第三十七話(仮)
【警告】『ドウカでハカイの 第三十七話』は、『三十六話』の消失部分以降で、復元することの出来た一万三千字程度を1パートに纏めたものです。(※活動報告第四回に記載)
内容は、『三十六話』から『三十七話』までのストーリーで、消えた一万数千字の流れを踏まえたものです。ですので、尻切れとんぼの『三十六話』から、話の辻褄が噛み合っていません。
それでも構わない。…と、そういう読者さまのみ、読んでやって下さい。
それでは、ここまで、ありがとうございました
(1)
「だから、つまり…あの日、佑子は風邪ひいていて…それで吐いちゃって…制服が汚れちゃったから…で、本田がジャージを貸したってこと…。」
克が、公共の、それも食事をすることを目的とした場所では、あきらかに不適切な発言を繰り返してから…多少時間を置いて…。香は時系列を整理する様に、機械的に言葉を並べた。
…そうこうしている間に、佑子もかなり冷静さを取り戻したようだ。…確かに、これしか通りそうな言い訳は無さそうだしなぁ…。
克は香の箇条書き的な質問を丁寧に拾い集めると、
「そっ、あの日は、俺が『これ』を理由に…。」
克は義足の左脚を叩いて、
「体育の授業をサボることを、篠原は知ってたんだよな。…いや、もしかしたら、俺にその気が無くても、サボらされたかもしないけど…。とにかく、篠原は着替え用として俺のジャージに白羽の矢を立てた。俺は、理由が理由だったからな、仕方なくすぐに早退することを条件に要求を呑んだ…と。流石に、学内一と言っても過言じゃない程の有名人の篠原に、俺のジャージ着て校舎をうろうろされるのは困るからな。」
香は佑子の方を振り向こうと…しかし、横に向けようとした首を留めて、なお克に疑問をぶつけ続ける。…香にも、そして佑子にも…これからの二人の関係を、対等な友情を思うならば、当然、譲れない所があるのだろう…。
「でも、なんで本田に…。」
「それは、俺が体育をサボるって口を滑らせてたからかな。俺も、朝の時点で自主休業するつもりで、どうしてジャージだけは律儀に持ってたかと…まぁ、性分としか言いようがないけどな…。」
「だけど…そうじゃなくて…。」
「…あぁ、なんで他の誰かじゃなかったのか。…例えば、橋本とかであった方が、篠原には良かっただろうってことだろ。本当のところは、篠原だってそうしたかったんじゃないのかな。俺もそっちの方が正常だと思うし…でも、橋本はクラス違うだろ。だからあの時、篠原の荷物持って、授業中に学校抜け出せたのは…やっぱり、同じクラスで不良生徒の俺だけだったろうからな。あの日も、今も…仕方なかったかなとは思ってるよ…しかし、よく、学校に戻る時とか、補導されなかったなと思うよ、本気で…。」
香は、克の先々までロジックに根負けしたのか…いいや、そうは思いたくない。
だから…たぶん、自分の隣で、自分のよりも遥かに真剣に克の話を聞いている佑子に、何か共感することが出来たのであろう…。
香は疑心を弱めた、克の心に訴えかける様な目で、
「それじゃあ、本田はあの日、佑子を家まで送って行ったってことなんだ…。」
克は佑子の、なぜかさらに張りつめていく様子に不審を抱きながらも…、
「あぁ、そうだ。あの時間、俺は教室で自習をしていたはずだったんだけどな。…それを思うと、なかなかスリリングな体験だった。」
そこで、また、香が腑に落ちないと…、
「それって、担任に許可取らないで学校を出ったってこと…よくそんなことを…。」
…これの問いは、克の誘導によるところが大きかったようだ…克は『待っていました』と内心ほくそ笑んで、
「担任どころか、保険医の先生にも知らせてないよ。…と、確かに、説明が不十分だったかな。そうだなぁ、橋本が望む通りに、納得させてやれる様に心掛けて話すとすると…もうちょっと、具体的なことを言った方が良かったかな…。」
克は考えていますよと言わんばかりの思案顔で、宙を仰いだ。そして、十分に間を置いてから…、
