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第四話

(1)

 日曜日、朝五時五十分。外芝高校アウトドア部の面々は、たった一人の遅刻者を待ちわびていた。

 (それにしても、アウトドア部が顧問を含めて総勢四名。しかも、全員が女とは…。いやにあっさりと篠原が信じたと思ったけど、俺の荷物運びっていう逃げ方、わりとハマってたんだな。で、俺を追い込んだ当人はいったいどうしたのかね。)

 マイクロバスへ何往復もしながら、もくもくと荷物を積み込む克が、未だ姿を見せない共演者を思い、溜息を漏らす。そこにアウトドア部顧問で女子体育担当教師の、橋本紀子(はしもとのりこ)が、ダンボールを持って現れた。

 「はい、これで荷物は全部ね。それにしても、助かったわ、篠原君。猪山さんには、感謝しないとね。」

 「そういえば、稔の奴どうしたんだろ。」

 すでにバスの中に乗り込んで居た、三人目のアウトドア部員の橋本香(はしもとかおり)が、コンビニのサンドイッチを頬張りながら、一人ごちた。その隣で、佑子が眠そうな顔をしている。

 「篠原さぁ、稔と幼馴染なんでしょ。ちょっと、連絡してみてよ。」

 香がやっと仕事を終えて席に戻って来た克に、言う。マイクロバス内の席は二人掛けで、好きに椅子の方向を変えることが出来る様だ。克と稔の座る予定の席の、前の列の席を後ろ向きにして、そこに香と佑子が腰かけていた。克は椅子にドッカと座ると、腰のポケットをまさぐる。

 「荷物運びの次は、モーニングコールか、俺はホテルマンかっての。にしても、朝を知らせる相手が、幼馴染とは色気ないな(一応、携帯の番号聞いておいて、正解だったな。)。」

 「へぇ、これが、佑子でも軽いとしか言い表せなかったっていう、本田のトークか。いやー、朝聞くと、いっそう浮いているわね。」

「篠原、俺お前のこと信じてたのに…。」

「えっと、猪山さんは、まだ出ないの…」

 克は携帯電話の発信音を耳にしながら、対面する二人と代わる代わる話を交わす。声を掛けた瞬間、佑子の眼が咎める様に克を見据えたのは、彼の気のせいか…。

 ようやく克の耳に、ブツッという音の後に寝ぼけた稔の声が入ってくる。

 「お早う、稔。そうか、急に起こして悪かったな。ところでちょっと時計を見てくれるか…なるほど、じゃあ次はカレンダーを…。ああ、悪い悪い、電話を受け取った時点で気付いてるとばかり思ってたから…。ほほう、何なら篠原と代わろうか…。あいつ、切りやがった。すいません、部のみなさん。あいつ、もうすぐ来るらしいから、もうちょっとだけ待ってやって下さい。」

 克は携帯電話を間に挟んで手を合わせると、悪びれない笑顔で、頭を下げた。いつもの事なのか、紀子が優しそうに、呆れた様な表情を作って応じた。

 「しかし、やっぱ幼馴染だけあって、手馴れたもんね。なるほど、そういう風にして稔で遊んできた訳だ。あんまり、苛めないであげてよね、稔は私たちの可愛い後輩なんだから。ね、佑子。…佑子。」

 ニヤニヤしながら克と話していた香が、肩を組んだ佑子のあまりにも薄い反応に、怪訝そうな眼を向けた。佑子の眼の焦点は、克の携帯電話の上で結ばれている。それでも、克と香の不思議そうな視線を感じて、佑子は軽く笑ってみせる。

 「…え、そうだね。あ…ごめん、やっぱまだ、眠くて。」

「お前まで、そんなこと言って、稔じゃあるまいし。俺はこれ以上荷物が増えるのは簡便だからな。」

 「別に本田に運んでもらわなくても、佑子を背負いたいって男は、ごまんといるんだから。ねぇー、佑子。本田は、稔を抱っこしてればいいわ。」

 「で、開いてる背中で、運び手の無い橋本を背負うと。そんな積極的にこられると、朝からホッペが赤くなる。」

 「ところで、私は誰が運んでくれるのかしら。」

「先生には、このバスがあるじゃないですか。颯爽とハンドルを握る姿、絵になりますねー。それにしても、稔は奴遅いなぁ。」

「本当、調子いいのな。本田って…。」

 朝の静謐な空気に溶ける、バスのエンジン音。楽しそうに笑い声を重ねる車中ので、克が稔の名前を呼ぶたびに、佑子の瞳が徐々に険悪の色を濃くしていく。

(2)

