煙に巻かれそうになってたんだった。いい加減に答えてよ。私のことどう思ってんの。」

「たく。…あー、えーっと、だね。まぁ、いいじゃないの。そうだ、コーヒー入れようか。それ以外に、何かして欲しいことは。出来る限りのことはするから。」

 ジト眼で睨む、佑子。迫力より可愛さ先行なのが救いだ。焦った様に言葉を継ぐ、克。

 「えっと、嫌いじゃないよ。絶対。」

「もういい。それより、手。そうその手をもう少し近付けて…もっと。違うわよ、頭撫でって言ってんの。たく、言わせないでよ。」

 「撫でろって…え、頭を撫でる。」

「そうよ。何でも出来る限りのことはするって言ったじゃない。…羨ましいって、思ってたの。ほら、猪山さんのこと、よく撫でてたでしょ…。やってよ。」

 克は溜息を吐きつつも言われた通り、手を優しく這わせる。佑子は満足そうに、眼を閉じた。

 「これでいいのか。まったく、彼氏にしてもらえよな。」

 「いいでしょ。まだ、私に嘘付いたことだって、残ってるんだから。む、なかなか上手ね。うーん、ゆるして使わす。これなら、本田に彼女が出来た時は…。」

 そこまで、言って佑子が突然目を見開いた。克の手が、少し距離をとる。

 「駄目…駄目だからね…。もし、それが誰であろうと他の娘に、こんなことしたら…絶対に許さないから。」

 佑子はまだ行われていない克の罪を睨みつける様に、鋭く光る瞳を克に向けた。克が唾を飲み込む。そして、また佑子頭に手を戻す。

 佑子は嬉しそうにまた、眼を瞑った。

 克は答えられなかった。答えられるはずがなかった。好きだと思った瞬間もあったろう。離れたくないとも。それに、佑子が不幸になるのも見たくないと考え、行動した。

 だが今は、そんな感情たちがどこか遠かった理由が良く解る。今しがた、克は佑子の瞳を突き付けられて、確かに思った。この女と一緒にいるべきは自分じゃないと…。なぜなら自分は、佑子が…怖い。

 克は佑子の瞼に掛る前髪を、丁寧にかきわけた。

(多分、俺が篠原をこんな風にしたんだ…。だから、せめて篠原が普通に好きだと思える人が出来るまで、俺は…。)

 克は寂しそうな眼で、佑子を見つめたあと、そっと自分も目を閉じた。暗くなった視界の中で、雨だけがやけに煩い。


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