「あの時は、もう、体育の授業中で、だから始めの内は、俺も教室で自習をして居たんだ。そうしてたら、篠原が教室に入って来て、『早退する。でも、それは、気分が落ち着いてたからのことだ。だから、しばらくここに居る。』…まぁ、確か、そんな感じのことを二言、三言話して…相手が、気分が悪いって言ってるのに、幾らの俺でもそうポンポン話題を投げ与える気にはならなかったからな。…それで、しばらく黙って自習を続けてたんだけど、そのうちに…篠原が『戻した』わけだな。」
「そうなんだ…。」
そう克の話を受けた香の声には、沈静と、その後に残った憂いが滲んでいた。
…どうやら、克の話に、香も折り合いを付けられつつあるようだ。…しかし、まだ何かが足りない、恐らくこのままでは香の胸中のしこりは取り去ることは出来ないであろう。…足りないのだ。克の話だけでは決定的な何かが…。
今、この場で、そのことを最もよく理解しているのは、間違いなく佑子である。それ故に、佑子の緊張は、否応なく、強く、強くなっていく…。
克も、行き届いていないことをぼんやりと感じながらも…とにかく、香の追求が大人しい間に、広げた大風呂敷の中身を包んでしまおうと、言葉の角を結びに掛った。
「屋上で、すぐに橋本の疑問に答えられなかったのは、そういうことだったんだ。…何と言っても、ことがことだっただから、篠原の許可を取らずにおしゃべりするのは不味いと思ってな…なんか、騙したみたいになって、悪かったな。」
…克の、作りものの感情がふんだんに籠った謝罪の言葉。
しかし、『悪かった』などと、どの口が言う…などとは思わないでやって頂きたい。
事実、克は佑子と香の仲を思って、嘘を衝いた。それでも克には、それを誇ろうという気も無ければ、佑子が恐ろしかったからやったという訳でもない…これは、克なりに、『義理と人情を秤に掛けずに済むにはどうすべきなのか。』を必死で考え、その二つを、佑子が、そして香が捨てずに済むにはこれしかないと、すべて承知の上で『ごまかし』という風呂敷で現実を覆ったのである…。
克の取った方法…それは、『不正』であったろうことは認めざるを得ない。それでも、己の身を盾として、この場から逃げなかった彼のことを、その心情が…『善意』や、まして『悪意』など、そんなご大層で、個人的な思いでは無く、もっと…ごくごく有り触れた、安直とも取れる様な…軽い気持ちで、二人の仲を取り持とうと…そんなことを、『考えている』いるのだと、克の為に、そして本日、あまり報われるところの無かった佑子の為に、著者は信じたく思うのだ…。
そして、克は丁寧に包んだ『一つの答え』を香に差し出した。
香は克の瞳を見つめながら、それに手を伸ばして…だが…、
「でも、だったら、あの日の佑子の…どうして佑子は、あんなに悲しそうだったの。」
克は一瞬、険しい、そして、『参ったな。』という表情を浮かべる。
それでも、これは事前に香が指摘していたこと…克もこうなることは解っていたのだろう。克は少し答えづらそうに、が、意を決して口を開く。
「それはな…。」
「ごめん、香。それに、本田…本田の話しい良い様に説明してもらえば、それが一番だと思うけど…でも、ごめんね。これだけは、私から直接、香に謝らせて…。」
突然、佑子が克の言葉を遮る。
驚いたというよりは、緊張の気をみなぎらせて、克は黙って同意する様に口を閉じて、佑子の黒い瞳に後を託した。
「香、ごめんなさい。今度の事もそうだけど…もっと前から…石川との事も含めて、ずっと何も相談できなかったこと…香を、一番の友達を、悲しませてた…。石川のことは…香も気付いてるとは思うけど、私、状況に流されてばかりで…自分では頑張ってる積りでも、でも、どこか…真剣に成り切れなかったんだ。…だから、そんな中途半端な気持ちで香に相談するのが申し訳なかったし…それに、そんな半端な気持ちを香に打ち明けること自体…私、怖かったんだ。…でも、今は、そんな気持ちだけでも香に伝えていたらって思うんだ…ごめん、香…ごめん…ごめん…。」
消え入るような声で何度も謝り続ける、佑子。その瞳をからは大粒の涙が、虚しい宝石たちを潔く放り出す様に、逆さまに落ちて行った。
香は涙に濡れた佑子の手を、克から預かった気持ちで、そして彼女自身の手で包み込む。