 朝六時二十分。稔を交えようやく走り出したバスの中で、稔が照れながらしきりに頭を下げて見せていた。

 「すいません。本当に、すいません。また、寝坊してしまいました。」

「またって、お前。まさか、いつもこんな風に皆さんをお待たせてるのか。はぁ、情けない…稔、頭は俺が下げておいたから、お前からはみなさんに芸を見せて差し上げなさい。」

 克が腕組みして、したり顔で稔に指図する。稔はその耳元に口を寄せると、小声で抗議を始めた。

 「ちょっと、何で、そんなこと…。それは、私が遅刻して先輩に迷惑掛けたのは解りますけど…。」

「そう言うことじゃないよ。確かに、迷惑したし、はめられているんじゃないかとも考えたけどな。お前、ちょっと消極的すぎじゃないか、遅刻してただ謝るだけじゃ。これ以上、仲の良くなり様が無いだろうが。」

 克も密談でもするように、小声を稔の耳元で出す。稔は拗ねたような眼を、克に向けた。

 「消極的だなんて…。それは、遅刻はしましたけど。でも、昨日緊張して眠れなかったのが原因で…。それに、私、芸なんて…。」

 「別に、芸にこだわらなくてもいいから。なんかないのか、遊び道具とかは持って来て…ないのか。んじゃ、これお前が持って来たことにして、出せ。」

 克はポケットから、持参していたウノを稔に、背中越しに渡す。そんな二人に、香が面白そうな眼を向けながら、一声掛けた。

 「いいわねぇ、お二人さん。囁き合う姿も様になってるわよ。二人の世界ってやつだ。あてられるわー、ね、佑子。」

 「うん、…すごく、羨ましい。」

「佑子、どうかしたの…。」

 「それより、こいつ何か持って来てるらしいんで、ちょっと注目してやって下さいよ。なんだ、前回の試験の答案か。」

 「ち、違うよ。こ、これです。」

 笑顔ながら、どこか儚い佑子の様子に、香が一瞬心配そうな表情を向ける。しかし、それは、そんなことに気付く余裕の無い二人組のチームプレーに、一気に掻き消された。

 「お、ウノか。いいねぇー、ちょうど四人いるし。やろっか。」

「だな、稔のわりには気が効くじゃないか、褒めて遣わす。」

 克はそういうと、乱暴に稔の頭を撫で始めた。

 「ちょっ、ちょっと止めてよ。もう…。あの、篠原先輩もいっしょにやりますよね。」

「…あっ。」

 稔に急に尋ねられて、佑子は今意識が戻ったような、小さな声を上げた。そして、一度克の顔を伺ったあと、

「私、ちょっと眠いから、パスする。ごめんね、猪山さん。」

と言うと、あきらかにショックを受けた様子の稔の答えも聞かずに、佑子は眼を閉じてしまった。

 「佑子…。」

心配そうに佑子の姿を追う、香の視線。克は突然の佑子の反応に困惑しながら、とりあえず話を継いだ。

 「ま、眠いと言われれば、俺もそうだな。じゃあ、ウノは帰りのお楽しみに取っておくとして、俺たちも少し寝ておくとしようか。いいだろ、稔。お前も寝ておかないと、後で、血管切れかねないからな。」

 「…うん、私もそうする。」

 克は稔を労わる様な言葉を掛けた。

意気消沈している稔は、それに大人しく従うようだな。消え入りそうな声で、その眼を閉じた。静かに成った車内で、克と香が声もなく困ったような眼を合わせていた。

(3)

 (まったく、こいつ本当にやる気あんのかね。)

 克のアシストが脆くも粉砕され、数十分。初めはしおらしくまつ毛を伏せていた稔だったが、見た目ほど動じていなかったのか、今では克の肩にもたれ掛り幸せそうな寝息を立てていた。その様を、背もたれに体を深々と横たえた香が、面白そうに眺めていた。

 「まったく、見せつけてくれるよね。一応、お礼は言っとくわ。ご馳走様です。」

「…お粗末さまでした。」

 自分でも呆れるしかない状況に、克の反応も勢い消極的なものになる。佑子は余程強く眼を瞑っているのか、その瞼が時折細かく痙攣していた。

 それは、山道に入ったマイクロバスが起こした振動で、稔の頭が克の膝に落っこちた時に起きた。

 「あの、本田。これ…ちょっといいかな。」

「いいって、篠原…。お前、いいのか。」

 ひそめられた佑子の声に、克も小さな音量で言葉を返す。佑子の手には、糖尿病患者用の黄色いペン型注射器が握られていた。稔はまだ眼を覚まさない。

 「うん、いいの。先生も、香もこのことは知っているから。だから…ちょっと、お願い。」

そういうと、佑子は克の言葉を待たずに、バスの最後尾の座席へと移動した。

 「ちょっとって、でも、なぁ。」

 佑子の姿を、克は首を回転させて追う。その膝では、恐ろしく寝付きのいい後輩が完全に脱力してしまっていた。

 こまり顔の、克。すると、前の席にいた香が、さっと克と稔の間に割って入った。

 「よっと、ん、大丈夫のようね。本田、こっちは私が枕しておくくから。ね、佑子のとこ行ってあげて。」

 香に押しのけられるように立ち上がった克に、彼女が口元を引き延ばした小さな笑顔で懇願する。克は首の後ろに手をあてながら、何も言わずに佑子の隣に腰かけた。

 申し合わせたようにパーキングエリアに駐車された、マイクロバス。佑子はバスが止まるとすぐに、克が座ったのとは反対側の脇腹の裾を持ち上げた。完全にエンジンが止められたことによる、久しぶりの静寂。

 佑子は十数秒ほどしてから、注射器を離す。

 「終わったのか。」

 出来る限り佑子の方を見ない様に留意していた克の、少し素っ気無い声。佑子がインスリンのカートリッジを取り外しながら頷いた。

 「…うん。ありがとう、本田。いつも付き合ってもらっちゃって…。」

「いいって。それより、戻ろうぜ。」

「わ…私、もう少し、ここに居るよ。」

「そうか…。」

 克は立ち上がって、改めて佑子の様子を見た。その顔に、佑子のすがり付く様な視線が注がれる。

 急に気恥かしさを覚えた克は、逃げるように元の席へと戻った。克の移動に合わせて、またエンジンが息を吹き返した。

(4)

 「お疲れ。はい、佑子のあれに付き合うと、なんか喉乾くんだよね。」

 元の席は未だ寝こけている稔と、枕の香に占領されているため、克はさっきまで香りが座っている席に着く。そんな克に、香がミネラルウォーターの入ったペットボトルを差し出した。

 「お、悪りぃ。…なぁ、橋本も、篠原のあれに付き合ったことあるのか。」

 ペットボトルのキャップを弄りながら、克が何気なく尋ねる。それに、稔の頭に手を置いていた香が、特に思うところもなさそうに返す。

 「うん、ちょっと前までは、ずっと私が傍に付いていたんだけどね。実は思わぬ新人の登場で、私、捨てられちゃったのよ。」

 香が意地悪そうな、でもどこか嬉しそうな顔つきで、克に流し目を送る。ペットボトルに口を付けていた克の顔が、さも不味そうな物を飲み下しているように変わる。

 「まぁ、聞いているんじゃないかとは思っていたけどな…。篠原とは付き合い長いのか。」

「うん、小学生からの親友ってやつだからねぇ。だけど、驚いたわ。まさか新しい付き添い役が生まれるとは、しかも男だって。…それが、ミスコン委員長の一人の、本田って知った時はもっと驚いたけどね。」

 香が急に囁くように、克に語り掛ける。克は驚愕の眼をむいて、思わずペットボトルを取り落としそうになる。

 「お、おま…どこで、それを。」

「はっはぁー、解りやすいね、ちみは。んー、本当に完全に隠しと通せていると、思ってたのかなぁー。あんたらが、体制を維持できているのも、知ってて知らん振りしている私たち、善意の第三者のお陰なんだから。解ったら、精進したまえよ。」

「お言葉、痛み入ります…。」

 肩を落として、快活な高笑いを続ける香りに、克はだただ平身低頭する。

 (そうか、篠原から情報が漏れたとばかりも限らないのか。とりあえず、俺が墓穴を掘る様な事を話すのだけは、気を付けんとな。)

 稔はちょっとした駆け引きの行われていたことなど、知る由もなく眠り続けていた。

 「本田さぁ、佑子のこと好きなの。」

 「なんだ、藪から棒に。」

 笑顔を引きしめ切らぬままの香が、車窓に目線を向けながら克に尋ねた。克の耳に、急に走行するバスの音が強くなる。

 「んー、何だって言われると…。委員長さんなら、もちろん知っているだろうけど、佑子って去年のミスコンの優勝者じゃない。」

「ああ。…ところで、そのことはくれぐれもオフレコで…。」

「解ってるわよ。でさぁ、佑子って昔からかなりモテた訳よ。なのに、浮いた話の一つもなかったし、佑子から誰のこと好きだみたいな言葉も、聞いたこと無かった。…ま、お陰でモテない私としては、付き合いやすくて助かったけど…。」