「佑子…私、解ってた…ううん、こんなこと言ってるんだから、私も謝らなくちゃね。…ごめんね。私の方こそごめんね、佑子…。私、佑子が私の性格知ってるから、それで気兼ねして相談出来なかったこと解ってた…解ったつもりだったんだ…可笑しいね、現実には、佑子がどんなことを私に話したいかもよく知らなかったのに…でも、そう思うと、私も変に意地を張っちゃって、佑子が打ち明けるまではって…友達のことなのに、相手の気持ち次第だって任せちゃって…違うね。佑子の気持ち、蔑にしてた。ごめんね、佑子。」
香も目に涙を浮かべながら、佑子の手を強く握る。
そうして、どちらともなく微笑みを浮かべ、交わす言葉にも少しずつ明るさを加わっていく。
…場外の、もとい、完全に場違いとなった克は…男と言うのは本当にどうしようもないもので…しばらく、そこはかとなく不思議そうな顔で二人の様子を眺めてから…肩の荷を下ろす様に…いや、もっと正確には…さっきは、追い詰められても頑なに拒んだ、降参の意を示す様に溜息を漏らすと…克は苦笑いを浮かべながら、シートの下方へとゆっくりずり落ちて行った…。
(2)
大通りに面した、そのファミレスでの夜は深まっていった。
辺りは、その場の安らぎを確認し合う夏の虫たちの声以外、シンと静まりかえり…店内のエアコンの平常運転は、三人の頭上で続いてく…。
多少、克を置き去りにする形で、佑子と香の楽しそうな会話は、その蕾を膨らませていく。
「だからね、香さえ良ければ、明日にでも、買い物付き合ってよ。」
そう佑子に促がされて、香は言葉よりも先にこぼれるような笑みで同意を表して、
「うん、行こうか。そう言えば私も、合宿の準備の方は何にもやってなかったな。ペンションは山にあるし…名目は試験勉強のための合宿なんだから、まさか、登山する様なことは…ないとは言えないんだよね、ナナちゃんの場合…息抜きとか言ってさ…。まっ、気合入れてマイクロバスまで借りたナナちゃんをガッカリさせないためにも、私たちもそれなりの用意はしておこうか。」
と、二人は、何度目かの頬ずりの様な笑顔を交わし合った後で…どちらともなく、本日の功労者でもある克に、
「…で、本田も一緒に買い物に行かない。荷物持ちなら、私は…それに、ねぇっ。佑子も大歓迎だよ。…どうする本田。」
そんな風に、香が、佑子が…この時は香だったが…克を労う様に話を持ちかける。
「いや、俺は遠慮しとくよ。…山歩き用の服装だったよな。解った、俺も用意しとくよ。」
それを、克が今の様にやんわりとお断りする。…これが、ここしばらくの、この三人での会話の流れであった…。
夜の熱気を足元に沈める様な、夏虫の音…分厚い窓ガラスに遮られて、きっと三人には聞こえない…。
さて…その様な経過で、また、克を時の流れの後方に遺してままで、佑子と香は打ち合わせを始めた。…そしてこの後に、再び同じように、思い出したように克に声を掛けるのだろう…。
こんなことを、二人は何時までも続けるつもりなのだろうか…その場合は、自分はどの辺りまでそれに付き合ってやるべきなのか…それ以前、すでに自分がこの場に居る理由は、無いのではなかろうか…。
克はそんなこんなを…表面上はのんびりしたように…が、心中ではうんざりしたように黙考する。
…そんな克の思量は…克にとっては幸か不幸か、外れる。
ミルフィーユのように同じ層を重ねる、甘やかな二人…と、外野一名の会話…だが、こんどの段には、なおも、続きがあったようだ。
「じゃあ、私たちは私たちで、明日、買い物に行くとして…でもさぁ…本田。」
ぼんやりと待ち受けていたお呼びが掛って…本来は克の方が客であるはずだが…克はまるで御用聞きのように、香の次の言葉に耳を傾けた。
「本田は、私たちには一緒に行かないって言ったけど…稔とはどうする積りなの。もしかして、もう、稔と約束が出来てるとか…じゃないの。」
香のかなり突っ込んだ、多少は意地悪な質問…。香としては良い傾向かもしれない。内に悩みのあるときは、まず頭をもたげることの好奇心…それに、ここまで自分の関心を割けるのは、それだけ心にゆとりがある証拠だろう。
だから、これは、克に対する当てつけの気持ち…も、あるにはあるだろうが…それよりも、軽くなった気持ちで、のびのびと柔軟をするような。その結果、思いっきり伸ばした腕で、思わず相手の頭を小突いてしまった様なもので、自分と佑子のことに親身になってくれた克に対して、悪気のような悪戯心は…あったろうな、多分…。