 目線を動かさず小さく笑う、香。克はそんな香を少し眩しそうに見つめていた。

 「そんな、あの娘が男の…本田の話をしたとき。…正直、複雑だったけど、でも…。そうだ、で、結局のとこどうなのよ。本田の気持ちって。」

 香は柔らかな笑顔で、克を見つめる。克はその視線から目を背けずに、だが、空っとぼけた様な口調で言い放った。

 「あー、解んねっ。嫌いじゃないけど。そんな風に好きかと聞かれりゃ、俺にはそう答えるしかないな。なんせ、あいつとは色気の少ない関係なんでね。」

 何を思っているのか、克の笑顔は優しい。香もそれに安心したような、笑顔を返した。

 「そっか、でも誰だってそうなのかもね。…私、佑子が本田に一緒に居てもらってるって話してきた時…失礼かもしれないけど、佑子が心易く思えた理由が本田の義足にあるんじゃないかって思ったの。」

 「まぁ、間違ってないんじゃないか。」

「私も、そういう部分はあったと思う。でも、今日、本田と話していて思ったの。佑子が本田に興味を持ったとしたら、それは本田の…その義足を含めた、本田自身にあったんじゃないかって。」

「どういうことだ。」

 克は笑顔も忘れて、さも興味深そうに香の話にのめり込む。香は稔の頭を撫でながら、ゆったりとした口調で、問い返すように話を続けた。

 「んー、本田って。普通の高校生から見たら、器用に生きている方じゃない。成績もいいらしいし、話も上手いから友達多そうだし、ミスコン委員長に納まったり、…そうそう、その義足のモニターのバイトもしてるってね。」

「篠原の奴、そんな詰まんないことまで話したのかよ。仲、本当にいいのな。」

「ごめん、はしゃいでいた佑子に口を割らせたのは私だから、悪く思わないで上げて。」

 すまなそうに微笑む、香。いつしか、克はそんな彼女に見入っていた。

 「で、話を戻すけど。きっと佑子はこう思ったのよ。また失礼な言い方になるかも知れないけど。本田も佑子と同じでハンデを背負ってる。でも、本田は自分にとって枷でしかないものを、ものともせず上手に生きて見せている。それどころか、何かをそこから得てもいる。そこに、さすがの鉄壁の佑子も、参っちゃったんじゃないかなって。…だから、その、こんなこと私から本田に頼めた義理じゃないのかも知れないけど…。本田に余裕のある時だけでいいから、そんな時は佑子のことを、考えて欲しいかなって…。」

 少し頬を染めながら、俯き語りかける、香。克は楽しげに破顔した。

 「了解した。にしても、さすが前回ミスコン第六位だけのことはあるよなぁ。」

「え、なにそれ。私が。」

 他の感情が入り込む余地のないほど驚く香に、克が腕組みしながら笑いかけた。

 「ふっふっふ。さすがに、自分の順位までは知らなかったようだな。安心しろ、俺達の判断は、容姿、人格、成績、経歴から導き出された確かなものだ。自分は美人だって、高らかに宣言していいぞ。」

「嘘、私が六位なの。…嘘ぉー。」

 「本当だよ。鏡見たことがあるなら解るだろ、自分が申し分ない顔してるって。」

 克の軽口に、まだ疑いの目を弱めない、香。克は窓際に頬杖付くと、そんな香の顔をじっくりと眺めながら、言葉を継いだ。 

 「それに、あって見て確信したよ、俺たちの委員会の眼も満更節穴じゃないってな。お前、さっきモテ無いとか言ってたけど、篠原と美人二人でつるんで、敷居を高くしてたんじゃないのか。…て、聞いてる。」

 「え、うん。そっか、私が六位かぁー。」

 香はまだ信じられないように、何度もその言葉を反芻していた。

 「面白いよな、橋本って。それに、いい奴だし。」

「あ、っと、そうかなぁー。」

 香はこんどは照れてみせる。どうやら、信じ切れないなりに、克の言葉に自信を深めていたようだ。克はそんな香を見つめながら、バスの振動を体に受ける。

 マイクロバスは青々とした葉を茂らせた、木々の道を通りぬけて、砂利道に入った。佑子の眼はもう、焦点を失っていた。

(5)

 「あーっ、ぼぉっとする…。頭痛い…。」

キャンプ場に到着してようやく目を覚ました稔が、不快感を露わにした顔をさらに顰めている。克はそんな稔に近づくと、その体を軽く肘で小突いた。

 「お前さぁ、本当にやる気あんのか。マジで、いい加減にしないと、参加費用払わせるぞ。」

「だって、私だってどうにか出来ればとは思ってますけど…篠原先輩が私の事を避けてるみたいだし。」

 稔が情けない声を出しながら俯く。克はため息交じりに、その頭を乱暴に撫でた。

 「お前、俺に、篠原とより親しくなって、他の奴が行き届かないところでもサポートしたいって言ったよな。嘘なら忘れてやる、だけど本気で言ったんだったら、今がお前の方から遠慮してどうにかなる様な状況じゃないのは解るよな。」

「は、はい。」

 稔は不安そうな顔を克に向けながらも、それでも言葉は肯定して見せる。そんな反応に、克はその手を離した。 

 「なら、俺は、橋本たち二人と場所の用意をするから、お前は篠原誘って、バーベキューの下準備をする。いいな。」

 そういうと、克は稔の背を押しながら、車からすでに荷物を下ろし始めている三人に、謝りながら、近づいて行った。

 どうにか段取りを付けて、佑子と稔を二人きりにした、克。

 何かを察したのか、香も反論などせずにその振り分けに納得。当の佑子も、言葉少なに応じるに至って、稔は歓喜の声でも上げるかの様に顔を満面の笑顔で一杯にしていた。ただ、克が稔に、

「よかったな。」

と声を掛けた時、佑子が稔の方を一睨みしてから無言で立ち去ったことは、香と克を多少困惑させはした。

 克はその時の佑子の瞳を思い出す度に、作業の手を止めて思い惑った。いや、きっと解っていたが、何かがそれを考えることを拒んだのだ。その何かが、何なのか克自身に解るのは、まだ先の話…。

 香はそんな様子の克に気付くと、軍手を嵌めた手でその肩を軽く叩いた。

「どうしたの、本田。二人のこと気になる。」

「橋本…やっぱ解るか。」

「見え見えなんだよねぇ。どうせ、稔に頼まれたんでしょ。仕方無いわねぇ、あの娘も。…しょうがない。先生、こっちの準備はだいたい終わりましたし、本田には向こうの手伝いに行ってもらいますね。」

 「えー、そうねー。じゃあ、向こうの方、お願いね、本田君。」

 鑑定士の様に木炭を日に照らし眺めることに熱中していた紀子が、眼の色を炭に色にして応答する。その、こちらに眼さえ向けない紀子の様子を、香は面白そうに見てから、克の軍手を預かって、彼を促した。

 「二人のこと、よろしくね、本田。」

「悪いな、橋本。この礼は、猪山のやつに俺の分ともどもさせるから。」

 そういうと、健康的な色の腕を振って見せる香に見送られながら、克は佑子と稔のもとに向かった。

(6)

 克がキャンプ場に設置されている調理場にたどり着いたとき、二人は違うテーブルで逆の方角を向きながら、黙って野菜を切り分けていた。克の到来に気付いた、二人がそれぞれ異なった目つきで克を見た。

 「どうだ、進み具合は…えっと、俺も手伝いに来たから何か仕事くれよ。あ、稔、思えは本当に手際が悪いな。まだ、篠原の半分も切ってないじゃないか。よし、俺も手伝おう。」

 克は睨むような視線の方を受け流して、助けを求めるような視線をした方のテーブルに着いた。

 「お前、またかよ。遠慮するなって言ったろ、ほら、話しかけろ。」

「やっては見ましたよ。でも、一言くらいしか答えてくれなくて…私、篠原先輩のこと怒らせるようなことしましたか。」

 小声でけし掛ける克に、涙眼の稔が尋ねる。困った様に佑子を見た克の眼が、責めるような佑子の眼とぶつかる。

 (機嫌が悪いのは、確かなようだな…。まぁ、猪山には問題のある態度がかなりあったからな。遅刻したり、寝たり、手際が悪かったり。…仕方無い、また話でっちあげて、猪山に興味持ってもらうことから、やり直すか。)