克は、殺風景になったテーブルの、その裏側を、指で引っ掻く様に撫でながら、
「猪山と買い物か…考えられないな。いや、考えるまでも無く解る。あいつの買い物に付き合ったとしたら…何かの本に書いてあったな…女の買い物に三時間付き合ったとき、男の感じるストレスは、戦場の真っ直中で、塹壕に独り取り残された兵士のそれに匹敵するとか…それを身をもって体感することになるだろうな。」
うんちくを語れて、少しは活力が戻ったのか。克はニヤリと笑うと、指の動きを止めてあまり耳触りの良くない音を立てる。
香は、克の示したどれが気に入らなかったのか…あるいは全てか…微妙に、逃がそうに口を間延びさせて、
「それ、本田は冗談で言ってるんだろうけど…それでも…やっぱり…稔は悲しむと思うな。」
克は香の顔が緩く、朱みを帯びていくのを眺めながら、
「それは無いって。むしろ、猪山がこの場にいたら喜んだんじゃないかな、俺の台詞を槍玉に挙げて、篠原や、橋本と仲良く俺を糾弾出来るってな。」
「冷たい男ね、本田は…とは、いろいろお世話にもなった私が言ったら反則だよね。ごめん…。だけど、稔には、もっと優しくしてあげても良いと思うんだけどな。…これは、私の希望でもあるんだけどさぁ…。でも、本田だって気付いてるでしょ。…稔が本田のことを好きなこと…。」
香の言葉を聞き終わるのを待てなかったように、克が笑いだした。
今度は、先ほどと違い、なんとか笑いを噛み殺そうと、口に手を当ててみたり、テーブルの裏を叩いてみたりしているが…その甲斐虚しくと言いますか…より一層に不気味で、かつ、あざとそうに見えてくる。しかしながら、克本人にしてみれば、悪気などの類は…あるはな、そりゃあ…。
悪気が有りそうなのだから、怒られてもしかたない。
香にとっては、自分が笑われたのか、それとも、可愛い後輩が笑われたのか…どっちにしたって不愉快なことには変わりは無い。香は赤らんでいた顔を、さっきとは百八十度違う理由で紅潮させた。
「ちょっと、何が可笑しいの。稔があんたのこと好きなのが、何か悪いわけ。」
「いや、そうじゃないよ。猪山の事が可笑しかったんじゃ無いんだ。そうじゃなくて、橋本の勘違いが可笑しくて…怒るなよな、自分から俺にこんな状況をけしかけておいて…。だから、あいつが好きなのは…どの程度深刻に、相手に好意を抱いてるかまでは解らないけどな…とにかく、あいつが好きなのは俺じゃないよ。猪山自身が、俺に、はっきりそいつのことが好きだって言ったんだからな…それどころか、『よりお近づきに成りたいから、手を貸せ。』って、こき使われたこともあるし…。」
「それこそ、本田とお近づきに成りたいから…の、方便じゃないの。そう思うよね、佑子。」
香に話を振られて、フリーズしていた佑子の論理が揺さぶられた。
佑子は自身も硬さを感じる頬を無理に緩めながら、普段通りの澄んだ声音で、
「えっ、んとっ…どうかな、私は…よく解らないかな。…でも、遊園地のときは…。」
最後の言葉は、佑子の内心の水底に沈むように、かすかで、香にも、克にも聞き取れなかった。
二人はそんな佑子に違和感を覚えながら…特に、克は…だが、押し黙って佑子の心境の推移を見守っている。…形だけのフォーローを喜ぶ佑子では無いのは、言わずもがな…。
そして、香は佑子の反応から疎外感に近いものを感得してはいるが…、
「そ、そうかな。確かに、稔にしては行動力が有りすぎる気も…でも、やっぱり稔の態度を見てると…。」
と、自分の公言したことを今更、撤回できない。そうしたくは無い。香は自分の言葉に酔った様に、傍迷惑な気合の入り方で、ブツブツと腑に落ちないのだと呟き続けた。そして…、
「それじゃあ、今日、本田が、稔と二人で屋上に居たのは、どういうことなのよ。」
佑子も、今日の放課後、克が稔と一緒に居たのは解っている。解っていても…改めて、香に指摘された瞬間、佑子の胸は張り裂けそうな程の緊張を覚えた。…佑子には…その感情を表す言葉があった。その名前を知っていた。…だが、そうすることを、芽生え始めた彼女の…特定の誰かにのみ働く、あの厄介な『幼い自尊心』が、許してくれるはずもない…。