 野菜を次々と鮮やかな手付きでカットしながら、思考を巡らせる、克。稔はそんな様子に少し関心しているようだ。

 「上手ですね、料理するんですか。」

「野菜をぶつ切りにするのに、上手いも下手もないだろ。ほら、稔、しゃべっていいけど手は動かせよ。たく、お前は昔からそそっかしいんだよなぁ。」

 「あ、す、すいません。」

 いきなり、話を返されて、稔は思わず謝ってしまう。克は佑子の無表情を確認すると、それでもさらに言葉を継ぐ。

 「そういえば、俺達、キャンプするのは初めてだな。」

「えっ、ええ、そうですね。」

 稔は少し慌てた様子を見せたが、すぐ克に合わせるような答えを返す。克は思い出し笑いを作ると、さも楽しそうに話してみせる。

 「結構いろいろなことをやったし、いろんな場所にも行って。その都度稔の粗忽ぶりには慣れたつもりでいたけど、まさか、また新たに失望させられるイベントが残ってたとはね。そういえば…。」

 いきなり、克の話声を遮って、金属音が響く。克と、稔がその方をむくと、能面の様な無表情の佑子が手にしていた包丁を投げ出していた。佑子はおもむろにエプロンを外すと、調理場の外へ向かって歩き出した。

 「おい、篠原。どこ行く気だ。」

 克が急に動き出した佑子に聞いた。隣では、稔が少し怯えたような、不安そうな顔をしていた。

 その声に佑子は振り向くと、先までの表情の無かった顔が冗談だったかのような自然な笑顔で、

「ちょっとね。すぐ戻ってくるから。」

と二人に言い残すとその場を後にした。

 軽い息を吐き出して、稔は安堵したかのような顔になる。しかし克は胸に何か引っかかるものを感じながら、佑子の使っていたテーブルの周りを見渡した。そして…。

 「なぁ、猪山。今日って、包丁は何本持って来てたんだ。」

 努めて平静を装って、克は稔に尋ねた。稔は玉ねぎを切りながら、答える。

 「二本ですよ。あと、果物ナイフが一本。それが、どうしたんですか。」

「そうか、じゃあとりあえず、ここに俺の仕事は無さそうだな。…俺、橋本たちの所に戻るから、お前はお前で上手くやれよ。」

 「解りました。って、先輩。どうしたんですか、そんなに急いで。」

 驚いたように声を掛ける、稔。しかし、走り出していた克にその声は届いていなかった。

 木に覆われた道は、この陽気にも暗い。克は不安な気持ちを抱えながら、去り際の黒々とした瞳へと踏み込んで行った。

(7)

 調理場を離れて、佑子は一人小川の前で膝を抱えていた。すぐ手の届く場所には、プラスッチクのキャップが付いた果物ナイフが一本。

 見るともなく、清流に焦点を結んでいた佑子の体が、一瞬ビクリと動く。

 そして佑子は果物ナイフを右手でつかみ上げると、外したキャップを丁寧に近くに置いて、おもむろに振り上げた刃を自分の左手に向けて、振り…。

 「本田…。」

 佑子は振り返ると、自分の右腕を掴むものの名前を呼んだ。

 克は苦しそうな息を吐きながら、しばらく固まっていた。そして、大きくため息を吐くと、佑子を刺激しないように、静かにナイフを奪い取って、落ちていたキャップを嵌めた。その間、佑子は何の感動も無い顔で、ただ黙ってその様子を見つめていた。

 克は佑子の隣に座る。ナイフはさらにその隣に置かれた。

 「心配して来てみれば…案の定だったな。」

 克が抑揚の乏しい声で呟く。その息はまだ荒い。

 「…だって、私にはこれしか…本田に…。他には、方法が無いんだもん。私、幼馴染じゃないし。…頭を撫でてもらったことも…本田から電話を掛けてもらったことも…人に自慢できるような思い出も…傍で眠ったことも…。それに、見たこと無いから…。ねぇ、猪山さんだけじゃなくて私にも教えてよ…どうしたら、いい。私、もう…他には、どうしようもないよ。」

 「篠原…。」

 深い場所から少しずつ上がってくるような、佑子の声。克は歯の根が凍るよな、寒気を覚えた。しかし、

(このままほっておいたら、こいつ何をしでかすか解らない。橋本を連れてくるような時間もなさそうだし…いや、そもそもこれは俺と篠原の問題か…。)