翳りは無い、しかし鉄のように固い面持ちで、佑子は一人、じんとする胸を撫でた。
そう言えば克は…克の方は…内心で、ほくそ笑んでいた。
(はぁーん、なるほどね。橋本もとは、そういう考え方で俺と猪山のこと…まっ、そこまで煽り立ててくるんなら、良いだろう。…橋本がばらして欲しいと思ってるかは定かじゃないが、それも良い…。第一、ここまで来たら、言わなきゃ収集つきそうにないしな。…そういう訳で、今日は特別に、俺が洗いざらいのことを明かしやるよ。…にしても、一番割を食ってるのは猪山だろうな。まぁ、あいつは怒らないよな。篠原のためなら、出来るだけ協力してくれるそうだし…。)
また、克が良からぬことを決意した。ここまで来ると、危なっかしくて見ていられない…が、香と佑子の二人に任せてしまうのも、それは危険がともなう…ましてや、もしここに稔が混じっていたらと思うと…。
鉄は早い内に打てという諺もある。この克の大胆な対応が英断となることを期待しよう…それは、それとして、稔がこの場にいたらとしたという話…きっとその時は、話のあまり展開に、やっぱりと言いますか、知恵熱を出して話に成らなかったろうなぁ…。
テーブルとテーブルの間に広がり、伸びる、フローリングと影に視界の四方潰しながらも、克は二つの人型のシルエットを忘れぬように見つめながら、
「おいおい、橋本さん…お前がそんな言い方するってことは、俺と猪山の間にただならぬ雰囲気を感じたからなんだろ…だったら、俺の事は幾らでも後に回してくれても構わないけどな。もう少し、猪山の立場を勘繰って…じゃない。考えて…思い付いたから、即、話すっていうのは、控えた方が良いんじゃないか。」
と、もっともらしいことを言って、香をたしなめてから。佑子の方を見て、
「篠原も、俺が猪山に教室から連行されていくさまを見てたろ。告げ口しろとは言わないけど、猪山があんな騒がしい真似して、それから、俺と何かある訳無いって、それくらいの事は言って間を取り成してくれても良かったんじゃないか。」
佑子は拗ねたように克の双眸から瞳を外した。
「…知らないよ、そんなこと言われても…あれだけ目立って置いて、勘繰るなって方が無理でしょ。だいだい、クラスの皆には何て言い訳するつもりなのよ…大変でしょ、明日の朝とか…。」
克は佑子の態度にも、飄々として、臆することは無い。そうして、佑子に言わせっ放しで、再度、香の方を見た。
「なぁ、橋本が言いたかったのも、つまりそういうことだろ。…俺が、猪山に告白されてると思ったんだろ。屋上で…自分みたいに。」
「ちょ、ちょっと、本田…。」
香は慌てて腰を浮かすと、克の吐いた言葉を押し戻そうと、右手を克の方へ突き出す。そして、チラリと窺う様に佑子の方へ首を振って、
「ちょっと…なんで、本田の口からそんなこと…。」
「駄目だったか…。」
「当り前でしょ…。」
憤激している…訳ではなさそうだ。しかし、香はかなり狼狽している。
そんな、心の平衡を欠いた香を、克は応じる様に両手を前に出した押しとどめながら、
「まぁまぁ、抑えて抑えて。…ところで、篠原、明日のクラスメートの反応に関しては問題は無いよ。俺も根回しはしておくつもりだから。」
佑子はこれといって興味は無い様に、
「へぇ、本田がそう言うと、そうなるのかな…何か、説得力があって怖いな。…それで、本田は猪山さんと何を話してたの。私も知りたいな…早めに…。」
克は佑子の冷静な、あるいは冷然とした態度に、満足そうにほほ笑む。
「言って良いのか、篠原。」
「うん、何となく察しは付いてるから…でないと、本田がこの話に私を巻き込む理由も無いしね。」
そう呟いて…佑子は克に移された平たい笑顔を香に向けた。
香は、自分の話でもされていると思っているのか、ハラハラとしながら克と佑子の会話を聞いている。克は、そんな感情表現を決めかけていた香の、心の奥底にあるルーレットのレバーを引く様に手を差し出した。