という諦めにも似た気持ちが、克をこの場所に留まらせた。さっきから、克を見つめる佑子の瞳は、寂しそうに何かを訴えかけてくる。克は意を決して、話し始めた。

 「篠原の気持ちは解った。だから、頼む、自分を傷つけるような真似だけは止めてくれ。」

「でも、私にはそうするしか…。」

 ためらう様な佑子の声。佑子は乾いた表情で、少し笑った。克はその悲痛な笑顔に胸の詰まるような思いを抱く。

 「頼むよ。この通りだ、謝れと言うなら謝る。だから、もうしないと約束してくれ。そうしたら、俺、お前の教えて欲しいってことに答えるから。」

 佑子は変わらぬ表情で克をじっと見ていたが、ポツリと呟きで答えを返した。

 「本田がそう言うなら…。私、約束するよ。だから、教えて。私、どうしたら、本田に、あんなに優しくしてもらえるの。」

 乾ききった佑子の笑顔、さも嬉しそうに歪む。克は鬼気迫る、その悲しいまでの思いに、絶句した。

 「…どうしたの、教えて…。」

 先を促す、佑子。克はそんな彼女に、言葉を欲した。

 「なぁ、篠原。そこまで言わせてから、こんなこと聞くのは卑怯だと思うけど…お前、俺のこと好きなのか。」

 その言葉を聞いたとき、佑子は叱られた子供のように頼りなさそうな顔をした。そして、抱えた膝に顔を埋める様にして俯くと、佑子は震えるように答えを出した。

 「…解らないの。」

「解らない。」

「うん。…私、本田のこと嫌いじゃないよ。それは、絶対なの。でも、私…こんな風に思ったの、初めてだから。…私も初めは本田のことが好きに成ったんだと思った。でも…一緒に居たいと思った…知りたいって思った…それで、もっともっと近づきたいって…食べちゃいたいって…食べて欲しいって…。いっそ、壊したいって…。私、思ったの、この気持ちは好きとは違うんじゃないかって…あーあ、言っちゃった。」

 急に佑子の声が涙声に変わる。そして、その眼は真剣な表情で佑子を見る、克へと返った。

 「言っちゃった。私、言っちゃたよ。アハハッ、嫌われたよね。嫌いだよね、猪山さんが居るんだから…。フフッ、でも良いんだぁ、ククッ、約束したもん、私。教えてくれるよね。ねぇ、どうしたら、私、本田に優しくしてもらえるのかなぁ。」

 佑子は泣き濡れた顔を向けて、克に救いを求める。克は、それでも笑顔を絶やさない佑子に…答えを返せたのだろうか。

 「解らないな。」

「えっ。そ、そんな…。」

 佑子の顔を絶望の色が襲う。佑子は声を上げて泣きはじめた。

 「ひどい、ひどい。だって、答えてくれるって…。」

「だから答えたろ…解らないって。」

 佑子は今度、怒ったような眼で、克を睨む。克の眼も強く、揺らがない。

 「からかってるつもりは無いんだ。本当に、解らないんだ。なぁ、優しくするって、篠原は俺が猪山にした事を挙げたけど、それと同じことをすれば、優しくしたことになるのか。」

「それは、だって…私もして欲しいけど…。」

 「けど、何だ。」

「え、え、何だって…私は、本田のクラスメイトで…幼馴染じゃ…。」

「猪山も、幼馴染じゃないぞ。」

「へっ。」

 佑子は大きく見開いた眼で、飲み込む様に克を見る。

 「悪い、篠原。実は今回俺がアウトドア部に参加したのは、猪山に、お前と親しくなりたいから、手を貸せって頼まれたから何だ。だから、今までの全部演技の嘘っぱち。」

 「そんな。」

 佑子は膝を抱え込んでいた腕を垂れ下げると、へたり込んだ。克は何故か優しく笑う。

 「で、篠原もそういう類ので、いい訳。」

「えっ。」

「篠原美人だから、ただで演技するけど…。ああ、猪山の場合は、例のアルバムの事がバレて、そのことネタにしてやらされたようなもんだから。まぁ、途中からは俺も乗り気だったのは認めるけどな。で、とりあえず、頭でも撫でるか。」

 「…え、演技で…。」

 佑子は、手をひらひらさせている克に、咎めるような視線を送る。克はその頭に手を置いた。佑子は拒むようなことはせず、ただ克の言葉を待つ。

 「俺も篠原と同じだ。」

「同じ。」

 「ああ。つまり、俺も篠原のこと好きかどうか、解らない。嫌いじゃないけどな、例え包丁振り回しているのを見た後でも。」

「本当。」

 佑子は臆病そうに、探る様に克を見た。しかし、その声には隠しきれない喜びが、溢れていた。克は手を佑子の頭の上に置いたままで続けた。

 「本当だ。俺、篠原のいいところ随分と、知ってるしな。まず、美人だろ…。」

「…嬉しいけど、最初がそれなの。」

「事実だ、問題ない。」

 佑子に笑顔が戻った。克はその小さな明かりを逃すまいと、話し続けた。

 「料理も上手いし、思ったより時間にも規則正しい。後輩にも慕われてるし、辛抱強くは無いけど、必ず待っていてくれた。とても、俺には出来ない様なこと、篠原は簡単にやってのけるからな。」

「でも、迷惑していたんだよね。だから、朝にはもう来るなって…。」

 またふさぎ込む、佑子。克はそれでも辛抱強く語りかけ続けた。

 「確かに、困った事もあった。…俺も最初はそう思ったよ。でも、俺、篠原に嫌いじゃないって言われて気付いた。…きっと、俺、篠原の口から今の関係を終わらせられるのが怖かったんだ。だから、そうなる前に、自分でって…それもこれも、俺が篠原のことどう思っているのか、自分で自分が解らなかったからなんだ。まぁ、今でも解らないってことが、解っただけだけどな。…それでも、俺から篠原を拒む必要ないんだってことは、解ったんだ。だから…もし篠原が許してくれるならだけど…お願いがあるんだ。」

 「何。」

 佑子の瞳が、克の姿を離すものかとばかりに、捉える。克は思う。

 (これを言ったら、俺。多分、後悔することに成るんだろうな…。でも、言う。どうあろうと、篠原のこと曖昧に終わらせたままで悔やむよりは、ましだ。)

 克は佑子から手を離すと、その何とも魅力的な瞳に向けて言葉を放った。

 「また、学校に行く前に…朝に迎えに来て欲しいんだ、篠原に。あ、ドアは叩かないで欲しいんだけどな。」

 佑子は心底安心しきった様な顔で微笑むと、何度も首を縦に振って見せた。

 「嬉しい…良かった。これで私、また篠原と一緒に居られる。」

「そうだな…。」

 ようやく二人の間に落ち着いた空気が戻る。克は溜息を吐きたい衝動を必死に堪えて、努めてその和やかさを保とうとした。

 「おう、そうだ。猪山の事なんだけど、今日だけでいいから、仲好くなった振りしてくれないか。一応、俺も約束した手前、惨敗で返させるのは気が咎めるからな。」

「何それ、それじゃ、なんだか私と猪山さんの仲が悪いように聞こえるんだけど。」

 笑いながら抗議する、佑子。もう、大丈夫そうだ。

 「そうは言ってないさ。ただ猪山が満足する程度に、お願いしたいってこと。ありゃあ、初恋かね。」

 「それって、私に…ってこと…。うーん、そうなかなぁ、私、初恋もまだっぽいし…そうだ、本田はどうなの…。」

 佑子は何気なく克に尋ねた。その手は、足もとの石をジャラジャラと弄んでいた。

 「俺は、秘密だ。てか、かなり前だから印象薄いんだよね。まぁ、いい思い出にはならなかった訳でもあるからな…って、言わせんなよな。」

「ふーん、…誰なの。」

佑子は少しからかう様な口調で、追及する。手には石が握りしめられていた。

 「だから、言わないって。」

「教えてよ。」

「嫌だ。」

「どうしても…。」

「ああ、思い出したくも無い様な、失恋劇だったからな。」

「そう、じゃあ、いいや。」 

 そういうと、佑子は持っていた石を川の中へと投げ入れた。そして、立ち上がると服に付いた砂を払い始める。

 「さて、じゃあ、そろそろ皆のとこ、戻ろうか。」

「そうだな。あ、くれぐれも、猪山のこと頼むぞ。」

「本田さぁ。実は私もお願いがあるの…。」

 佑子は立ち上がると、恥ずかしそうに頭をかきながらいった。

 「なんだ、こっちも頼み聞いてもらってんだし、出来る限りのことはするよ。」

 佑子は克の言葉に頷くと、少し申し訳なそうな笑顔で言った。

 「猪山さんとは私が仲好くするから、本田は、今日はもう猪山さんと口を利かないで欲しいんだ。その、私もうこれ以上、猪山さんのこと嫌いになりたくないから。なんか、わがまま言って、ごめんね。」

 何かの音が克の耳の奥で、重なる。立ち上がった克の足は、我知らず小さく震えていた。

(8)

 その後は、何てことのないバーベキュー大会が、淡々と進行していった。

 急に人が変わった様に、自分に優しく接する佑子に、稔は最初こそ戸惑っていたようだが、すぐに一緒になって笑い合い始めた。これなら、克があえて距離おく必要もなさそうだ。

 香は克と佑子が戻ってきた後、克にニヤニヤ笑って見せた。克は自らを襲う疲労感に、ただ笑い返すしか出来なかった。風に湿り気を持った重い木の葉が、ざわざわとお互いの表面を削り合う。

 帰りの車中。結局、ウノは使われることが無かった。



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