「今日、俺が屋上で猪山と話してたのは、篠原の事…具体的には、篠原がなんで石川と別れたのか、その辺りの事情で、俺が知っていることを洗いざらい吐けって言われたよ。まぁ、俺は何も知らないに等しい訳で、猪山にとって有益な情報は遣れなかったけどな。…それで、なぜ、篠原の別れ話に、猪山にとって有益な情報が混じっている可能性があったのか…それが、さっきの答え…つまり、猪山は、自分の好きな篠原佑子先輩のことは、一つでも多く知って置きたかったってことだな。」
差し出した手を佑子の方に向ける、克。その仕草は、まるで、彼女を無人のはずの客席を占める気配たちに紹介する様な…それでいて、今より立ちあがろうとする佑子の体重をその手で支えようとする様な…どこか、冗談めいた優雅さを感じさせる。
克はその手を香に向けて、
「それから、俺と猪山が話し終えた後、屋上から下る階段で鉢合わせたのが、橋本が男子生徒に告白されている場面だった訳だな。…相手が誰かまでは、残念ながら俺は解らないんだけど…最初が、猪山で、次が俺…順番に橋本と出くわして…猪山はあっぱれ逃げ切ることに成功したんだけど、俺は橋本にとっ捕まって…そして、篠原が眼下の踊り場にお出まし遊ばされた、あの瞬間に至るって訳だ。…ちなみに、その間に話した内容は…それこそ俺の口からは、ちょっと言えないなぁ。…さて、こんな感じだが、どうかなお二人さん。」
克は手綱を引く様に、手を握りながら、腕を退いた。
佑子と香は、顔を見合わせ、克の平然とした二ヤケ面を仰ぎ、それなりに忙しそうに頭を働かせていた。
そして、思考の整理を佑子より一馬身早く済ませて、香が先方として克に溜息を浴びせかけた。
「『どうかな』って、本田…あんたねぇ。ハァッ、でも、正直なところ、また私たちの代わりに手間を省いて貰ったというか…そういう、部分は否めないんだよね。何か、気に入らないけど…。」
「そんな、嫌そうにいうことないだろ。」
「言いたくもなるよ。…仕方ないでしょ、解っちゃうんだもん。本田が私たちの話しが通じあい安くなる様に、筋道立てて話題を構成してくれてること…だから、とりあえず、お礼は言うよ。ありがと、本田。…ていうか、やっぱり、そんな風に考えれば、考える程、素直に有り難がってる自分が面白くないんだよね。」
と、香は歯痒さを抑えられぬとばかりに、抱えた頭を掻いた。克はどうしたことか、そんな香を鼻で笑うと、
「要するに、俺の手のひらの上で転がされてる様で面白くないんだろ。それは、悪いことしたな。実は今日、そういう話し方は人を不快にさせるから止めろって、篠原に窘められたばかりだったんだけどなぁ。なっ、篠原。」
克の告白に香は少し意外そうに佑子の顔を見る。佑子は束の間、眉をひそめた様に見えたが…すぐに、あきらめた様に、そして香にもそう促がす様に、息を一つ吐きだした。
それで、ようやく香も妥協という細く、険しい道を選ぶことが出来たようだ…流石は、アウトドア部。…とにかく、香は、溜息で吐きだした分の息を、克の文言に応えるために吸い込むのだった。
「もしかして、今ので、自分の事を話したことで…私たちの『事』を暴きたてたのと、おあいこだとか言うつもりじゃないでしょうね。」
それに、克は大袈裟に驚いて見せる様に、
「とんでもない。むしろ、俺の方がお前たちよりも多くを白状してるんだからな。俺の方こそ、お二人さんが俺とつり合いが取れる程度まで話合ってくれないと、放免することは出来ないな。」
香は克の言葉を聞いて、呆れた様に、気持ち良さそうに、よく加湿された息を吐きだした。
「どうしてそう…まぁ、その通りかもね。実際、佑子に、私が今日、告白されたことを伝えようと思ったら、本田にさきに話しちゃったこととか…一番に佑子に報告できなかったことを避けて話すわけにはいかないからね。…その、悩みどころを解消してもらった上に、筋道まで付けてもらったんだから…ここで私が言わない訳にはいかないわよねぇ…。」
「篠原も橋本も、本当に物分かりがよくて助かるよ。それじゃあ、興が冷める前に、ずずいっとお互い歩み寄って下せい。」
と、克の入れた茶々は無用である…。
香は先程の涙の和解の時の様に、佑子の方へと身体を傾けて、
「佑子、話すのがずいぶん遅れちゃったんだけど…それに、本田に先を越されて、言われちゃったんだけど…ううん、これは本田が悪い訳じゃないね。もし、こんな機会でもなければ、私から佑子に伝えられるのが、何時に成るかも解んなかったと思う。」
そう言って、なぜか、克の惚けた顔を横目で覗った、香。だが、それはほんの一握りの時間で…すぐに、佑子へ向けて先を続ける…。
「…告白されたことを言うのが遅れたのは、どうしてかな…折角、佑子と仲直りできたのに…だから本当は、今日はもう佑子のことを責めるようなことは言いたく無かったのに…て、これじゃあ、本田のことを責めてることになるよね。…ごめん、二人とも…だから、これは、私が、私自身を責めて話してるものとして聞いて欲しいんだけど…それ、許してくれる…。」
佑子は香の願いを、優しい眼差しで、頷いて受け入れた。克はそれに見入っている。
香はしばらく言葉を探す様に俯いてから、話し始める。
「…たぶん、佑子が石川との事を、私にほとんど説明してくれなかったから…それが、ずっと頭のどこかに引っ掛っていて、それで告られたことも言い出しづらかったんだと思う。…それに、佑子とはずっと良い友達でいたから…私の方だけ何でも話して…それは私は悪いことだとは思わないよ…でもね…。でもね、それで私の中に、もし、ほんのちょっとでも、佑子に対して不公平感みたいなものが芽生えたらと思うと…そんな時、どうやって佑子の顔を見ていいのか解らなくて…怖かった…そうなんだと思う。だけど、佑子とは何でも話し合える中でいたから、これからも…。だから…。」
佑子は俯いた香を慈しむ様な表情で覗きこんで、
「もう良いって、香。後は私が話すから…私も香と同じだよ。私、持病があるし、自分で言うのもなんだけど、一般的な感覚とずれてるところもあって…何をしていても明るく成り切れなかったり、人付き合いが思う様に上手く出来なかったりするの。そんな風に思うのは、やっぱり、いつも一番近くに居てくれた香をお手本にしてきたから…それで…。」
佑子はさっきの香と同じように克を横目で覗ってから、
「本田や、猪山さんたちとも過ごす様になってから、そんな思うが強くなってきて…『あぁ、私って香に劣等感を持ってるんだな。』って思う事もあったよ。」
佑子はじっと自分の話に聞き入っている香に笑顔を見せた。
「私たち、同じだよ。だって、もし香が私にとっての一番の友達じゃなかったら、私は香に対して悔しいなんて気持ちには、そんな…嫉妬するようなことは無かったと思うから…。」
そこに涙は無かった。香はうんうんと頷きながら、感じ入ったように、愛おしそうに佑子に微笑み返している。
そして、佑子が少し恥ずかしそうに咳払いをして、
「そ、そういうことだから、私だって、香とずっと仲良くしていたいと思うよ…。」
「もう、本当、佑子可愛い。」
と、佑子が言い終わりに被せるように、香が佑子に抱きついた。
「佑子は本当、可愛い子だよ。もう、絶対、石川にも、悪いけど稔も、勿論、本田にだって渡さないから。佑子は私のものだ。あぁ、もう本当、可愛い。髪の毛サラサラだし…。」
香は嬉しさを爆発させて、佑子の頭を撫でまわした。佑子は顔を紅くして、
「ちょっと、香。ちょっと、落着いて、ね。ほら、本田も見てるから。」
と、気忙しそうに、黒い瞳を克と香の間で行ったり来たりさせていた。
そんな様子に、克…一抹の不安を覚えていた…。
…佑子のその瞳。そして今、佑子の話した言葉…そのどれが自分にそう訴えかけてくるのかは、克にも良く解らない。だが、佑子の話に耳を傾けている内に感じた…なぜだろう…まるで、未来へと続く仄暗いトンネルの真ん中で、知りたくも無い、明日にも訪れるかもしれない出口の風景を見てしまった様な…そんな、言い様の無い、そして、否応も無いであろう前途への焦燥…。
全てはこれで決着を見た。その頂きで、克の身心は重りのような冷や汗に温もりを失っている…。
…それでも克は、肩の鈍い感覚を振り払う様に、二、三度手を打ち鳴らして、
「はいっ、いちゃつくのは、それくらいにしておけ。というか、してください。…2メートル以内でそんな姿見せられてる方には、目の毒だからな。」
香はしぶしぶと、
「えーっ、野暮だねぇ、本田も…。」
と、言いながらも、割合、素直に佑子から身を離した。佑子の艶やかな髪に触れていた手は、まだ未練が有りそうにしているのだが…。
「それにしても、ずっと気に掛ってたこととか、これから気にしてなきゃいけなかったかもしれないこと、今日で一気に、全部が解決しちゃったな。やぁ、なんか、得した気分。」
香は…確か、彼女は食事を済ませては無いはずだが…満腹とでも言いたげな弛緩した顔で、ドカリとシートへと倒れ込んだ。佑子は、克と顔を見合わせて笑っている。
「満足したか、橋本。」
「うん、大満足。あぁ…何か、どっと疲れてきたな。それに、言い気分で…後は、もう寝るだけって感じ…でも、化粧落とさないと…いけないけど…それも、面倒くさい。」
香は少しずつ瞼を下ろしながら、佑子にもたれ掛かっていく。
克はまた珍妙なものを見る様な目で、その絵を眺めながら、
「これで、この場にいるやつは皆、万々歳って訳だな。…で、貧乏くじ引いたのは、この場に居ない猪山だけと…。」
と、香は克のそんな言葉を聞いて、むくりと起き上がると、
「そうだよ、本田。稔にはしっかりと謝って貰わないと、私、稔の先輩として困るからね。」
克は可笑しそうに、小さく笑い声を立てて、
「解ってるって。その時は、三人仲良く猪山に頭下げて許しを乞おうな。」
それに、香は楽しそうに右手を軽く上げて、
「良いね。私、賛成。頭を下げられて、可愛く慌てる稔の顔見たいし…。それに、また、このメンバーで四方山話に花を咲かせられたことのお礼も言いたいから。謝っちゃおうか、稔に。ねっ、佑子も。」
佑子は香に同意する様に、和やかな笑みを浮かべる。その笑顔のまま、再び、克と顔を見合わせて、左手を前に…その指は…人差し指が、クイクイと動いて、克に『おいでおいで』している。
克は佑子とは似ても似つかない間の抜けた笑顔で、テーブルを乗り越える様にして佑子に耳を突きだす。
佑子も同じ笑顔で克の耳元に顔を近づける。その笑顔で…両手で筒を作り、克の耳を覆う様にそれを押しあてる。それから、まるで克の耳に口を突っ込むかの様に、さらに近付いて…小さな声で、
「…何で、私が猪山さんに謝らなくちゃいけないの…。」
「えっ、へぇ。」
克は佑子の言葉の意外さと、首筋を走るこそばゆい感触に素っ頓狂な声を上げる。
その瞬間、香が、さっきの克を彷彿とさせる様な豪快さで…ただ、彼女の名誉のためにも、あくまで女性らしく…大きな声で笑い転げた。
克はまだ何を言われたかを了解出来ていないのか。言葉を反芻するように、佑子を何度も見直している。
佑子はその黒い瞳で克を鋭く睨んで…また、すぐに和やかな笑顔で、香の疑問の笑い声を焦らす様に、あるいは煽っている。
…しかし、こんな態度を取ったからとは言え、佑子だって克には感謝するところは香にも劣らないだろう。
だから、佑子の今の目付きと、当てつけがましい笑顔の奥には、決して、悪意などは…無い訳無いわなぁ…。
厚いガラスを揺らす様な、甲高い香の笑い声。それが店の外の虫たちにまで聞こえて、あるいは、驚かせたのかもしれない。
…いつの間にか虫たちは、見えない何かから我が身を隠す様に、ただ夜の静寂にのみ耳をそばだてていた…。
ここまでの文章が、現在、投稿することの出来る全てです。
本当なら、あと二万字程度…『三十八話』、『三十九話』に相当するパートも書き溜めていたのですが…消し飛んでしまったのですぐには掲載することは出来ません。
ですが、ここまで書きだした『猫の居る縁側』の恥の上塗りを、新たな、『梟小路』としての文章で塗りつぶす為にも、いつか必ず…そう、いつか…おそらくは、以前に書いた文章の記憶がきれいさっぱり消えた頃に…改めて、『ドウカでハカイの 第三十六話』を投稿させて頂く所存です。
この作品ばかりは、例え、読んで下さる読者様が一人も居られないとしても…自分なりのけじめとして完結させます。
ですが今は…頭に残っている失った文章の記憶が薄れるまで…もう少し掛るやも知れません…。
最後に成りますが、ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。猫の居る縁側として、そして梟小路として、本当に、本当に、感謝に堪えません。
では、またいずれ、梟小路の『ドウカでハカイの』でお会いしましょう。
…あっ、良ければ、別作品もヨロシク…。




